13 船上は戦場になる

 意識を失う時と同じく、覚醒は唐突に訪れた。しばらくぼうっとしていたが、視界が急速に、正解を得たパズルのようにかちりと音を立てて綺麗にはまる。

 そうだ、ユーリルが来て。彼女の淹れた茶に入っていた薬で倒れて。そこまでを思い出したところで、がばりと身を起こした。彼女が言った通り、薬効はもう消えていて、身体には痺れる部分も無い。

 ベッドから降りようとして、しかし右手に温もりを覚え、つっと視線を下ろす。カナタの手を握り締めたまま、ユーリルがベッドの縁に突っ伏して眠っていた。ずっと傍についていたのか。そういえば扉の小窓から射し込む光量も少なくなり、部屋の中は薄暗い。もう夕刻だろう。

 握られた手をほどいて、唇に指で触れる。かさかさに乾いた血はついたが、やはり傷痕が残っている感触は無い。痛みも感じなかった。

 量としてはごくわずかだろう。だが、口に含んだ血の量の多少に関わらず『神の血』は人から人へ広がるのだと教えてくれたのは、大きいミライの相方であるソキウスだ。

『私自身が証明しましたから』

 彼は詳細は語らずに、ただ自虐的にそう言って薄く笑った。

 ソキウスの言葉が本当ならば、既に『神の血』はユーリルの中で息づいている可能性がある。本当は、破獣化がばれる事よりも何よりも、思い詰めた彼女がこういう行動に走る事を、一番恐れていたのかもしれない。

 同時に、だが、という思いもある。ユーリルが同類になる事で、カナタは孤独ではなくなる。悩み苦しみを分かち合える同士になる。心のどこかでそれを期待していたのかもしれないという考えに、我ながら嫌悪感を覚えて、立てた膝に顔をうずめて、低く唸った。

 と、ユーリルの肩がぴくりと震えて、彼女がのろのろと目を覚ます。星の宿る黒い瞳がぼんやりとカナタを見つめていたが、ある瞬間に現実に立ち返り、「おはよ」と、彼女は淡く微笑んだ。

 何と返すべきか。笑いかけるべきか、怒って良いのか。答えを求めて逡巡した時。

 きん、と。

 脳を針が突き抜けていくような痛みを覚えて、カナタは顔をしかめた。同じ感覚を味わったのだろう、ユーリルが頭をおさえてきょろきょろと辺りを見回す。

 もう一度痛みが走り、一拍遅れて、何かが近づいてくる気配がする。今までこんな事は無かったが、カナタは本能的に察した。

 これは、共鳴だ。それが何を示すのか、わからないほど鈍いカナタではない。咄嗟に毛布をはねのけてベッドから降り靴を履くと、壁に立てかけてある、父から継承した破神タドミール殺しの剣を装備し、鞘から抜き放った。暗がりの中で、透明な刃がわずかな光を受けて静かに輝く。横目で見れば、ユーリルも短剣を手にし、船室の扉を睨みつけている。

 今は先刻の彼女の行動について是非を問うている場合ではない。目くばせをすれば、やはり西方の戦士、恋人は軽くうなずいて、左右に分かれて扉に張り付き、段々と距離を詰めてくる気配を待ち受けた。

 扉の前で何かが止まる。一瞬の後、どごん、と轟音を立てて扉の立て付けが外れて吹き飛んだ。同時に、カナタとユーリルは襲撃者に向けて斬りかかる。ユーリルの短剣が相手の首筋をかき、続いて破神殺しの輝きが薄闇を裂いて肩口から袈裟懸けにした。

 人間のものとは思えない咆哮が廊下を突き抜ける。どうと倒れた敵の姿を見下ろして、カナタもユーリルも驚愕に息を呑んだ。

 黒い皮膚に鋭い爪は、たしかに破獣カイダだった。しかし、いつか見た破獣と違う。髪や服装が元のままで、完全に破獣とは化していない。人の姿を残しているのだ。半破獣ハーフ・カイダとでも呼ぶべきか。うつ伏せに倒れたその身を転がしあおのけにして、カナタ達は更に絶句する羽目になった。牙ののぞく口を開いたまま絶命している、いかつい顔には覚えがある。この船の船長だ。二人が唖然としている間に、船長の身体は破獣と同じく黒い粒子となって空気に溶けた。

