狂った歯車(1)

 碧の遠くで水飛沫があがった。紺碧の皮膚を持つ生物が元気良く水面を跳ねて、再び海の中へと姿を消す。

 浜辺に腰を下ろして双眼鏡でその様子を見つめていた少女は、薄紫の髪を初夏の潮風に遊ばせ、同じ色の瞳を嬉しそうに細める。そして、双眼鏡を下ろすと代わりにペンと紙束を手に取って、今目にした生物の絵を軽快な筆致で描き、イルカ、と名前を書き添えた。

 それを眼前に掲げて満足げに微笑む。と、頭上から伸びて来た武骨な手がぱっと紙を奪い取った。

「また生態観察か、レスナ」

 イルカの描かれた紙をひらひら降りながら、からかうような口調を発したのは、六人兄妹の一番上の兄サキラだ。顔を上げれば、十三も年上の長兄は、少女と同じ薄紫の瞳を細めてゆるく笑った。

「お前は本当に、海洋生物が好きだな。男に生まれていれば、研究者の道もあっただろうに」

 レスナが生まれたカルナ国では、兵士と研究者と建設業は男の仕事と決まっている。とはいえ、一方的な女性蔑視の国という訳でもなく、文官や教師など内政に関わったり人材を育てる職業は、女の仕事とされていた。

 だが、自分が学んだ事を教師になって誰かに教える、という将来の展望は、レスナには無かった。ただ自分の気の向くままに海を眺めて魚が跳ねるのを見つめ、浜辺を歩いて貝を集め、自分の好きなように生物を観察して知識を増やす事が、楽しくて楽しくて仕方無かった。

 そんな奔放な末妹の娯楽を、父王や兄王子達は『しょうがないな』と笑ってやり過ごしていた。五人の王子が上にいて、王位からはほど遠く、いずれはどこかの国に政略の道具として輿入れする末の姫。人妻になれば道楽の熱も冷めるだろう、と楽観視されているのだ。

「兄様には関係無い事でしょう?」

 いずれは奪われる楽しみを、邪魔されたくはない。ぷっくりと頬を膨らませて、ひったくるように紙を取り返すと、サキラは手を焼く子供に相対したかのごとく困った笑みを浮かべて、

「たしかに、これは俺が関わる事ではないが」

 と肩をすくめて語を継いだ。

「父上がお呼びだ。お前もおいで」

「……私も?」

 レスナは目をぱちくりさせてしまう。政治の大半は女性が担う事とはいえ、重要な決定はやはり父のナビキや兄達が行い、レスナが関わる事はほとんど皆無と言って良い。会議の場に呼ばれる事もまず無かった。だが、今。

「父上は六人全員をお呼びだ」

 長兄は、父が兄妹全員を召喚しようとしていると言う。一体どんな話なのだろうか。想像がつかずに小首を傾げつつ、レスナは紙とペン、そして双眼鏡を大事に抱え込むと、歩き出すサキラの後を追った。


 フェルム大陸からほど近い小大陸に存在するカルナ国の首都は、南を海、東西北の三方を山に囲まれた、自然の城壁に守られた場所に造られている、三百年の歴史を持つ都である。海で獲れる豊富な魚介類と、山で狩る獣の肉を主食にして暮らし、養殖に成功した真珠で装飾品を作って輸出する事で、国益の大半を得ていた。

『南海の真珠国』という、印象そのままの二つ名を戴いたカルナの王城は、その繁栄ぶりを鏡に映したかのように豪奢な造りをしている。

 二十年前の改修で、異国から運ばれてきたきらきらしい大理石を壁や床に惜しみ無く使い、毛足の長い赤絨毯を敷いて、人の背丈より大きなすり硝子の窓からは、太陽光が適度に廊下に差し込んで来る。

 その廊下を兄と共に歩き、王族が食事を採る広間に足を踏み入れれば、ふうわりと、メイプルシロップの甘いにおいがレスナの鼻腔に滑り込んで来た。

「おお、来たかサキラ。レスナも」

 長い食卓の上座に座して、ぷっくりした頬をゆるめてみせたのは、父のナビキだ。武術は得意ではなく、商売に力を入れて暮らしてきた父王は、食べた分だけ体格に反映され、縦にも横にも大きい。レスナ達と血の繋がりを確信できる要素は、薄紫の瞳だけだ。

