第3章 海底の氷女王(3)
気づくと、暗い部屋の中で独り立ち尽くしていた。二段ベッドが三台押し込まれ、ぬいぐるみや本が散乱したこの光景は、曇り硝子一枚向こうに存在する遠い昔の記憶を呼び覚ます。子供の頃に暮らした孤児院だ。思い出は焼失と共にほとんど消えてしまったが、何故か今、それをはっきりと認識することができた。
扉を開けて部屋を出る。木の板の廊下を歩き、少し急な階段を降りて食堂に入っても、誰の姿も無い。
『……インシオン』
昔も今も最も頼りにした人の名を呼ぶ。応えは返らない。孤独と焦燥に胸を締めつけられる。
『いないよ』
聞き覚えのある声に振り返る。どこかで出会った黒髪翠眼の少年がそこに立っていた。暗闇に沈む黒の中、頭から服、手にした剣まで、濡れた血だけが異様に赤く光っている。
『
口元についた血を舌で拭って、少年が鷹揚に笑う。彼が剣で示す先に、誰かがうつ伏せで倒れている。
よく見慣れた黒髪と黒装束。ぴくりとも動かないその身体の下には、赤い血溜まりがじんわりと広がっていて、むせかえるような鉄錆のにおいが鼻を突いた。
はっと大きく息を吸い込む自分の声で、エレは目を覚ました。心臓が激しく脈打って、心拍音が耳の奥で大きく響いている。全身はびっしり汗をかいていた。
のろのろと身を起こして見回せば、どこかの家の中のようだった。簡素な木の造りをしていて、開け放たれた窓からは海猫の声が聴こえて来る。寝台に収まっていた身体は誰が着替えさせてくれたのか、海水にすっかり濡れてしまった服ではなく、白い寝間着をまとっていた。
「おや、起きたかい」
窓の外から声をかけられる。海藻の詰まった大きな籠を抱えた恰幅の良い中年女性が、たまたま通りがかって気づきました、とばかりに笑顔を向けている。
「待ってておくれよ、すぐにあったかいものを持って行くからね」
その宣言通り、女性はすたすたと家の中に入り、しばらくしてから、湯気を立てるスープの載った盆を持ってエレのいる部屋に姿を現した。サイドテーブルに置かれたスープは、赤身魚と海藻をふんだんに使った一品で、香ばしいにおいをかぐと同時、すきっ腹が刺激されてくうと情けない音を立てた。
「さあ、どうぞ」
女性に促されて、我慢しきれずに「いただきます」と急きながら言って手を出す。海の幸を惜しげなく使ったスープは胡椒でぴりりとしたアクセントがついていて、あっという間に腹の底から身体を温めてくれた。
人心地ついたところで、そういえばと思い出す。
「あの、船に乗っていた他の人達は、どうなりましたか」
転覆しかけた船から放り出されたのだ。すっかりはぐれてしまったかもしれない。あの状況を思えば、最悪、船自体が沈んでしまった可能性もありうる。
しかし女性は事情を理解した態で、「ああ」と苦笑を向けた。
「セイレーンの海域に踏み込んじまったって? 災難だったね。船は浜辺に泊まっているよ。無事だった人達は、あんたみたいにこの村のそれぞれの家で面倒を見ているさ」
あんな立派な軍船じゃなければ、とっくに海の藻屑だね、と女性は付け足した。
船はかなり損傷しているものの、村の男衆が総出で修理に当たり、数日もすれば出航できるだろうという話である。エレは女性が洗濯してくれたいつもの服に着替え、赤い組紐でいつも通りに髪を結うと、丁重に礼を述べてから、家を出た。
ここはフェルムにほど近い島のひとつだという。集落がひとつあるだけの小さい島だが、大陸南側の海辺の町と同じような暮らしを、人々は営んでいた。
