狂った歯車(2)
そうなるはずだったのに。
アルセイル式の緑の婚姻衣装に身を包み、純銀の飾りがこすれ合って謡うヴェールをかぶったその下で、レスナは屈辱に目を見開き、鮮やかな紅がのった唇を、更に赤い血がにじみそうなほど強く噛み締めていた。
父ナビキの宣言が実行に移されるのはあっという間だった。アルセイルがカルナに接近し、離れてゆくまでは一月と無い。その機会を逃せば、かの島国との接触はまた一年を待たねばならない。その一月の間に、カルナ海軍は総戦力の一割に満たない船で漂泊の島へ攻め込み、反撃の矢が飛んで来た所で尻に帆立てて転進し、さっさと逃げ帰った。そして入れ代わるように長兄のサキラを詫びの使者として送り込んで、アルセイル王の前で頭を下げさせた。
少年王アーヘルは文字通り少年だった。アルセイルの戦力を見下して攻め誠に申し訳無かったと一筆したためた父王の書をサキラが読み上げると、
『いや、カルナ王の兵達の戦いぶりもなかなかのものだった。相手との戦力差を鑑みて戦を辞める決断を下す判断力も、上に立つ者には必要な力と勇気であろう。休戦の使者に跡継ぎのそなたを送って来る度胸も素晴らしい』
とナビキの指導力を褒め称え、アルセイルとの友好の証に末姫レスナを輿入れしたい、との申し入れを、一も二も無く受け入れて、「ちょろいものよ」とナビキの鼻の穴を満足げに広げさせた。
かくしてレスナは、カルナが誇る真珠の装飾品と、そこから得た様々な宝物を結納品に、アーヘル王の妻となるべくアルセイルの船に乗った。
『是非、
とアーヘルのたっての招きで、カルナの船で父兄達もアルセイルへ上陸する事となった。
だが。
アルセイル王妃としてこれからの解放された生活に胸を高鳴らせていたレスナの喜びは、婚礼の場に辿り着いた時、驚愕から、そして絶望へと変わった。
王宮の式典会場に正装して現れたアーヘルの脇には、青い衣をまとった黒髪の美女の姿があったのである。
「紹介が遅れたな」
ヴェールの下で唖然とするレスナと、呆然とする賓客席のナビキ達に向けて、アーヘルはさも当然といった態で女性を示した。
「余の第一王妃のシュリアンだ。レスナ、そなたは第二王妃となる。アルセイルの生活でわからぬ事があったら、彼女に訊くと良い」
そんな事は婚姻の話が進められる中、一言も触れられなかった。シュリアンと呼ばれた第一王妃は、ふっくらした唇の両端を不敵に持ち上げて、流れるような所作でゆったりと腰を折ると、
「よろしくお願いいたします、レスナ殿。王妃同士、仲良くいたしましょうね」
と、そんな心づもりは全く無いという挑戦的な声色で告げた。
アーヘル王は無知な子供などではない。それどころか、年齢に似合わぬ狡猾さを備えた、とんだ猛獣だ。父が、兄達が絶句しているのがわかる。歯を立てたレスナの唇が遂に切れて、血がにじんだ。
枕元で焚かれている香に混じって、花のにおいの香水がふわりと漂う。湯浴みをして薄手の緑色の衣に身を包んだレスナは、ランプのほのかな光がぼんやりと辺りを照らす中、寝台の縁に腰掛けて、来るべき者を待っていた。
寝台に敷かれた厚手の布の下には、ナビキから託された短剣を忍ばせてある。アーヘルが少しでも隙を見せれば、即座に喉笛をかき切れるように。
だが今、レスナの心を占めているのは、暗殺という昏い決意よりもなお煌々と燃え上がる炎だった。
存在を知らされなかった第一王妃。さも当たり前のように王の隣に立ち、挑戦的な視線を送って来た青の瞳が、脳裏でちらついて苛立ちを煽る。
だが、もし。第二王妃でもアーヘルがシュリアンを差し置いて自分に寵を注いでくれるなら、厚布の下の刃を彼に振り下ろす事を止めて、逆に父達に向けても良いかという思いが、レスナの脳内をじわじわと浸食していた。
アーヘルが、自分を認めてくれるなら、カルナに背を向けアルセイルの王妃として生きる道も楽しそうではないか。