 卓に並ぶ食事も、彼の好みをしっかりと受けて、シロップをかけるパンケーキに、干し果物ドライフルーツの練り込まれたスコーン、大麦を混ぜて焼いた生地にカスタードクリームをたっぷり挟み込んだダックワーズと、とにかく甘い物尽くしだ。

 子供達はこれに毎度毎度付き合わされる訳だが、幸い皆、若さのおかげか、はたまた適度に身体を動かしているおかげか、父のような体形にはならず、引き締まった身体を保っている。自分の探求心を満たす為に、城から海岸線まで毎日走っているレスナも、ほっそりとした手足とくびれた腰の、小柄な愛らしさを持っていた。

 長兄のサキラが当然のように父の次の席に着き、一番下手の席にレスナが座ると、焼きたてのパンケーキが運ばれて来る。琥珀色のシロップを少しだけ垂らして、フォークとナイフで小さく切り分けながら口に運ぶ。その間に父はパンケーキを平らげ、スコーンとダックワーズにも手を伸ばしてむしゃむしゃと頬張る。用意されたほとんどは父の腹に収まった。

 王がひとしきり食事に満足し、兄妹達もパンケーキを食べ終えると、メイドがそれぞれの前に置かれたカップに茶を注ぐ。香辛料とミルクで抽出されたチャイには、やはり砂糖がたっぷりと使われ、口に含めばあっという間に甘やかさが広がった。

 甘味を存分に堪能した父が、満足げにカップを卓に置く。そうして、兄妹の顔を順繰りに見渡して、口を開いた。

「お前達もわかっているだろうが、カルナは独力でできる限りの繁栄は充分に果たした。だが、商売には限界がある」

「たしかに。一番の売りの真珠は、使える海域と人手を考えれば、これ以上の増産を見込めないでしょう」

 次兄のマルクルが腕組みして唸れば、父は深くうなずき、「だから」と語を継いだ。

「これからは、領土を増やす事を考えねばならぬ」

 その言葉には、レスナのすぐ上の兄メレイが反応した。

「それは、他国に戦を仕掛けるという事ですか、父上」

 息子の問いかけに、ナビキはたるんだ頬を持ち上げてにやりと笑む。それが答えだ。

「フェルムに挑むのですか?」

「イシャナ? それともセァクを?」

 三男のミキヤと四男のジオが、直近の大陸にある国の名を挙げて身を乗り出す。

「父上、いくら何でもいきなり大陸に挑むのは、絵に描いた菓子を食おうとするような、荒唐無稽極まりない話です」

 意気込む弟達を一瞥して、長兄サキラが冷静に諭すと、父王は、違う、とばかりに、指輪が幾つもはまった指の太い手をひらひらと振った。

「いくら儂でも、いきなりフェルムに喧嘩を売りはせんさ。それより近くに、魅力的な場所があるだろう」

 父の意図がわからなくて、子供達は黙りこくる。だが、兄妹の中でも聡いマルクルが「まさか」と目を丸くした。

「アルセイルですか」

 この南海で、決まった航路を巡る島国アルセイル。カルナより領土は狭いといえど、適切な季節に適切な場所を通る事で、天候は安定し、土は肥えて作物がよく採れ、海の幸も豊富だという。更に、島の奥深くには千年前の失われた技術が存在し、それを解明できればイシャナやセァクを凌ぐ戦力を得る事も可能だと言われている。つまりアルセイル全体が一つの宝島なのだ。

「アルセイルは前の王が死んで、その息子が新王として即位したという。まだ十四の若造だ。だまくらかすのも容易いだろうよ」

 ナビキはにやにやと笑いながら、己の頭を指で小突く。

「馬鹿正直に真正面からぶつかり合うだけが戦ではない。ここで、勝負するのだ」

「……と言いますと、何か絡め手の案が、父上にはおありですか」

 ミキヤの言葉に父王は満足げにうなずき、先を続けた。

「ほんの少しだけ兵を動かして、ちょっかいをかければ良い。それで反撃して来たところに、すみませんでしたと詫びを入れに行って……」

 そこまで言ったところで、父王は立てた親指で首をかき切る仕草をしてみせる。

「小僧の首を取る。王さえ斃せば、小さい島国など簡単に落ちるだろうよ」

 荒事とは縁遠いような体格の父からさらりと述べられた途方も無い野望に、子供達は目を丸くして絶句してしまう。だが、少しばかり時間が過ぎると、父の作戦を咀嚼して、「しかし、父上」とサキラが口を開いた。

