第6章 もうひとつのアルテア(2)
「あっははははは!!」
陶酔するように両腕を広げて、レスナが狂気の高笑いを響かせた。
「どう、陛下!? 私のアルテアはこうよ!」
愕然としながらも背後にシュリアンをかばうアーヘルに向け、レスナは薄紫の瞳に嫉妬の炎を燃やして睨みつけ、髪を振り乱す。
「結局シュリアンなのね。私、あなたの為に
エレの中でようやく合点がいった。ずっと抱いていた違和感。見せつけるような青の薄布。殺意を感じなかった第一王妃。杯を変えようとしていた彼女の侍女。
『身の白さは死をもって証明するかしら?』
濁り無きヒノモトの言葉の後、侍女は刃を振りかざして絶命した。あの時の言葉にアルテアの力があったとしたら、彼女は罪を暴かれたくなくて死んだのではなく、逆に言葉に縛られるまま、身の潔白を証明する為に命を絶つしか無かった事になる。
そして、血に濡れていたレスナの唇。
「あなた、が」
エレは目を見開き、喉の痛みも忘れて呟く。レスナがゆっくりと振り返り、
「そうよ」
空恐ろしいくらいに優しい、満面の笑みで、その言葉を口にした。
「気づかなかった可哀想なエレ。私よ。あなたに死んで欲しかったのは、この私。だって、アルテアの巫女は一人でいいじゃない?」
インシオンがエレを抱いたまま、襲いかかって来た破獣を斬り倒し、剣帯にもう一振りたばさんであった短剣を抜いて、シャンメルの方へと投げた。シャンメルは後ろ手に縛られながらも器用にそれを受け取り、縄を断ち切ると、リリムとソキウスの手も自由にし、床に落ちていた片刃剣を蹴り上げる。右手に片刃剣、左手に短剣の両刀となり、シャンメルは呼気をひとつ吐くと、アーヘルとシュリアンに襲いかかろうとしていた破獣の背後へ一息で迫り、その首をはねた。
人と破獣が入り乱れたその場は、最早裁きどころではなかった。逃げ惑う人々が折り重なって倒れ、そこに破獣が飛びかかって死を生み出す。インシオンとシャンメルが必死に立ち回るが、全ての破獣を滅する事など不可能に近かった。
どうすればいい。エレは必死に頭を巡らせ、そして思い至った。
人を破獣にしたのはアルテア。では、元に戻すのも。
「――エレ?」
インシオンの手を振りほどいて自分の足で床に降り立つと、エレは唇を噛み切って浮いて来た血を舌に乗せる。喉が焼けようが血を吐こうが、これは自分しかやり遂げられないのだ。意を決して口を開き、意識してはっきりと言葉を紡いだ。
『獣の血に狂った者に、正気の光を。人としての安寧を』
先程の蛇を凌駕する数の虹色の蝶が乱舞する。蝶は白く輝いて破獣目がけて飛び、ふっと舞い降りると、燐光を残して消えた。
すると、破獣の動きが止まった。くぐもった声をあげてその場にうずくまると、黒い皮膚が人のそれを取り戻す。翼や牙が消えてゆく。破獣と化していた人間はたちどころに、人の姿へと戻っていったのである。
「……成程」
リリムと共に物陰に退避していたソキウスが顔をのぞかせ、得心がいったように呟いた。
「アルセイルの民には、破神の血の因子が色濃く残っていたのですね。それをアルテアで破獣とする事も、元に戻す事もできるのか」
破獣から戻った人々は、自分の身に何が起こったのかを正しく把握する事もできないまま、惨状のただ中に立ち尽くしている。さっきまで隣に立っていた人間が首を失って倒れている現実に、心が追いついていないようだ。
「ったく」
今更ながら痛みが訪れて、口の中に溢れる血の味に顔をしかめてよろめくエレの腕を、インシオンがつかみ留めた。
「無茶しやがって。どこまでも驚かせやがるよ、お前」
呆れ気味の苦笑を向ける彼に、おずおずと笑みを返そうとしたエレの表情は、しかし次の瞬間、背後からどすんと衝撃を受けて固まった。インシオンが驚愕に目を見開くのが視界に焼き付く。
背中が熱い。ずぶりと肉を断つ音にゆるゆると振り向けば、血走った目をして、赤く濡れた短剣を握るレスナの笑顔が至近距離にあった。
「何でよ」彼女は恨めしそうに宣う。「何であなたは何でも持ってるの。私には何も無いのに」
だから。彼女はにんまり唇をつり上げる。
「あなたの命くらいはもらってもいいじゃない?」
ごぷり、と。血の塊がこみ上げて来て、意志とは関係無く口から吐き出される。足元が歪んで全身の力が抜け、エレはがくりと膝を折った。
インシオンが絶望にとりつかれたような顔をしている。何故、そんな表情をするのかわからない。考えが全くまとまらない。耳鳴りがひどくて、自分を呼ぶ彼の声が段々遠くなる。レスナの笑い声だけは甲高く響いて、彼女が再度短剣を振り上げるのが視界に映る。
「てめえ!」
インシオンが鋭く吼えて剣を振るった。刃がレスナの胸に突き立てられ、引き抜かれる。血の花を咲かせ、顔に笑みを張り付けたまま、彼女がゆっくりとあおのけに倒れてゆく。そこまでを見届けた所で、世界がぶれて全てが遠くなった。
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