第6章 もうひとつのアルテア(3)
「エレ! おい、エレ!!」
崩れ落ちたエレの身体を抱き上げて、インシオンは必死に呼びかけた。
「アルテアを使え! 自分の傷を癒せ! でないと死ぬぞ!!」
エレはぐったりと脱力して応えを返さない。瞳は開かれているが虚ろで、何を見ているのかわからない。呼吸は浅くつっかえつっかえで、まともに息をしているとは到底思えない。レスナの凶刃はエレの背中を一突きして、心臓まで達していた。どくどくと溢れ出す血が、インシオンの手を、服を濡らしてゆく。
エレが死ぬ。その恐怖がべっとりとインシオンの背にへばり付いた。
失うのか。ここまで来たのに、守り切れないまま。
これでは昔と同じだ。多くの人の運命を狂わせてしまった、十四年前のアイドゥールの悲劇。少しでも救おうとした子供達を失った十一年前。そして、無残に死なせてしまったセア。『英雄』の名など何の役にも立たない。襲い来る現実の前には何と無力なのか。ぎり、と歯噛みした時。
「……ひとつだけ」いつの間にか傍らに来ていたソキウスが、躊躇いがちに声をかけて来た。「方法があるかも知れません」
インシオンはがばりと立ち上がり、爛々と光る目でソキウスを睨むと、その胸倉をつかみあげる。
「もったいぶってねえでさっさと言え」
「危険な賭けですが」
「これ以上の危険があるか!」
インシオンの鬼気迫る形相に、ソキウスは目を閉じてひとつ溜息をついた。その時間さえ惜しい。締め上げる手に力を込めると、彼はその手を引きはがしながら告げた。
「あなたの血ですよ」
それだけで即座に理解する。インシオンの『神の血』が持つ力は驚異的な回復力。かつてその血を得たソキウスも、『神の血』の影響を受けて、そうそう死なない身体になっている。
そんな血をエレに分け与えれば、今失われようとしている彼女の命を、繋ぎ止める事ができるかも知れない。しかし、
だが、万に一つでも可能性があるならば、それに賭けたい。
もう一度、言葉を交わしたい。笑いかけて欲しい。泣いて構わない。怒ってもいい。まだ何も伝えていない。このまま永遠に別れたくない。子供が駄々をこねるような感情だと理解しつつも、インシオンは己の願望に素直に従った。
剣を手首に押し当てて、思い切り引く。動脈が裂かれて飛び出した血で、顔が、髪が、服が濡れるのも厭わず、インシオンは己の血を存分に口内に含むと、エレを抱き起こし、躊躇い無く口づけた。
鉄錆の味がする液体が、インシオンの口からエレの口に移る。喉がこくりと上下して、エレが間違い無くインシオンの血を飲み下した事を確信すると、唇を離して見守る。
五秒、十秒がとてつもなく長い時間に感じられる。手遅れだったのかと諦めかけた頃、エレの表情がふっとゆるやかなものになり、呼吸が穏やかに落ち着いた。
眠るようにすうすうと息を洩らすエレの背中に触れる。血でぬるむ感触はあったが、傷口が残っている様子は無かった。
果てしない安堵が波のように胸に訪れる。インシオンは全身の力を抜いて深々と息をついた。
「ひどいお姿をしていてよ」
頭上から声が降って来たので顔を上げる。青い衣に身を包んだ第一王妃が、苦笑混じりに見下ろしていた。これだけの惨状を目にしても凛と立っているとは、大した胆力だ。
「あなたも彼女も血を落とした方が良いわ。わたくしにアルテア云々の全てがわかる訳ではないけれど、あなた方を賓客としてもてなしましょう」
そうして、背後を振り返る。
「それでよろしくてね?」
シュリアンの視線の先には、少年王アーヘルがいた。今までの不遜な態度はどこへやら、すっかり自失した表情で立ち尽くしている。
「何てお顔をしているの」
シュリアンが呆れきった様子で腰に手を当てた後、王に近づき頬へ触れた。
「あなたはいつも傲然としていなさいな。誇り高きアルセイルの王が」
「……本当に」
二度、三度躊躇い、少年王は自信無げに視線を落としながら王妃に問いかける。
「おれを恨んでいないのか」
それは王としてではなく、一人の孤独な少年としての問いかけだった。そしてそれを見つめるシュリアンの表情は、寂しがり屋の弟を見守る姉のように慈愛に満ちていた。
「言ったでしょう。本当に憎んでいるならとっくに寝首をかいていてよ。それに」
やんわりと少年の手を取り、シュリアンは己の腹にその手を触れさせた。
「それなら、ここに世継ぎはいないでしょう」
アーヘルがはっと顔を上げ、そしてその顔を赤く染めてシュリアンを見つめる。王妃はゆるく微笑み、少年の手を愛おしそうに己の頬に押し当てた。
「あなたは、前王が死んで捨て置かれたわたくしを、自分の意志で選んでくださった。それだけを、あなたについて行こうと思った理由にしてはいけなくて?」
たちまち黒の瞳が驚きに見開かれる。
「それだけで?」
「それだけです」
呆然と一言しか紡ぎ出せないアーヘルに、シュリアンは笑顔で答える。青い薄布がさらりと音を立てて、彼女は自分とほとんど背丈の変わらない少年王の抱擁に身を任せた。
「何か、あっちも丸く収まってるしー」
「あたし達、おいしいところ無し?」
シャンメルが頭の後ろで手を組んでぼやき、リリムも珍しく不満を前面に押し出す。
「まあ、今回はこれで良しとしようではありませんか」
ソキウスが二人に苦笑を向け――それから、ぎょっと硬直した。シャンメルとリリム、インシオンやアーヘル達も、そちらを見て、身を固くする。
ぼたぼたと床に血溜まりを広げながら、レスナは立ち上がっていた。
『アルセイルを滅せよ』
レスナのアルテアに応えて、二匹の黒い大蛇が生み出された。蛇はのっそりと首を持ち上げたかと思うと、次の瞬間、床を物凄い勢いで這い人々の足元をすり抜けて、部屋を飛び出してゆく。
「どうせ滅びるのよ」
薄紫の髪を振り乱し、餓えた獣のように目をぎらつかせて、凄絶な姿をさらしながら、それでもレスナは笑っていた。
「アルセイルも、アルテアも、
高笑いと共に呪詛をぶちまけると、彼女はゆっくりと前のめりに倒れてゆく。世界から見放された少女は今度こそ事切れて、永遠に動かなくなった。
だが、しかし。
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