 一体全体どういう事か。船長が破神の因子を持っていたというのか。そう考えて、いや違う、とカナタは脳裏で否定する。この世界で破獣化の要素を持っている人間は、自分達以外にもういない。誰かが意図的に与えでもしない限り。

 そして、その可能性を持つ人間は。

「向こう!」

 ユーリルが鋭く叱咤する声に、思考は中断され現実に意識が戻る。廊下の奥から、複数の唸り声が聞こえてきた。またも脳を刺す痛みに頭を抱えるが、耐え切れないほどではない。ぶるぶる頭を振って苦痛を追いやり、鋼水晶の剣を握り直す。

 嫌な予感は当たった。ゆらゆらと身体を左右に揺らしながらやってきたのは、半破獣ばかりだった。その誰もが、さっきまで甲板を走り回っていた若者や、刺身を作ってくれた料理人、見晴らし台の壮年の男など、見知った顔なのだ。

「これって」短剣を顔の前に掲げながら、ユーリルが絞り出すように言う。「もしかして、この船ごとやられてるんじゃないかしら」

 カナタ達をアルセイルに行かせない為に、アルテアで密かに船に乗り込み、船員を破獣にして襲わせる。そんな所業も、あの『正義』の名を持つ悪魔なら、躊躇い無くやりそうだ。冬なのにこめかみに嫌な汗が伝うのを感じながら、カナタはじりじり迫ってくる半破獣を待ち受ける。

「カナタ、ユーリル!」

 もう一人の自分の声が聴こえたのは、敵がこちらの攻撃範囲内に入る直前だった。鋼の輝きが躍り、一匹、二匹と半破獣が崩れ落ちてゆく。赤黒い血をまき散らしながら倒れ伏す半破獣は、やはり完全な破獣と同じく、黒い粒子となって消え去った。

 あっという間に四体の半破獣を葬った大きいカナタは、少年達の無事に安堵の息をついたが、すぐに表情を引き締めて二人を手で呼ぶ。

「駄目だ、恐らく僕ら以外全員破獣にされてる。早くあの子エレと合流して、迎え討つしか無い」

 だが、いくら乗組員が熟練した人間に限られていたとはいえ、総員は二十人以上いたはずだ。破獣化したそれらを、小さいエレを捜し守りながら三人だけで、逃げ場の無い船上で戦うなど、果たして可能なのだろうか。カナタの懸念をもう一人の自分も感じているのだろう。「やるしか無いだろ」と、少しばかり苛立った口調で返された。

 狭い廊下を駆け抜け、甲板へ出る。すると、暗がりの中で少女の小さな悲鳴が聴こえた。これも破神の因子を持つ影響なのだろうか、もうほとんど暗いのに、半破獣が、赤銀髪の少女を壁際に追い詰めている姿がはっきりと見える。カナタは破神殺しの剣を振りかざして床を蹴り、一気に半破獣との距離を詰めると、しゅっと呼気を吐き、一息で敵の首をはね飛ばした。

「大丈夫か?」

 手を差し伸べても、小さいエレは腰を抜かしているのか、しばらく細かく震えたままその場から動かなかった。が、やがてゆっくりとうなずくと、カナタの手を取る。

「――カナタ!」

 叱咤の声が耳に突き刺さったのはその時だった。振り返れば、今倒したのとは別の半破獣が至近距離で、にたりと大口を開いて笑っている。首筋に噛みつかれる事も覚悟したが、寸前に、小柄な影が間に割って入って、カナタの代わりに右肩で敵の牙を受けた。その人物が誰かを認識して、目をみはってしまう。

 ユーリルだった。痛みに顔をしかめながらも、取り落しかけた短剣を逆の手で受け止めて、心臓の位置に突き立てる。半破獣は腹の底に響くような呻き声をあげながら、黒い粒子と化して消えた。

「何、無茶してるんだよ!」

 心配より先に怒りが立ってしまって、カナタは思わず少女に怒鳴りかけていた。だが、振り返ったユーリルは、叱られて落ち込むどころか、むしろ満足げな表情をして微笑んですらいた。

