酒は飲んでも呑まれるな

 イシャナの軍船は、順調に南海を進んでいる。

 その中にある、とある船室の前でエレは立ち尽くし、己への問いかけを何周も巡らせていた。

 ノックすべきか、否か。

 実の兄の死を知り、何もしてやれなかったと後悔を絞り出した彼の姿を思い出す。震えていた手も、いつもより小さく見えた肩も、少しだけ冷えた空気のにおいと共にまだ鮮やかに脳裏に思い描ける。

 死に目にすら立ち会えなかったのはエレにも責任があるのだ。自分が慰めの言葉をかけることで、少しでも哀しさを紛らせる事ができるなら、彼の役に立ちたい。

「インシオン」

 意を決してエレは扉を軽く叩き、中にいるはずの相手に呼びかけた。だが、返事が無い。しーんと静寂が返ってくるばかりだ。

「インシオン。失礼しますね」

 眠っているのだろうか。断りを入れて扉を開ける。途端、小さいテーブルに突っ伏す黒装束が目に入って、エレの心臓は驚きに締めつけられた。

「インシオン!?」

 また破獣カイダ化の衝動が来て苦しんでいたのだろうか。青ざめて駆け寄るエレの方にのろのろと顔が向けられ、赤い瞳がぼんやりとこちらを映して、「……ああ」と細い声が洩れた。

「何だ、お前か」

 返事をするのも億劫なほど消耗しているのか。アルテアを使うべきか。いや、破神タドミールの因子を持つ人間の血を与える方が楽になるのだったか。指先を切ろうと、手近に刃物が無いかきょろきょろ視線を彷徨わせたエレの視界に、テーブルの上に置かれた酒瓶が飛び込んできた。アーヘルが土産に持たせてくれたアルセイル産の果実酒だ。中身が半分ほどに減っている。そして傍らには、三分の一が残っているグラス。

 ようやく理解する。彼は『神の血』の呪いに苛まれていた訳ではない。由緒正しきただの酔っ払いなのだ。

 そうとわかると安堵し、直後、それを駆逐するほどの言い知れぬ怒りが腹の底からこみ上げた。

「何だ、じゃありませんよ!」

 激情に任せてテーブルを掌でばんと叩き、声を荒げる。

「人が心配して来たのに、何、へべれけになってるんですか!」

「酔ってねえよ」

「それ、酔ってる人が言う台詞です!」

 気だるそうに上体を起こすインシオンの耳元で怒鳴りつけ、エレは頬を膨らませた。こちらは本気で寿命が縮むかと肝を冷やしたのに、大した事ではなさそうにがりがり頭をかくその態度は何なのか。

「大体、一人でこんなに飲まないでください。身体に悪いです」

「ガキがいちいち口出すんじゃねえよ。お前は俺のお袋か?」

 更にかちんとくる。また子供扱いだ。この人は一体いつになったら自分を一人前と認めてくれるのだろう。椅子の背もたれにのしかかって天井を仰ぐインシオンを恨めしそうに見つめ、その視線が、テーブル上のグラスに移る。

 いくら酔っ払いといえど、心細さがそうさせたには違いない。酒にすがる事でしか胸の風穴を埋める事ができなかったのかと思うと、自分はこの人に助けられてばかりなのに、何ひとつ返せていないのだという無力感に襲われる。

