狂った歯車(4)

 異変が起きたのは、菜園だけではなかった。その日の夕方には、島のあちこちから、作物がいきなり枯れた、そこまでいかずとも満足に収穫ができなくなった、との報告が相次いだ。

 翌日には、漁に出て行った船のことごとくが、底の見える水槽のまま帰還して来た。

『アルセイルに滅亡が迫っている』という少年の予告は、現実となったのだ。

 明らかな異変に王宮内は混乱しかけ、王の命で兵達が駆け回る。『アルテアの巫女』が国内で見出せない事が判明すると、すぐに捜索班が編成されて、フェルム大陸へ向けて出発する事になった。

 アルセイルの研究者セイ・ギがアルテアと破神タドミールの因子を抱えて大陸へ渡り、初代皇帝として君臨した話は、王族しか入室できない書庫へ王妃として入る事を許されたレスナが、興味本位で閲覧した歴史書に記されていた。あの時は、誇張も含まれた記録だと思っていたが、もしあれが真実ならば、大陸にはいまだにアルテアを持つ人間がいると、アーヘルが考えても不思議ではない。

 事実、レスナの前には現れたのだ。アルテアを使いこなす人間が。

『アルテアの巫女』と彼は言った。女ならば、アルセイルを救うのは彼ではないのだ。もし彼からアルテアを授かる事ができたら、レスナは大陸のアルテアの使い手を待つまでも無く、『アルテアの巫女』になれる。

 また一人でここに来い、と言葉を残し、虹色の蝗を呼び出して菜園を去った少年の背中を思い出す。今日が約束の一週間目だ。

 躊躇いは無かった。レスナは誰も自分に注意を向けていない事を確認すると、王宮の廊下を、緑の薄布を翻しながら駆ける。あれだけ胸を締め付けられた、誰にも注意を向けられない存在感の無さだったが、今は誰にも見咎められない事に感謝すら覚えた。

 果たして菜園に辿り着いた時、人影はあった。灰色の景色の中、振り返る翠の瞳がいやに鮮やかに映える。

「やっぱり来てくれたね」

 心底嬉しそうに、無邪気な笑みをひらめかせる少年を見て、胸が高鳴る。レスナはその場にくずおれると、両手で顔を覆って静かにしゃくりあげた。

「何で泣いてるの?」

 少年がそっと歩み寄って来て、レスナの前で膝を折り、不思議そうに小首を傾げる気配がする。父にも兄達にもアーヘルにも求められなかった自分を、今、必要としてくれる人がいる。その事実が、こんなにも心を温めてくれるものなのかと、レスナは今更思い知った。

 ふっと、レスナの頭に大きな手がのり、優しく撫でてくれる。少年の手だ、と認識した瞬間、更なる感情の波が訪れた。

 少年は、レスナの涙が涸れるまで、無言で、しかしやけに柔らかい笑みを浮かべて、静かにレスナの薄紫の髪を撫でていてくれた。

「……ごめんなさい。驚かせたわよね」

 ようやっと泣きやんだレスナが土を払いながら立ち上がると、少年はきょとんとした表情を見せ、それから、苦笑しながら腰を上げた。

吃驚びっくりしたっていうか」

 彼は翠の瞳を細めて、困ったように肩をすくめてみせる。

「こういう時どうしたらいいか、僕はわからなくて。ごめんね?」

 そんな子供っぽい仕草さえ愛らしい。そう、今、レスナは確実にこの少年に恋をしていた。捨て置かれた少女に『アルテアの巫女』という確固たる立場を与えようとしてくれる、孤独な少女を慰めてくれる、その思いやりに、磁石がくっつくような勢いで引き寄せられていたのだ。

「私に、アルテアを教えて」

 もう涙は去った。決然とした表情ではっきりと告げると、少年は軽い驚きに目を見開き、「意外だね」と曖昧に微笑む。「もっと悩むかと思ってたのに」

 それでも、レスナの中の決意は変わらない。アルテアを得るのが彼の助けになるのなら、協力したい。そもそも彼の放ったアルテアが菜園を枯らしたという現実さえ頭から遠く駆逐されて、レスナの脳内はその想いで一杯になっていた。

 薄紫の瞳から光が消えない事を読み取ったのだろう。少年はひとつ息をつき、

「教える事も得る事も簡単だから、君ならすぐに理解できると思うよ」

 と笑みを浮かべながら語り出した。

 アルテアは『神の力』という、強い破神の因子を持っている人間が、同じ血を口に含んで初めて発動する事。それを得るには、『神の力』を持つ人間の血を引く子であるか、その血を直接分け与えられる事。濁りの無いヒノモトの言語によって発動し、その制約を破れば相応の報いがある事。

 少年は淡々とそれらを説明し、試すようにレスナの顔をのぞき込んで来た。

「どう? これでもアルテアが欲しい?」

 最終確認にも、レスナは躊躇も恐れも見せずにすぐさま首肯した。失う物など何も無いのだ。この少年の役に立ち、アルセイルの救い主になる。アーヘルを、シュリアンを見返せる。その誘惑の蛇はレスナの胸にするりと滑り込み、心の臓に牙を立てて毒を注ぎ込むかのように沁み込んでいた。