「大丈夫」彼女は短剣の柄で右肩を叩く。「もうあまり痛くない」

 はっとして、彼女の傷口に目をやる。服に血はにじんでいたが、それ以上染み出してくる様子が無い。『神の血』の影響で出血が止まっているのは明らかだった。

「あなたもこうして辛い思いをしていたんでしょう? 不謹慎だけど、同じ位置に立てた事が嬉しいくらいなのよ」

 こんな理由と状態でなかったら、即座に彼女を抱き締めていた、殺し文句だったろう。だが今は、半破獣が次から次へと押し寄せ、危機的状況下である事に間違いは無い。カナタは小さいエレを背にかばって剣を構え直し、迫りくる敵を斬り伏せる。ユーリルが別方向からやってきた一体の喉笛を引き裂き、大きいカナタも次々と半破獣を倒していった。

 やがて破獣の唸り声は止み、静寂の中、船上で動いているのはカナタ達四人だけになった。誰もが疲弊し、脱力して、その場にへたり込んで肩で息をしている。

「……大丈夫ですか?」唯一立ったままの小さいエレが、案じ顔でカナタ達をのぞき込んできた。「アルテアである程度体力を回復させる事もできますが」

「駄目。やめて」

 片手を振って拒否したのは、大きいカナタだった。

「そうするには君が血を流さないといけないだろう? 昼間は他に手段が無かったとはいえ、僕はエレにそんな事をさせたくない」

 カナタの破獣化の衝動を抑える為に、小さいエレに自傷させた事を悔いているのだろう。もう一人の自分にとっては、別世界のとはいえ、彼女もかけがえのない『エレ』なのだ。『エレ』を傷つけない事が今の彼の矜持に違いない。

「それにしても」

 ユーリルが深々と息をついて、ぐるっと周囲を見渡した。

「これからどうしたらいいのかしら」

 その言葉に皆がはっと現実に立ち返る。船員を全員失ってしまった船は、正しい方角へ向かう事ができなくなった。それどころか、船の操舵など知らないカナタ達四人では、まともに動かす事すらできない。狼煙を上げてアルセイル側に気づいてもらえれば儲けものだが、それは汚れた川で清流に棲む魚を探すのと同じくらい絶望的な確率で、このままでは、外洋のど真ん中で干上がってゆくのを甘受するしか無い。

 十七年の人生最大の危機に瀕しているとわかって青ざめた時、カナタは、波間をかき分けて高速で近づいてくる何かの音を、耳聡く聴き取った。聴こえたか、ユーリルが顔を上げ、つられて大きいカナタと小さいエレもそちらを見やる。

 海の彼方から、黒い影がやってくる。その姿はどんどん大きくなり、次第に、紺碧の鱗を持つ巨大な海蛇である事がわかった。それを見て、カナタの脳裏に、幼い頃母が話してくれたひとつの物語がよぎる。

『これはお父さんインシオンには絶対に内緒ですよ』

 唇の前に人差し指を立てそう前置きする母に、どうしてと訊ねると、

『あの人は私がそんな無茶をしたと知ったら、きっとひどく怒るからです』

 と苦笑したので、母と子供達だけが共有する秘密になったのだ。

 曰く、海の底には青で彩られた都があって、海底人が暮らしている。その都へ赴くには、紺碧の鱗と銀の瞳を持つ海蛇に連れて行ってもらうのだと。セイレーン、と人々に呼ばれる海の女王の手から父を救う為、母はその海蛇を呼び出し、海底の都へ向かったのだと。数少ない母の己の昔語りだったので、よく覚えている。だがそれはずっと、母が子供達の為に考えた御伽話だと思っていた。

 しかし今、母が語った通りの生き物はカナタ達の前に姿を現し、首を持ち上げてじっとこちらを見下ろしている。その口がぱくりと開くと、中から一人の人間が飛び出してきて、甲板に降り立った。

 いや、人間と言い切るのは間違いかもしれない。たしかにその人物は、上半身は鍛えられた胸板を持つ人間の男のようだったが、下半身がびっしりと蒼い鱗に覆われた、鰭のある足を持っている。髪や瞳も、深い海を閉じ込めたような、美しい蒼だった。

「我らが氷女ひめ王が懐かしき血のにおいを感じ取って、我をあなたがたの元へ遣いに寄越した」

 彼はかしこまった口調で語り、そして深々とお辞儀をした。

「王のお招きです。我と共に都においでいただきたく存じ上げる、破神の血を持つ地上の民よ」

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