「その、アルセイル王の首を取る役目、誰が果たすのですか」

「いるだろう、適役が」

 長兄の問いに、ナビキが老獪な肉食獣のような笑みを浮かべてレスナを見る。兄達の視線も一斉に末の妹に向いた。

「詫びの印に嫁いで、夜の床で王の首を取れ、レスナ」

 一瞬、何を言われたのかわからなくてレスナはぽかんとしてしまう。だが、意味を理解して目を見開いた。父はレスナに、文字通り寝首をかけと言ったのだ。

 レスナは、黙って二、三回大きくまばたきをした。それから、「かしこまりました」と深々と頭を下げる。

「レスナ」

 父が満足げに鼻を鳴らす脇で、兄サキラが案じ声をあげた。

「無理をする必要は無いんだぞ」

「大丈夫です、兄様」

 こうべを垂れたまま、レスナは淡々と語を継ぐ。

「私はカルナの姫。子を産める歳になった時から、いつかはこういう日が来る事はわかっておりましたから」

 そうしてすっくと席を立ち、「では、失礼いたします」と父兄達に礼をして、広間を辞した。

 カルナの王宮内を、レスナは無言で早足に進む。自室に戻ると、父王の話は既に知っていたのだろう、侍女が心配顔で寄って来て、ペパーミントの茶を注いでくれたが、

「しばらく一人にしてくれるかしら」

 とうつむいたままぽそりと洩らすレスナに、彼女はちらちらと不安げな視線を送りながらも退出し、部屋には姫一人が残された。

 レスナはソファに腰かけ、茶に手もつけず、膝の上で拳を握り締めていたが、やがてその拳が、肩が、ふるふると震え出す。しかしその口から洩れたのは。

「……ふ」

 泣き声ではなく、明らかな笑いだった。

「うふふ、あはは」

 心底から楽しくて仕方無い、無邪気な少女の笑いをこぼして、レスナは跳ねるように立ち上がると、両手を広げて、くるくる、くるくる、見えない相手と共にステップを踏んで回転する。

 カルナ王族の姫は、いずれは誰かに嫁ぐ政略の道具。本人の意志など一切考慮されないのはわかっている。だが、その相手が小さいとはいえ海上王国の主であるのは、レスナにとって僥倖であった。

 きっと、海の上なら大好きな生態観察がいくらでもできる。どこぞの貴族の屋敷に囲い込まれ、趣味も取り上げられて飼い殺されるより、遙かに心安い生活が保障されているだろう。

 嬉しい。とてつもなく嬉しい。

 父ナビキの野望も、兄サキラの気遣いも、レスナにはどうでも良かった。勝手に娘を使ってその手の指輪を増やし、勝手に妹を憐れむ心優しい兄のふりをして自己満足に浸っていれば良い。アルセイル王の首を取った後、夫は暗殺者に殺されたと悲劇の新妻を演じて同情を買えば、かの島国で未亡人として好きなように暮らす事ができるだろう。

「ありがとう、お父様」

 普段父に感謝の言葉を述べる事など無いが、今なら心からそう言える。一際高い笑声をあげてぶうんと勢い良く手を振り回すと、重心が傾きよろめいて、足がテーブルを少し強く叩いた。その拍子に茶の入ったカップがテーブルから落下して、がちゃんと音を立てて砕け散る。

「姫様!?」

 一人にしろと言った後に破壊音が聞こえた事に、侍女が慌ただしく扉を開けて入って来る。

「ああ、姫様。お怪我はありませんか」

 侍女は回転を止めて立ち尽くすレスナの顔色をうかがいながら、カップの欠片を拾い集めて、濡れた床を拭く。望まぬ結婚を悲観して自害するつもりではと焦ったのだろう。

 だが、レスナにそんなつもりは全く無かった。はねっかえりの末娘とからかわれて、一人放っておかれた生活からようやく解放されるのだ。喜びこそすれ、悲嘆する必要など何故あろう。

 だから彼女は、笑顔で侍女に返すのだ。

「私なら大丈夫よ。心配しないで」

 そう、何も煩わしい事など無いのだ。これからは、自由で素敵な人生が待っているのだから。

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