 少年がやおら微笑みながら左手に短剣を握ると、緑の硝子製の腕輪がはまった右腕を、一切の迷い無く切りつける。一筋の刀傷が走り、ぽたぽたと血が流れ出した。

「さあ」赤い血潮が、レスナの眼前に差し出される。「これを飲んで」

 レスナはのろのろと手を伸ばし、少年の腕を取ると、顔を近づけた。舌を伸ばして、流れ落ちる紅をゆっくりと舐め取り、ひどく甘いそれをごくりと飲み下す。途端、熱い風呂を浴びたかのように全身が火照った。

 唇を離し、口元についた血をレスナが拳で拭うのを見届けた少年は、満足げに笑った。そして胸元の赤い石を唇につけると、その笑みが瞬時にして、邪悪の化身のごとき、怖気を覚えるものに変わったのである。

『君はエレの助けになってくれる』

 虹色の蝗が彼の手から飛び出し、今度はすり抜ける事無くレスナの顔に張り付いた。驚愕に目を瞠るレスナの眼前で、蝗は黒く輝いて吸い込まれるようにレスナの中へと消える。

 エレ。エレとは誰だ。彼女の助けになるとは何だ。唖然と立ち尽くすレスナに向けて、「あっはは!」と少年が笑いかける。レスナの心を惹きつけた柔らかい温かみは一切無い。狂気すら感じる、そんな顔だった。

「君、僕が君の事を考えてアルテアをあげたとでも思ってるの? そんな簡単に信用したの?」

 明らかな嘲りを投げかけて、少年は両腕を広げてから、目に見えない誰かを抱き締めるように閉じる。

「僕がエレ以外の誰を大事にすると思うの? エレがいれば他には何もいらないんだ。エレを助ける為に必要なら、誰だって利用する。甘い顔だってできる」

 がつん、と。頭を殴られたような衝撃がレスナを襲った。

 自分はこの少年にたばかられたのだ。エレという人間を、少年が救う為の駒として。

 反射的に、レスナは懐に忍ばせていた短剣を抜き放つと、少年めがけて斬りかかる。しかし所詮素人の攻撃。少年が軽く地を蹴って一歩退くだけで斬撃はかわされ、手刀が叩き込まれて、レスナは武器を取り落した手を逆の手でおさえ、呻きながらその場に膝をついた。

 だが、苦しみはそれだけではなかった。突如すさまじい渇きがレスナを襲い、視界がぶれてまともに起き上がっている事ができなくなる。がくりと地に手をついた肘が折れ、レスナはその場に無様に崩れ落ち、角ばった石で頬を切ったが、かつえた衝動の前に痛みなど霧散して消えた。

「ああ」それを淡白な目で見下ろしていた少年が、くすりと笑う。「破獣カイダ化の衝動は出ちゃったか」

 そうしておもむろに膝をつくと、まだ血が流れている右腕をレスナの口に無理矢理押し当てる。要らぬと跳ね除けたい意志とは裏腹に、本能はすがりつくように再び血を舐め、ごくりと嚥下した。途端、あれだけ苦しかったのが嘘のように、体内の灼熱が鎮まってゆく。

「破獣化の衝動に襲われたら、破神の因子を持つ人間の血を摂ればいい。アルセイルは破神研究者の子孫の国だもの。誰を殺しても血は得られると思うよ」

 まだぜえぜえと荒い息をするレスナに笑いかけて、少年は身を起こし、挑戦的に告げる。

「たとえば、アーヘルを殺したっていい」

 そうして高笑いを響かせると、少年は右手を高々と掲げた。

『エレが来たら、またアルセイルに来るよ』

 濁り無き言の葉でなければいけないと言ったそばから、濁りあるアルテアが紡がれた。だがそれも、少年が口にしたような反動を伴う事無く効果が発揮される。虹色の蝗は忠実な兵のごとく主に付き従い、紺色に輝くと、少年ごと消えて、彼がこの場にいた証を残さなかった。

 地面に滴り落ちた赤い雫と、アルテアの束縛に冒されたレスナ以外には。


「……くしょう」

 第二王妃の寝室に、女声にあるまじき罵倒が垂れ流しにされる。

「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……!」

 寝台に突っ伏し、拳を握り締め、薄紫の長い髪を振り乱し、目を血走らせ、唇が血を流す程に歯を食いしばって、レスナは呪詛のようにその言葉を繰り返した。

 世界から見放された少女は、頼りにしようとした最後の人間にも利用された。彼の大好きな『エレ』を救う為の手駒にされたのだ。

「ちくしょう、ちくしょう……!」

 短剣を振り上げ、そこにその『エレ』がいるかのように枕へ突き立てる。ざくざくと何度も切り刻まれた枕は、ただの残骸となって寝台から転げ落ちた。

 じんわりとにじみ出た血を、舌で拭う。

『言う事なんか、聞かない』

 唇がにたりとつり上がり、濁りあるアルテアが紡がれる。

『絶対に、エレを、殺す』

 少女の右腕に寄り添うように虹色の蛇が生まれたかと思うと、黒く変色し、吸い込まれて消えた。

 アルテアは功を奏するだろう。レスナはひとりほくそ笑み、それからけらけらと高らかな笑いを響かせた。

 誰も彼も、レスナを顧みはしなかった。父も、兄達も、アーヘルも、そしてあの少年も。彼らの大事な物は他にあったのだ。誰か一人でもレスナを必要としてくれたら、この物語は変わっていただろう。だが、最初から噛み合っていなかった歯車は、決定的に壊れてしまったのだ。


 そしてその一月後、アルセイルでの悲劇は訪れる。

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