12 彼女の決意

 カナタと大きいカナタの二人に与えられた船室、ベッドの上で、少年はごろりと寝返りを打った。

『念の為休んでいた方がいいよ』

 もう一人の自分はそう言ったが、カナタの破獣カイダ化を見てしまったユーリルに、事情を説明する時間を取る為だろう。今は、彼女の目の前で化け物に変わりかけた自分が同席しない方が良いのは、重々承知していた。

『神の血』は、ほぼ不死身の回復力を所有者に与える。しかし傷を負えば当然痛みは感じるし、四肢や首を落とされれば、元には戻らない。そして、最も深刻な副作用は、破獣化の発作だ。意志とは関係無く、時も場所も選ばず、変貌への衝動は巡ってくる。それを抑えるには、血脈の濃さに関わらず破神タドミールの因子を持つ人間の血を得るか、それが無ければ、衝動が治まるまでのたうち回ってでも耐えるしか無い。

 そんな話を、ユーリルは今、聞いているはずだ。

 だから連れてきたくなかったのだ。この姿を見た時、彼女がどういう反応を示すか。いくら戦慣れしている西方の民でも、自分の恋人が人でなきものに変貌するなどと知ったら、恐怖を覚えるに違いない。

 だが、とも思う。

 このまま『神の血』の事を黙って、破獣化をごまかし続けて彼女と夫婦になっても、いつかはばれる事だったのだ。その時彼女の心に刻む傷の深さは、今の比ではない。

 父も母と出会うまで、意識的無意識的に関わらず、人を遠ざけていたと聞いた。

『「神の血」で破獣になると知られれば、皆が離れてゆく。同類であるあたし達としか一緒にいられなかったのよ』

 それでも心の奥底では一線を引いて、本心へは決して近づけなかった、と語っていたのは、父の直属部下のリリムだ。母を愛して初めて、父は『神の血』を受けて以降真に他人に心を許したのだと。

 両親が互いに距離を縮める事ができたのは、同じ『神の力』を持つ同士であったからだろう。だが今、カナタに同類はいない。血を与えてくれた小さいエレがいるが、彼女は別世界のとはいえ、母だ。気の置けない対等な相手にはなり得ない。大きいカナタは、かつて『神の力』を持っていた者として理解者にはなってくれるだろうが、決して今この時、同じ苦しみを分かち合う仲間とはならない。真相を知ったユーリルが離れていってしまえば、カナタは独りだ。

 独りにしないと言ったそばから、愛する少女を突き放してしまう罪悪感に顔をしかめ、もう一度寝返った時。

「カナタ、起きてる?」

 そのユーリルの声が聴こえたので、カナタはびくりと身をすくめて、信じられない思いで部屋の扉を見つめた。小窓の曇り硝子の向こうに、小柄な頭の影が見える。

「入るわね」

 応えをする前に扉が開いて、赤毛の少女が姿を見せる。その手には、湯気を立てるカップが載った盆を持っていた。

「喉が渇いたんじゃないかと思って」

 彼女は朗らかにそう言って、椅子をベッド脇に引いてきて座ると、カナタが身を起こすのを待ってから、カップを渡す。受け取れば、柑橘類と蜂蜜の香りが鼻腔に滑り込んできて、からからになっていた身体に誘惑を与える。口をつければ、まだ少し熱めの酸味と甘味が喉を滑り落ちていった。

 ユーリルは、いつも通りゆるく口元を持ち上げて、カナタの様子を見守っている。大きいカナタから『神の血』とその影響について全て聞いたはずなのに、心が平然と凪いでいるかのように、動揺を見せない。

 恐くないのか、化け物に変わる男と二人きりで。その問いかけをしようとしたが、踏ん切りがつかずに躊躇う。気まずい沈黙が流れ、それを打破するきっかけをつかめない。

 気を取り直して再びカップに口をつけようとした時、しかしカナタは、自分の手がひどく震えている事に気づいた。ユーリルに破獣化がばれた事を恐れている心理的なものではない。明らかに、身体的な変調だ。不審に思っていると、完全に手が麻痺してカップを取り落とす。カップは床に落ちて転がり、まだ残っている中身がまき散らされた。

 痺れがあっという間に全身に広がってゆく。起き上がっていられなくて、そのまま横様に倒れ込んだカナタを、ユーリルがじっと見下ろして、

「モリガにもらった薬草。速効性があるけれど、すぐに効果は消えるし、後遺症も無いから」

 と、小さく呟いた。

「正直に求めたって、あなたは拒否するに決まっているでしょう? でも、私も嫌なの。あなたの助けになれない事が」

 だから、ごめんね。

 彼女はそう付け足し、動けないカナタに顔を近づけ、唇を重ねたかと思うと、歯を立てて、カナタの唇を噛み切った。

(駄目だ)

 言葉に出したいが、喉も痺れて声を発する事すらできない。溢れ出す血を恋人の舌が舐め取り、飲み下す感触がする。それをどこか遠くの出来事に感じながら、カナタの意識は急速に闇に沈んでゆくのだった。


「騒がせてすまなかった」

 船長室で、大きいカナタが頭を垂れると、机の向こうに座した船長は、相変わらずのいかつい顔に人懐っこい笑みを浮かべて、「いやいや」と首を横に振った。

「騎士様がたも色々大変でしょう。慣れない環境に体調を崩されても仕方が無い」

 カナタの破獣化の騒ぎは乗組員の耳にも届いていた。しかし不幸中の幸いだったのは、現場を目にした人間が、ユーリルと大きいカナタと小さいエレ、当事者達以外にいなかった事だ。騒ぎはカナタが突然船酔いを起こして倒れたとして片付けられ、『神の血』の事は、船長をはじめとする他の人々には伏せられた。

「後であの兄さんの栄養になる物を作らせて、部屋にお持ちしますよ」

「ありがとう」

 子供の頃はエレ以外の人間に礼を述べる事も謝罪もしなかった大きいカナタだが、十八年騎士として過ごす内、流石に相応の礼儀は身についた。再度船長に軽く頭を下げて、部屋を出て行った。


 船長はしばらくの間、王立騎士団長が出て行った扉を見つめていたが、やがてふいっと視線を逸らし、葉巻に火をつけて椅子の背もたれに寄りかかり、ぷかり、ぷかりと煙を吐き出した。

 自分達は王国の海兵だ。海を渡る使命に力を尽くし、おかの事には深く関与しないのが流儀だ。あの騎士達が自分達の想像の及ばない複雑な事情を抱えているとしても、立ち入るべきではない。

 騎士団長と、エン・レイ姫の息子である少年騎士が同じ顔をしている事について、アイドゥールでは一時期下世話な噂が流れていた事も知っている。それを根掘り葉掘り問い詰めるのも、野暮な事この上無い。

 世界はいくつかに割れていて、互いに干渉すべきではない領域を持っている。その領分を守る事は、統一王国の民として生きる上で重要な事だというのが、彼の持論であった。

 とにかく自分達は、彼らを無事にアルセイルに送り届ければ良いのだ。そう考えて、ぷかり、と煙の輪っかを吐き出した時。

 視界の端を、ふよふよと何かが横切った気がして、彼はそちらに目を向けた。瞬間、それが何なのかを認識する暇も無く、黒が顔にへばりつく。

 途端、本能的な恐怖を覚えて葉巻を取り落とし、謎の黒を引きはがそうと爪を立てたが、凛と響く誰かの声を聴こえたと同時、船長の世界は光を失い、深淵へと落ちていった。

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