夏祭りの夜(3)

 露店が客の興味を惹く方法を、それぞれの店の商売人達はしっかり心得ているらしく、セァク伝統の焼きとうもろこしや、炒めた麺の香ばしいにおいが鼻腔に滑り込んで来て、食欲と物欲を同時に刺激する。

「おなか、すいた」

 インシオンの肩の上できょろきょろと辺りを見回していたエルが、ぽつりと洩らした。言われて、そういえば自分達も昼間から何も食べていなかった事を思い出す。エレは立ち並ぶ屋台を眺めて、インシオンの上着の袖をそっと引いた。怪訝そうに振り向く彼に、一方向を指し示す。

「あれを食べましょう」

 示されたのは、ガレと呼ばれる、セァクの家庭の味ともいえるおやつの店だった。小麦粉に黒蜜と卵と草食獣の乳を混ぜて焼いた生地に、ありあわせの具を巻く。ここではイシャナの豊富な食材のおかげで多少のアレンジが加えられているらしい。

 エレが右の掌を見せて差し出すと、インシオンは、片手でエルが落ちないように彼女の身体をしっかりと支えたまま、もう片方の手で財布を探り、三人分のリド硬貨をエレの手に落とす。エレはたたっと屋台に駆けてゆくと、ガレを三つ両手に抱えて戻って来た。インシオンはただでさえ上背がある上に、今はエルを乗せているので、エレが彼を見失う事は無かった。

「苺とクリームのものと、チョコレートソースとバナナが入ったものと、あとはハムとチーズの挟まったものにしました」

 保存食が主のセァクでは、干し果物ドライフルーツを入れて花の蜜をかけるものが主流だったが、ここでは新鮮な具材のおかげで種類が多く、目移りしてしまったので、店主におすすめを訊いて買ってきたのだ。

「エルちゃんは、どれを食べたいですか?」

 三種類を差し出すと、エルはしばし目をぱちくりさせていたのだが、やがて「これ」と、チョコバナナの入ったものに手を伸ばす。

「じゃあ、私はこれをいただきます」

 エレは苺クリームを確保し、ハムチーズをインシオンに渡すと、各々が無言で頬張り始めた。もちもちとした生地は舌の上でとろけるように消え、残る甘味が挟まれた具材と混じり合って、えもいわれぬ美味さが尾を引き、エレは自然と笑顔をほころばせる。

 あとの二人はとふっとエルとインシオンを見やると、幼女の小さな手には収まりきらず、また、慣れない物を食べづらいのか、食べかすが青年の髪や肩にぽろぽろ落ちていた。赤い瞳が細まり、明らかに迷惑がっているのが、ありありとわかる。エレは慌てて手布を取り出し、黒髪や服についたかすを払ってやった。

「おいしいですか?」

 インシオンの不機嫌にさすがに気づいたエルが縮こまるのを見て、エレは不安を取り除くように笑みかける。エルはまだ少しおびえを残しながらも、おずおずとうなずいた。

 それぞれが食べ終わって腹も満たされたが、エルの母親が見つかる気配は無い。

「こういう所には、迷子案内所があるだろ。そこへ連れて行く」

 このままではらちが明かないと判断したのだろう。インシオンが半眼になって言うと、エルがぎゅっと彼の頭にしがみついた。

「慣れちゃったみたいですね」

 エレはくすりと笑いかける。今のインシオンの言葉の意味を理解したのだろう。なんだかんだで、少女は彼の肩車から離れがたくなっていたようだ。祭りが終わってある程度人がはければ、母親も残って探しているはずだから見つけやすいだろう。それまで一緒にいるしか無いかと思ったが、はっとエレはひとつの考えに至って、インシオンに声をかけた。

「一度、試してみて良いですか」

 聡いインシオンはそれだけで察してくれた。「周りに気づかれるなよ。騒ぎになるからな」と念押しし、道端へと逸れる。

 何事かと身をすくませるエルに、大丈夫、と微笑みかけて、エレは胸元の硝子小瓶を手に取った。その中で揺れる赤い液体。凝固しないように特殊な造りで確保された、エレ自身の血だ。小瓶を傾けて唇にごく少量を含む。そしてエルの頬に手を伸ばして、言葉を紡いだ。

『あなたのお母さんは、きっと見つかります』

 破神タドミールの血を色濃く継ぐ人間の血を媒介とし、濁り無きヒノモトの言葉を紡ぐ事で様々な事象を起こす『アルテア』。この大陸で唯一人エレだけが使える奇跡の業により、指先から虹色の蝶が生み出され、くるくる舞ったかと思うと、白く光って、エルの胸に吸い込まれたのである。

 だがアルテアはそもそも、傷を癒したり炎や氷を呼び出したりと、人知を超えた能力を発するのを主な目的に用いる力である。果たして人探しに功を奏するだろうか。不安がエレの胸をじんわりと苛んだ時。

「――エル!」

 人波の向こうから、少女の名を大きく呼ぶ女声が聴こえて来て、エレ達はそちらを向く。エルの表情がぱっと輝き、「ママ!」と明るい声をあげた。

「ああ、エル、良かった。置いてっちゃってごめんね!」

 清楚な白い服を着た、二十代前半らしき、エルと似た面差しを持つ金髪の女性が、走り寄って来る。

「お母様ですか」

「はい」

 エレが声をかけると、相手は心底安堵した様子で、胸に手を当てた。

「見つけてくださって、ありがとうございました」

「エルちゃん、いい子でしたよ」

「本当にすみません」

 母親は深々と頭を下げて、「さあエル、行きましょう」と娘に向かって手を伸ばす。が、エルは少ししゅんとした表情を見せて、インシオンの髪をつかんだまま、肩車から降りようとしない。この短時間だが、エレ達に愛着を持ってくれたようだ。それは喜ばしい事だが、母親が見つかった以上、彼女は親許へ帰さねばならない。

