狂った歯車(3)

 アルセイルでの日々は、憎らしいほどゆったりと穏やかに過ぎた。

 第二王妃として専属の侍女がつき、毎日甲斐甲斐しく面倒を見てくれるし、空いた時間には浜辺へ行って、海の生物を観察する事は続けられたが、しかしそれも虚ろなものであった。

 夜にアーヘルの渡りはほとんど無く、来たとしても甘い睦言も無い行為の後、夜明け前に部屋を立ち去る。王の寵は我らの王妃のものだと、シュリアンの侍女達が廊下ですれ違う時に囁き交わしてくすくす笑っているのは聴こえた。あれだけ自由にできると思っていた趣味さえ、紙にペンを走らせる手は止まり、波の向こうで跳ねるイルカを見ても、心が躍る事は無い。

 何にも気持ちを動かされない、空虚な日々が過ぎる。そんな生活に転換が訪れたのは、結婚から一年が過ぎたある日だった。


 その日は、王宮内が浮足立ったように誰もがあたふたしていた。

「何があったの?」

 廊下を行き交う衛兵を呼び止めて訊ねると、彼は戸惑い気味の表情のままレスナの顔を見て、躊躇いがちに口を開いた。

「いえ、妃殿下のお心をわずらわせる程の事では」

「わずらわしくなんかないわ。聞かせてちょうだい」

 レスナからそんな強気な反応が返ってくるとは思わなかったのだろう。衛兵は目を丸くして驚きを表現した後に、内緒話のように声を低めた。

「イシャナの人間がやって来て、陛下に謁見を願い出たのです。どのようにやって来たのかわからない上に、あまり良からぬ話をしたようで」

 それでアーヘルの機嫌が悪くなっているという。あの男を動揺させた人間がいるという事にはいささか胸のすく思いであったが、しかし。フェルム大陸にあるという大国の人間が、一人でどうやってこの漂泊の島国を訪れたのだろうか。この一年で麻痺しかけていた、知りたがりの性分がうずいた。

「そのイシャナ人にはお会いできて?」

 レスナが瞳に興味を込めて身を乗り出すと、衛兵は「残念ながら」と首を横に振った。

「話が終わって部屋を出て行った後、誰の目にも触れずに姿を消しました。なので皆、余計に気味悪がっているのです」

 その話は、ますますレスナの興味を煽った。どんな人物なのか。一体アーヘルを不機嫌にするどんな話をしたのか。そしてどこへ去ったのか。

「ありがとう。もういいわ」

 レスナは衛兵に手を振って去ると、王宮内を駆け抜けた。

 根拠も確信も無かったが、今そのイシャナ人を捜せば、まだ会えるような気がした。彼の顔を見てみたい。言葉を聞いてみたい。まるで何かに惹き寄せられるように人の少ない区画を駆け抜け、王宮の外れの菜園へ出る。夏の作物が葉を長く伸ばす合間を、きょろきょろしながら歩み進んでいると。

「もしかして、僕を捜してる?」

 からかうように無邪気な声が背後からかけられたので、不意打ちに、レスナはびくりとすくみあがってしまった。

 知らない声にのろのろと振り向けば、イシャナ式の装束に身を包んだ少年が、にこにこと笑いながらそこに立っていた。柔らかそうな黒髪に太い眉、細められた翠眼は、一見女性的で優しい印象を与える。しかし、皮肉げに歪んだ唇、そして何より、前触れの気配を一切感じさせずにこの場に現れた事が、彼が一筋縄ではいかない相手である事をうかがわせた。

「あなた、は?」

 底の知れない穴蔵に入るような不安感に駆られ、一歩、二歩と後ずさるレスナを、愉快そうに見つめながら、少年は悠然と両腕を広げて宣った。

「聞いてるんでしょ? どこからかやって来たイシャナ人。気づかないほど頭の悪い人間に見えないんだけどなあ、君」

 むしろ聡い方だと思うんだけど、と少年はくすくす笑うと、葉野菜の合間をゆっくりと、レスナの方へ向かって歩み寄って来た。

「今のアルセイルにシュリアン以外の王妃がいるってのは、未来が少しずつ変わってるんだ」

 そうして、こちらには理解できない言葉を吐いてほっと息をつくと、反射的に身をすくめるレスナの薄紫の髪に手をやり、満ち足りた様子で優しく微笑む。その笑みは、先程の、うっすらとした恐怖を与えるものではなく、本当に嬉しそうな、年相応の少年に相応しい、温かみを帯びたものであった。