「うおー、でっけえ!」「すごいすごい!」子供達がはしゃぎながら浜辺を走り回っている。その声を追うまでも無く、集落に対して不釣り合いなほど大きい軍船はすぐ見つかった。村の男達と船員が共同で、穴の開いた船体に木材を打ち付け、太陽の光降り注ぐ浜辺では、女衆が破れた帆を繕っている。大国イシャナの難破船を助けたとあれば、修理費を上回る礼金が来るはずだ。集落の人々が修繕に手を貸す事を厭わないのは、生来の人の好さだけではなく、そういった後々もたらされるものの大きさも加味しての事だろう。
浜辺に立ち、知っている顔を探して、作業中の男達を眺めていると。
「ああ、エレさん!」
船長の声が聴こえ、彼が甲板の上から手を振った。彼は共に作業していた男に二言三言何かを言うと、軽く頭を下げ、エレの元まで降りて来てくれた。
「あんただけでも無事で良かったよ」
髭の立派な口を開いていの一番、彼はそう言ってエレの両肩に手を乗せ、深々と溜息をついた。本当に良かった、という口調だが、しかしエレは、告げられた言葉の意味を読み取って目をみはる。
「あの、私だけという事は、インシオン達は」
「すまん。あの状況では、あんた一人を助けるのが精一杯だった。船員も半分は失っちまって、船が直ったら何とか帰れるくらいの力しか無い」
では、インシオンは。シャンメルやリリム、ソキウスにアーキは。二の句が継げずに呆然とするエレに、船長は心底すまなそうな顔をして、首を横に振った。
「諦めた方がええよ」
通りすがりに話が聞こえたのだろう。壮年の男性が足を止めて、ぽつりと言った。
「セイレーンはな、若い男を海の底の都に連れ去って、精気を吸うっちゅうねん。それでしばらくは海域を通る船を襲わなくなる。取引だ。連中とうちらの暗黙の了解だあよ」
エレの脳裏に、意識を失う寸前の光景が蘇る。まるで選んだようにインシオンだけを連れて行った破獣達。海の種族と破獣が結託するというのも馬鹿げた話だが、セイレーンの歌と海破獣の襲撃が同時に起きた事を考えると、あり得る可能性ではないかと思えて来る。
「セイレーンの」エレは思わず男性に詰め寄っていた。「都はどこにありますか」
「何を言い出すんだね!?」
「無茶だ、エレさん!」
たちまち男性と船長が目を真ん丸くする。
「海の種族なら、海で遭難した人の行方もわかるかもしれませんよね」
セイレーンがインシオンを連れて行ったのなら、取り戻しに行きたい。逆にセイレーンと破獣に関連が無くて破獣が独自にインシオンを狙ったのなら、助力を仰ぐ交渉をしたい。
「この島の皆さんには決してご迷惑をおかけしないと、お約束します」
エレの瞳に宿る決意の炎を消せないと、男達も感じ取ったのだろう。船長がぐっと言葉を呑み、男性は深々と息を吐き出して、「ついといで」と歩き出した。
「余ってる小舟を貸したるわ。セイレーンの話はうちのじいさんが詳しく知ってるから、聞いてから行くがええよ」
安堵感がさざなみのようにエレの胸に広がってゆく。
「ありがとうございます!」
エレは男性の背に向けて勢い良く頭を下げる。だが、これで問題が解決した訳ではない。むしろ全てはこれからだ。今までもインシオンに頼らずに戦わねばならない状況はあったが、今度は正真正銘エレ一人での戦いだ。
それでも。
あの人とこのまま永遠に別れるなど、身を引き裂かれるよりも辛い事だ。以後も訪れるだろう破獣化の衝動を独りで乗り越える自信も無い。
『助けられる事があるのなら、何でも求めてください』と言ったばかりなのだ。救える確率が少しでも残っているのなら、それにすがりたい。
エレは知らず知らずの内に、言の葉の石を握り締めていた。そこに宿る破神の血を持つ者、それを用いてアルテアを行使して来た人々。彼ら全員に、「力を貸してください」と願うように。
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