第3章 海底の氷女王(2)

 最初それは、竪琴を奏でる音だと思った。弦を爪弾くような高音が、ゆったりと漂って来る。その音に耳を傾けていると、頭の芯がぼんやりとして来て、そのまま身も心も音階の波に委ねてしまいそうになる。

「気をつけろ!」

 船員の誰かが叫んだ事で、恍惚とした表情で聴き入っていたエレは、いきなり現実に引き戻された。傍らを見れば、インシオンも同じだったらしい。冷や水を浴びせられて一気に夢から覚めたような顔をしている。

 舵輪を操っていた船長の声が響き渡る。

「セイレーンの海域に入っちまったか!」

 途端に船中が慌ただしくなった。その中で、ぼんやりして手を止め、半笑いで音に聴き入っている船員達がいる。正気の者が同胞の頬を叩いて無理矢理覚醒させるが、船底で櫂を漕ぐ者にも影響は出ているのだろう。明らかに船の進みが鈍った。その間に、音は確かな歌となり、辺り一帯を包み込む。

 セイレーンの伝説はエレも聞いた事がある。海の底を住処とし、美しい歌声で海上を行く船を惑わし沈める種族。かつて異大陸にあった音楽を生業とする人々の国が滅び、海に逃れるしか無かった己が身を嘆き、地上の人間を恨んで、復讐の為に歌うのだという。

 そんなセイレーンの怒りを助長するかのように、雨足と風があっという間に強くなり、波が高くなってぐうんと船を持ち上げたかと思うと、谷間へ落ち込む。そんな揺れが繰り返されて、エレは体勢を崩し、甲板に身体を打ちつけそうだったところを、インシオンに抱き留められた。

「エレ様!」

 傾いた視界の中、アーキが向かって来る。一流の戦士である彼女をしても、船の縁に取りすがってじりじり進むのがやっとであるようだ。

 大丈夫です、と返そうとした時、波間から飛び上がって来た複数の影に気づいてエレは振り向き、そして息を呑んだ。

 それは人ではなかった。真っ黒な体躯はどれかというと破獣に近い。しかし破獣と異なるのは、彼らは破獣のような蝙蝠のごとき翼を持たず、代わりに発達した水かきを有する手と鰭のような足でもって、水を蹴って船体を上り、甲板まで乗り込んで来た。

 金色の眼球がぎょろりと動き、こちらを捉える。粘液を帯びているのかてらてらと光る身体からは強い潮のにおいがして、言い知れぬ嫌悪感をこちらに与えた。

 インシオンがエレから手を離して剣を鞘から抜いた。アーキも短刀を構えて、にじり寄って来る異形を睨みつけている。異変を察したか、シャンメルやリリム、ソキウスも甲板上に姿を現した。

「……どういう事」リリムが呆然と呟く。「見える」

「ですよね」ソキウスまで青い顔をして自分の耳に手を当てた。「聴こえます。彼らの恨みの声が」

『神の目』と『神の耳』が反応するという事は、彼らは破神の血に連なる存在であるという事になる。言うなれば海破獣マール・カイダといったところか。雨でかすむ視界の中、波間を泳いで来る黒い頭が幾つも見えた。

「砲撃! 撃てねえのか!?」

 インシオンが船長に向けて声を張り上げたが。

「駄目だ、セイレーンの海域で大砲なんざ撃ったら、報復で確実に沈められる!」

 過去にそういう事例があったのだろう。船長は青ざめた顔で返すばかり。インシオンが舌打ちして、飛びかかって来た海破獣の一体を斬り伏せた。粘っこい青の血を噴き出し、破獣は海に放り出され水飛沫をあげて消えた。

 しかし、一体に手を出してしまった事が、彼らの闘争心に火をつけたらしい。次々と破獣が甲板上へと姿を現す。彼らは破獣と戦い慣れていない船員に狙いを定めて襲いかかり、たちまち数人が腕や足を食い千切られる。インシオンとシャンメル、アーキがそれを止める為に剣を振るい、船上は血の戦場と化した。

 エレは胸元に光る言の葉の石に手をやった。ひび割れた石がどこまでもってくれるかはわからないが、自分も戦うべきだろう。

『氷の障壁となって我らを守れ』

 赤い石に口づけてアルテアを紡ぐ。虹色の蝶が雨の中を飛び立ち、青色に輝いて船体に取りつくと、氷の壁と化す。つるつるした障壁に阻まれて、上って来ようとしていた破獣達が手を滑らせ次々に海へと逆戻りしていった。

 ほっと息をついたのも束の間、歌声が一際大きくなったかと思うと、どおんと大きな衝撃が船を襲った。すさまじい揺れに、エレは今度こそよろめき倒れ、甲板に背中をぶつけた。インシオンから急所を守る受け身を習っていなかったら、頭を強打していただろう。

 船に何かがぶつかる衝撃は更に強まった。「帆を下げろ!」「水をかき出せ!」「漕げ! とにかく漕げ!」切羽詰まった伝令が飛び交う中、インシオン達が駆けて破獣を屠ってゆく。氷の障壁も壊されたのか、新たな破獣が甲板上へ姿を現した。

 また船が波の谷間へ沈み込んだ。頭から押しつけられるような圧迫感の後、もろに海水をかぶる。全身がずぶ濡れになって服がびっちりと身体に張りつき、動きにくい。柱に取りすがって立ち上がろうとしたエレの背後に、何かが素早く寄って来る気配がする。振り向けば、ぬらぬらとした口を大きく開ける破獣の姿が視界一杯に映った。反撃の猶予は無い。ただその場にすくみあがってしまう。

「――エレ!」

 力強い腕がエレの手を引き、破獣とエレの間に割り込む。インシオンの腕だ、と気づいたのは、彼がエレをかばうように抱き締め、破獣の牙を右肩に受けて、苦悶の呻きを洩らしたからであった。

 しかしそれも一瞬の事で、敵の脇腹に肘鉄を叩き込んで怯んだところへ、鋼水晶の剣が一閃、破獣の首が飛んだ。

「ぼやぼやするな、馬鹿が!」

 叱咤するインシオンの腕を血が伝い落ち、握る剣の柄を紅く染めている。いくら『神の血』ですぐに治るといえど、痛みは人並みに感じているだろう。回復のアルテアを使うべきだと思った時、更なる衝撃が船を襲い、船は今度こそ大きく傾いた。

 船員が次々と海に放り出される。リリムが甲板を滑り、必死に床に爪を立てようとするがかなわず、水中へと消える。シャンメルが咄嗟に跳ねて後を追いかけ、すぐに姿が見えなくなった。ソキウスとアーキもいつの間にか見失っている。

 そこへ一際大きな波が訪れた。エレはインシオンの腕に抱かれたままうねりに呑み込まれ、天地左右を失ってもがく。息をしようとすればごぼごぼと空気の泡が無駄に吐き出された。せめてインシオンとは離れまいと必死に腕を伸ばす。しかしその腕をつかみ、引き離す手があった。

 暗い海の中で、複数の破獣がインシオンに取りつき、エレから引きはがすのが見えた。インシオンがこちらに手を伸ばし、名を呼んでくれたのか、口から空気が洩れる。

 彼を連れて行かないで。願い虚しく二人の距離が離れる。赤い血の尾を残しながらインシオンが海の底に引きずり込まれて見えなくなる。

 嘲笑うように高らかに響くセイレーンの歌声を聴きながら、エレの意識は海より尚暗い闇へと沈んで行った。

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