 こんな物に頼らないで欲しい。娘の立場でもいいから、自分を頼りにして欲しい。人間でもないただの液体に確実に嫉妬している。

 今ここにこれが無ければ、彼は自分を見てくれるだろうか。

 気づけばエレは、つかむようにグラスを手にし、きゅーっと中身をあおっていた。甘みと苦みを同時に帯びた熱が舌に触れて喉を過ぎ、胃腑に滑り落ちてゆく。

「おい、何してる!?」

 インシオンがぎょっとしてグラスを引ったくる。しかしその時には、エレの全身はかーっと火照り、世界がぼんやりして、足元がぐんにゃりしてきた。

「おい、この馬鹿たれ!」

 夢見心地のままあおのけに倒れていきそうだったところを、インシオンに抱きとめられる。

 ああ、これは夢だ。この人がこんな風に抱いてくれるなんて、甘い夢だ。

「インシオン」

 夢なら少しくらい本音を言っても良いだろう。エレはぎゅっと彼の服の袖をつかみ、潤む瞳で訴えた。

「泣きたいなら、泣いてもいいんれすよ」

 きちんと喋っているつもりだが、舌が回らない。

「私、そあにいますから。ずっと、ずーっと、ずうううーっと、いっしょに、いますから。だーかーらー」

 自分の言葉と一緒に相槌を打ってぐらんぐらん頭が揺れる。

「今夜はそあにいてくらさい」

 途端にインシオンがその赤い目を真ん丸くした。

「待て。何でそうなる。何で話が飛躍する。ていうかお前これだけで酔ったのか」

「酔ってまへんよーにーじいろーのちょうちょがーらんらんるー」

「それは酔ってる奴の台詞だ。お前がさっき言った。それに何だその謎の鼻歌は」

「らって」

 かっかと全身が燃えるようだ。ここまで身体が熱くなっているなら、普段言えないような事も恥ずかしげ無く言えそうだ。

「インシオン、悲しいのにお酒れひょまかそうとしたりゃないれすか。寂しい時はられかと一緒にいるのがいちふぁんれす。私が小さい頃、そうしてくれたりゃないれすか」

 インシオンの顔に動揺が浮かぶのがわかる。きっと図星だ。普段なら絶対無反応を決め込むはずの彼がこんな風に感情を見せるのも、夢だからに違いない。

「私の手をにぎっれー、そあにいてくらさい。寂しいの、なくなりますひゃら」

 彼はしばし何かを思案する顔でこちらを見下ろしていた。だが、ふと溜息をつくと、エレの身体を軽々と抱き上げ、ベッドへ運ぶ。限られたスペースに押し込んでいるために、一人が転がるだけできつきつのベッドに、エレは横たえられる。

 彼の温度を求めて宙に手を彷徨わせると、しっかりと握り締められる感触がした。

「インシオン」

 これも夢だ。だから言って構わない。

「好き、れす」

 この想いは現実の彼には届かない。彼にとって自分は娘なのだから。

 頭の中の思考がぐるぐると渦を巻く中、エレは真の夢の彼方へと落ちていった。


(……やばい)

 ベッドに横たえた途端、衝撃の告白を残してすうすうと寝息をたて始めたエレの手を握り締めたまま、インシオンは固まっていた。酔いなどとっくのとうに吹き飛んでいる。

『好き、れす』

 知っている。知っていた。想いに応えなかっただけで、きちんと気づいていた。だが酒のせいとはいえ熱っぽく潤んだ瞳で改めて言われると、普段は冷静さの裏に隠している劣情が刺激される。

「おい、エレ」

 暴れ出しそうな本能を必死に押し殺し、手を離して、肩を揺さぶる。

「本当に寝るな馬鹿たれ。嫁入り前のお姫さんが男の部屋で潰れるな」

 こんな事がセァクの上層部に知られたら一大事だ。『巫女姫を部屋に連れ込み酔い潰れさせた』などという話が伝われば、いくらイシャナの英雄でもただでは済むまい。何もありませんでしたと主張したところで、信じてくれる人間はごくわずかだろう。いや、一人としていないかもしれない。

「エレ」

 再度呼びかけると、「ん……」とエレはいやに艶めかしい声をあげて身じろぎした。いつもはマントに隠れている上着の襟元がはだけていて、逸らそうと思っても目は自然に、そこからのぞく鎖骨に引き寄せられてしまう。

 そのまま視線を下ろせば、嫌でも胸を凝視する羽目になる。エレの胸は標準から言えば、やや大きい。それでいて形も整っている。街を歩く時、すれ違う男達が目を惹かれ、聞こえよがしに口笛を吹く輩もいたのを、彼女の隣で見て来た。彼女自身が全く気づいていない事に、どうしたものかと嘆息したのも、一度や二度ではない。

「エレ。お前いい加減にな」

 再度肩を揺さぶると、エレは小さく唸りながらごろんと寝返りを打った。その拍子にスカートがめくれあがって、白い太股があらわになる。インシオンはほとんど脊髄反射で上掛け毛布をエレにひっかぶせて背を向けると、手で顔を覆って歯噛みしながら床にへたりこんだ。

 インシオンとて男だ。英雄だからといって聖人君子ではない。れっきとした成人男子だ。レイに『英雄なんだから箔をつけておく事だね』と何度か高級娼館の女を寄越されたせいで、女性の抱き方も心得ている。

 彼女達は海千山千の強者だった。しかしエレは違う。まだ誰も手をつけていない、熟す前の果実のように純真な娘だ。ましてや故郷で巫女とあがめられている姫だ。一軍人がおいそれと手を出して良い相手ではない。

 だが、と囁きかける誘惑がある。さらわれた姫君とそれを助けた勇者が結婚した、という話は昔から御伽話につきものだ。イシャナの英雄がセァクの姫を望んでも、あからさまにけちをつける奴はいないだろう。既成事実を作ってしまえば尚更だ、と。

 何も知らずに無垢な寝息をたてる少女を背にした状態で、理性と本能、天使と悪魔が、頭の中で壮絶な戦いを繰り広げている。

 激戦の末辛くも勝利を得たのは、理性の天使だった。インシオンは酒瓶をつかむと、まろぶように部屋を飛び出し、ふたつ隣室の扉を乱暴に叩く。そして何事かと眉根を寄せて顔を出したソキウスに、酒を突き出しながら、何とか言い切った。