 それを見て、レスナの胸がどきどきと騒ぎ出す。仮にも人妻なのに、他の男にときめきを感じるなど不貞の極みだ。だが、まだ少しだけあどけなさを残す少年の柔らかい笑顔は、レスナの警戒心の鎖をそっと解いてゆくのに充分な印象を帯びていた。

「陛下に何を言ったの?」

 興味がおびえを押し退けて、疑念を口にする。少年はレスナの問いかけに、きょとんと目をみはって小首を傾げたが、「ああ」と不意に喉の奥で小さく笑ってみせた。

「僕の正体を問いつめるより先にそっちだなんて、君はまるで知りたがりの塊みたいな人なんだね」

 そうして、男女の慎みを知らないのかという至近距離まで顔を近づけると、少年は翠眼を笑いの形に細めて、内緒話をするかのように囁きかけた。

「アルセイルに滅亡が迫ってる。だけど、『アルテアの巫女』を手元に置けば、それは逃れられる。王にはそう告げた」

 レスナは驚きで目を見開く。心を揺さぶられる事ばかり詰まっていたからだ。

 アルセイルが滅ぶ。

 アルセイルで過去研究されていた『アルテア』、もういないとされていたその使い手の存在が示唆される。

 それを手に入れれば、アルセイルは滅びの運命から解放される。

 荒唐無稽な話であったが、レスナは何故かこの少年の言う事を信じかけていた。まるで少年の言の葉に力があるかのように、強く惹きつけられたのだ。

 そのアルテアがあれば、アルセイルを救った救世主になれるだろうか。アーヘルも、恩人としてレスナに感謝し、こちらを向いてくれるだろうか。シュリアンを差し置き、一人の女として見てくれるだろうか。

 レスナの瞳に炎が灯ったのに気づいたのだろうか。少年がくすりと笑みこぼれて、小首を傾げた。

「アルテアが欲しい?」

 誘惑の蛇は、ゆったりと鎌首をもたげてレスナを待っていた。いつでも来い、手を伸ばせ、その手に噛みついて甘い毒を注ぎ込んでやる、とばかりに招く。

 放っておかれる日々が終わる。アーヘルにとってだけではなく、アルセイルでの一番にもなれる。その魅力は、レスナから冷静な判断を奪ってうなずかせるには充分すぎる引力を持っていた。

 レスナがしっかりと首肯するのを待っていたかのように、少年が目を細め唇を三日月に象る。

「良い覚悟だね」

 ひんやりとした手がこちらの頬に触れ、さらりと髪の毛を撫でて離れる。

「でも今はまだ駄目。時機が早すぎる」

 少年はくるりと背を向け、すっと右手を掲げた。そこには緑色の硝子製の腕輪がはまって、強い太陽光を受けてきらりと輝く。そして左手には、血を凝縮したかのように見える真っ赤な石を握って、それをおもむろに唇につけた。

『アルセイルは本当の危機に陥った時、アルテアの巫女によって破滅から救われる』

 途端。ぶわり、と虹色をした数多の蝗が少年の手から生み出され、飛び立った。こちらの眼前にも迫り、張り付かれるかもしれないという本能的な恐怖で振り落とそうとしたが、蝗はレスナの身体をすり抜けて飛んでいき、不気味な感触ひとつ残さなかった。

 しかし、変化は起きた。蝗が葉野菜に取り付き、紫色に輝いて消えたかと思うと、それまでしゃっきりとしていた野菜が、見る間に灰色の葉へと萎びてしまったのである。

 唖然とするレスナを、少年が振り返る。本当に楽しくて仕方無い、といった態で、彼はレスナを誘うような声色で低く告げた。

「アルテアに興味があるなら、一週間後、またここに一人でおいでよ。教えてあげる」

 そうして彼は唇に赤い石をつけたまま、何事かを呟く。再び現れた一匹の蝗は、今度は紺色に輝いて主の肩に乗り、彼と共にその場から消えた。

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