「……おい」

 大人達が困り顔になる中、インシオンが彼にしてはひどく静かに声をかけた。

「母親と会えたんだから、一緒に帰れ。お前を心配して必死に探してくれる親がいるってのは、すげえありがたい事なんだぞ」

 エルにはまだよくわからないだろう。親の存在の有難味も。実の両親の愛を受けられず、養父に育てられたインシオンだからこそ、この言葉が説得力を持つ事も。エレもふた親を早くに失ったが、セァクで姫として暮らしている間は、弟のヒカをはじめとして様々な人達が傍にいてくれたから、寂しさを感じる事は無かった。ただ時折、どうして自分には親との思い出が無いのだろうと、消えた記憶を掘り返そうとして痛む頭をおさえる夜はあったのだ。

 だが、わからないなりにエルも感じるところはあったのだろう。きゅっと唇を引き結ぶと、インシオンが膝をつくのにならって彼の肩から降り、自分の足で地面を踏み締めて、母親のもとへ駆けてゆき、がばりとしがみついた。

 小一時間ほど一緒にいただけだが、この愛らしい少女とはもうお別れで、恐らく今後二度と会う事も無いだろう。邂逅はほんの一瞬で、彼女が大きくなれば、自分達の事など忘れてしまうに違いない。そう思うと、エレの胸を締めつける寂寥感がある。それでも、この一時の思い出を、何とか目の前の少女の心に残したい。

「エルちゃん」

 エレは少女に声をかけ、歩み寄ってゆく。不思議そうに見上げる瞳に柔らかく微笑みかけてから、胸のブローチを外すと、ワンピースの花柄のひとつに丁度蝶がとまるような位置で留めてやった。

「あげる」

 エルはしばらくの間、自分の胸の蝶とエレの顔を交互に見比べていたのだが、母親にそっと背を叩かれ、「……ありがとう」と小さく礼を述べた。

 少女が母親と手を取り合い、もう片方の手を振りながら遠ざかって、人ごみの向こうへと見えなくなってゆく。振り返していたエレの手がふと止まり、インシオンに背を向けたまま、その手が顔に当てられて、すん、と小さくはなをすする音が聞こえた。

「良かったのか」

 慰めの言葉の代わりに、武骨な手がぽんぽんと軽く頭を叩いて来る。

「お前の為に買ったブローチだったんだぞ」

「いいんです」

 もう一回はなをすすりあげてごしごしと拳で顔をぬぐうと、エレはまだ少し潤んだ目をインシオンに向けて、幸せそうに笑いかけた。

「あなたには、もっといい物をいただきましたから」

 そう言ってその場でくるりと一回転してみせる。ターコイズの布地がひらりと踊り、リボンが跳ねて、スカートの裾がふんわり広がった。インシオンが虚を衝かれたように目をみはり、それから決まり悪そうにがりがりと頭をかく。

「気づいてやがったのかよ」

「シャンメルが教えてくれました」

 買わないと突っぱねた店へ一人戻り、包んでくれと頼んだ時、きっと店主はしたり顔で彼をからかっただろう。それを想像すると笑いがこみ上げるのだが、それ以上に、彼が自分の為に、自尊心に折り合いをつけてエレの欲しい物を買ってくれた、それが嬉しくて嬉しくて、笑顔は自然にこぼれる。

 その時、どおん、と雷鳴のような音が鼓膜を叩いて、エレは思わず両手で耳を塞いだ。どん、どおん、と、爆音は続き、一瞬ごとに辺りが明るくなる。突然の雷雨でも来たのかと焦ったが。

「雷じゃねえぞ」

 苦笑するインシオンに手を引かれ、露店の並ぶ通りを抜けて少し開けた丘へと出る。そこで目にした光景に、エレはぽかんと口を開けて見入ってしまった。

 夜空に咲く色鮮やかな花。

 昼間に音を出す目的で上げるものとは違う。その色と形を楽しむ為の、花火だった。セァクでももっと小型のかんしゃく玉を打ち上げる伝統はあったが、ここまで大きなものを見るのは初めてだ。ジャハナ・タタ独特のこの大型花火こそが、この夏祭りに人が集まる最大の理由である。

 エレはインシオンと手を取り合い、しばらく無言で、次々と宵闇を照らす花に見入っていたのだが、やがて、ぽつりと。

「また、来」どおん。

「あん?」

 花火に言葉じりをかき消されてしまい、インシオンが怪訝そうにこちらを見下ろす。エレは頬を赤く染めて、「……何でもありません」と再び空に視線を戻す。

 また来たい。破獣カイダが消えて、イシャナとセァクの関係にも心配が無くなって、この大陸が平和になったら。この人と一緒に、この場所へ。

 手を繋いで、笑い合って、何の憂いも無く、幸せな気持ちで。

 その時二人はどんな関係になっているだろうか。いまだに遊撃隊の隊長とその隊員だろうか。保護者と娘だろうか。ただのイシャナの英雄とセァクの姫君に戻っているだろうか。

 願わくは、それ以外の、素敵な一言で表せる関係になっていられたら。

 言葉にできないエレの想いを隠すように、花火は大音声をあげて夜空を彩り続けるのだった。

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