そう考えて、うっすらと笑みを浮かべた時、部屋の扉が開いて、薄着の少年王が部屋に入って来た。
「お待ちしておりました」
レスナは立ち上がり、さらりと衣擦れの音を立ててしなやかに頭を下げる。
「随分と大人しいものだな。噛みつかれるかと思ったが」
「何故、その必要がありましょうか」
揶揄気味に口元を持ち上げるアーヘルに対抗するように、にこりと笑みを返す。少年王は両肩をすくめてレスナの元に歩み寄って来ると、こちらの手首をぱしりとつかみ、引き倒すように寝台の上に組み伏せた。背丈がさほど変わらない割には意外と逞しい身体つきを目の当たりにして、不本意にも頬が火照り、心臓がばくばくと脈打つ。
唇に柔らかい感触が当たる。生まれて初めての口づけにレスナが反射的に身を固くすると、喉の奥で笑うような声が聞こえた後、頬を辿り、首筋にちりっとした痛みを刻んで、アーヘルの顔が耳元に寄せられ……、
「父親の野心があってこの話に乗って来たかと思ったが、お前の意志は異なるのか?」
と、やけに低い声で囁かれ、先程までの緊張とは異なる理由で、心臓が大きく跳ねた。
この少年王は愚昧ではない。それは結婚式で初めてシュリアンの存在を明かした瞬間にわかりきっていた事であるが、こちらが思っている以上に全てを見透かしているのだ。動悸の音がどくどく鼓膜に響き、冷や汗が噴き出る。
「では、この結末はお前も望む所か?」
アーヘルはふっとレスナから手を離し、身も離すと、窓際へ歩み寄り、勢い良く窓を開け放った。外の生ぬるい風が吹き込んで来る。だが、風の温度より何より、そこに繰り広げられた光景に、レスナは息を呑んで目を見開き、寝台の上で呆然とするしか無かった。
海上で、船が燃えている。あの影はアルセイルのものではない。カルナの船だ。しかも、父と兄達が乗って来た。
「もう帰ると言ったのでな。たっぷりの酒を持たせて沖へ離れた所に、火矢を射かけた。よく燃えるだろうよ」
レスナは最早絶句するしか無かった。アーヘルは肉食獣だ。刃向かう者に容赦無く牙を突き立て肉を貪る、獣の王者だ。
あの炎は、レスナの家族を呑み込んだだろう。ナビキも、サキラも、マルクルも、ミキヤもジオもメレイも、海上で逃げ場を失って絶望の内に死んだのだ。
やがて炎が波間に呑まれ、ゆっくりと船が沈んでゆく。
「さて」
船が跡形無く消えるまで海を眺めていたアーヘルが、にやりと笑いながらこちらを向いた。
「お前はどうする? 父親達の仇を討つか? そこに隠した刃で」
無意識の内にのろのろと手を伸ばしていた短剣に触れた指が、びくりとひきつった。やがて手は抑えようもなくがくがく震え、ぽたり、と厚布の上に雫が落ちる。
父達など、いなくなっても構わないはずだったのに。アーヘルと幸せな新婚生活を送るのが最高だと考えていたはずなのに。
いざその時を迎えたら、悲しみが怒濤のごとくレスナの胸に押し寄せて、涙がとめどなく流れ落ちる。布ごと強く握り締めた拳は指先が白くなり、口からはしゃっくりのような声しか出ない。
アーヘルはそんなレスナの様子を、冷然とした目で見下ろしていたが、やがてその視線を外すと、「つまらんな」と吐き捨てた。
「シュリアンは最初の夜に、余の首に手をかけて、『あなたがわたくしの見込み通りの男でなければ、いつでも命を奪うつもりでいる事をお忘れなく』などと脅しをかけて来た度胸を持っていたが。お前の覚悟などその程度か」
ゆっくりと窓を閉め、王が踵を返す。部屋の扉は閉ざされ、うすぼんやりとランプの明かりが照らし出す室内には、レスナ一人が残される。
置いて行かれた。父にも兄達にも放っておかれた少女は、愛そうとした男にも見放された。
あまりの屈辱に、レスナは厚布をぐしゃぐしゃに握り締め、誰も聞く事の無い慟哭を迸らせるのだった。
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