「これを駄賃に、この部屋で寝かせてくれ。上掛けだけ借りられれば床で構わん」

「何があったのですか」

 ソキウスの眉間の皺が深くなる。インシオンはひとつ深呼吸して、真っ赤になった顔をうつむかせながら、

「……理性がもたねえ」

 それを絞り出した後、できるだけ私情を殺した事情を簡潔に説明する。ソキウスは軽く目をみはり、インシオンの言葉を咀嚼した後、

「ああ……」

 と全てをわかりきった様子でこめかみに手を当て溜息をついた。

「それはあなたにはとんだ拷問ですね」

 その唇の端には、むしろ状況を面白がるような笑みが浮かんでいる。それがまた憎たらしさを煽るのだが、下手にかみついて、部屋に戻れと追い返されてはたまらないので、インシオンは屈辱を甘んじて受ける事にした。


「エレ、そろそろ起きて」

 波の音に混じって自分を呼ぶ声が聞こえる。それに導かれるように、エレはゆるゆると目を覚ました。

 大きな紫の瞳がこちらの顔をのぞき込んでいる。

「……リリム?」

 相手を認識すると、意識は現実へと立ち返った。しかし、いつもと何かが違う。しばし模索して、そういえば酒をあおってインシオンの部屋で寝落ちたのだと思い出した。

 普段着のまま、髪もほどかずに寝てしまったので、服は皺が寄って、髪もぼさぼさだ。かなりひどい格好をしているだろう。嘆息し、そしてふっと気づく。

「あの、インシオンは?」

「ソキウスの部屋で寝てたわ」

 手早く髪を結い直しながら訊ねれば、リリムは答えつつ湯気を立てる茶を差し出す。口に含むとミントの清涼感が鼻腔をすり抜け、酒で苦くなっていた口内を充分にすすいでくれた。

 そして思い至る。仮にも姫が寝ている場所に、男性がいる訳にはいかなかっただろう。余計な噂の波風を立てられない為に、彼は気を遣ってくれたのだ。

 彼の部屋を占領してしまった事を謝らねばならない。リリムにカップを返して礼を言うと、エレは部屋を出た。

 インシオンは既にソキウスの部屋にはいなかった。居場所を尋ねて船内を歩き回ると、目指す黒装束は、甲板で朝の陽光を浴びていた。

 蒼く光る黒髪が風に吹かれてなびき、細められた瞳は水平線の彼方を見つめている。声をかけるタイミングを見失って立ち尽くしていると、気配を感じたか、赤の視線がこちらを向いた。

「あ、あの、おはようございます」

 どきどき騒ぐ胸をおさえながら、おずおず頭を下げる。

「昨夜はすみませんでした」

「お前」

 たちまち相手が半眼になる。

「酒癖悪いのな」

「……そんなに悪かったですか、私」

「絡まれたし、鼻歌まで歌ってた」

「嘘っ」

「本当だ」

 精神的にも身体的にもエレはよろめいた。まさか自分が絡み上戸だったなんて。しかも鼻歌とは何だ。全く記憶に無いのが余計に恥ずかしい。

「ご、ごめんなさい!」

 勢いに任せて深々と頭を下げると、ぷっと吹き出す声がする。のろのろ顔を上げると、もう瞳から不機嫌は消え、愉快そうな感情が代わりに乗っていた。

「まあ、珍しいものを見られたしな。許しといてやる」

 珍しいものとは何だ。一体何をしでかしたのか。思索して、思い当たる節に、頬が熱くなった。

「あの、私は他にも何か言ってませんでしたか」

「何って」

「それは、その……」

 夢だと思って、好きだと言ってしまったような気がする。霞んだ記憶の中に、その言葉を舌に乗せた光景がぼんやりとたたずんでいる。届くはずの無い想いを口に出してしまったとしたら、相当に恥ずかしい。

 しかし。

「別に」

 インシオンからは端的な答えが返ってくるばかり。

「鼻歌以上に面白い事はやらかしてねえから、安心しろ」

 それきり彼は再び波の向こうへ視線を馳せる。

 言っていなかったか。知られなくて良かったという安心感と同時に、言わなかったのかといういくばくかの落胆が胸に訪れる。

 好きだと、酒の勢いに任せて伝えたら。彼はどう反応しただろうか。驚くだろうか。笑うだろうか。『子供が背伸びしやがって』と呆れて拳で頭を小突いてくるだろうか。

 答えは波間に呑み込まれ、エレの胸には届かない。無言でインシオンの横に並び、穏やかな朝の海を見つめる彼女は知らない。

 隣に立つ青年が、必死に胸の奥へ仕舞い込んだ感情がある事を。そして、『今後絶対こいつに酒は飲ますまい』と、彼が密かに決意していた事を。

 知らない事は時に罪であるのだ。

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