第3章 異郷の地にて(3)
月明かりがうっすらと室内を照らしている。
日が暮れると、侍女達はエレの身体を石鹸で泡立てた湯船で存分に洗い、昼間以上の薄着に仕立て上げ、とどめに花の香りのする香水をまんべんなくふりかけて出て行った。これから何が訪れるか。想像するだけで鳥肌が立ったが、寝台にぐんにゃりと横たわっている内に、頭がぼんやりして来て、思考する事を放棄していた。
枕元で焚かれている薬草が鼻の奥にとどまって渦を巻いているようだ。再び船酔いでもしているかのように視界もぐるぐる回っている。何を考えようとしていたかのすら忘れかけた時、きんと張り詰める空気に、戦い慣れたエレの意識は、本能的に危険を感じ取って現実に引き戻された。
がばりと身を起こして、くらり襲い来る目眩に再び寝台に突っ伏しそうになるのを、両腕を突っ張って耐える。少しでも油断すればまた恍惚の中へ引きずり込まれそうになる己を必死に呼び戻して、薄暗い部屋の中で息を殺して気配を探ると、闇に潜んで近づく殺気を、みっつ感じ取った。
女だからと甘く見ているのか。唇を噛み切ると、痛みで感覚がはっきりとした。紅よりなお赤く塗れた口でアルテアを紡ぎ出す。
『闇夜を照らせ』
虹色の蝶が飛び立ったかと思うと、部屋の真ん中で橙色に光って弾け飛ぶ。途端に室内を明るい光が照らし出して、闇に潜んでいた襲撃者の姿が見えた。部屋の隅にそれぞれ展開していた黒覆面の彼らは、いきなりのまぶしさに目を覆って呻く。
反撃に出るのはエレの方が早かった。
『殺そうという意志は失われるように』
黄色の蝶が覆面の一人に吸い込まれ、短剣を握っていた手がだらんと下がった。かしゃんと音を立てて武器が床に落ちると同時、その場に膝をつく。
『お前阿呆か。
数ヶ月前、殺さずに戦意を失わせる方法を編み出したと、嬉々として報告した時、インシオンは腕組みして渋りきった顔で見下ろして来た。しかし彼が想定していたのは、遊撃隊の仕事で圧倒的に多い破獣退治においての話である。破獣戦には有益ではないが、人間相手なら十二分に効力を発揮する事ができたのだ。
(意味はありましたよ、インシオン)
この場にいない相手に向かって得意気に独白したエレは、次の瞬間愕然とする羽目になる。
呼気を吐く一瞬の後、戦意喪失した襲撃者ががくりと倒れ込んだ。仲間の一人が、彼の喉笛をかき切ったのだ。使えない人間は文字通り切り捨てる、とばかりに。
驚きのあまり立ち尽くしてしまうエレに向け、ぎらりと刃が光る。残るもう一人が剣を振りかざしたのだ。鋭い輝きは過たずエレの心臓を狙っている。アルテアを発する時間は無い。後ずさる猶予さえ無い。胸が締め付けられたように苦しくなり、悲鳴すら忘れてひゅっと息を吐き出す事しかできない。
しかし襲撃者の短剣がエレに害をもたらす事は無かった。うっと低い呻き声をあげて襲撃者が硬直したかと思うと、その場にばったりと倒れ込んだのである。
「我が妻に、夫より先に夜這いをかけるとは、実に節操の無い連中だ」
襲撃者が倒れた後ろで、剣を振り抜いた体勢のまま立っている者がいる。思わず身構えるエレに向け、新手は声をかけて来た。
「お前のアルテア、見せてもらったぞ。ますます興味深い」
月光に照らされて不敵に笑むのは、少年王アーヘルだった。助けてくれたのだ、と認識した途端、安堵からエレはへなへなとその場に崩れ落ちてしまった。アーヘルはそれを一瞥して、残る襲撃者に向き直る。
「さて、不届き者は捕らえて、たっぷりと尋問しようか。口を割らせる方法はいくらでもあるぞ。指を一本一本切り落とすのも、爪先から火で炙ってゆくのもいい」
剣先を向けさらりと残酷な事を言ってのけるアーヘルへの襲撃者の返答は、短剣を構え直して突っ込んで来る事だった。
「生け捕りは無理か」
王が低く吐き捨てる声で我に返ったエレは、反射的にアルテアを放つ。
『氷の障壁よ、彼の者を守れ』
青い蝶がアーヘルと敵の間に割って入り、冷たい壁を作り出す。短剣が弾かれ、手からすっぽ抜けくるくる回って床に突き刺さる。襲撃者がそちらに気を取られた隙に、氷の障壁が四散したタイミングでアーヘルが大きく一歩踏み込み、剣を振るった。
月光の下で刃が青白く光る。肉を断つ音と共に血しぶきが飛び散り、襲撃者が前のめりに倒れ、あっと言う間に床に血溜まりを広げていった。
アーヘルが事も無げに剣を振って、刃についた血を払う。月光に照らされたそのなりを改めて見て、エレは目を丸くした。片刃と両刃、そして鍔の装飾の違いはあれど、少年王の持っている剣は、インシオンのそれと同じ、透明な刀身を持っていたのだ。
エレの驚きには取り合わず、アーヘルはすんと鼻を利かせて眉根を寄せる。枕元の香炉に歩み寄って、まだ燃えている薬草を手に取り、眉間の皺を更に深くした。
「これは禁じられた麻薬だ」
草を床に叩きつけ、靴底でぐりぐりと踏みつける。
「我々は感情を昂らせる薬草をよく焚く。だが、それと非常によく似た形状を持つこの草は、吸い過ぎれば意思を奪い廃人にする。だから禁じられている」
エレの背筋を怖気がはい上がって来る。さっきから頭がぼうっとしていたのは、この草のせいだったのだ。
「侍女が取り違えて据えて行ったという事ですか」
「最初から取り違えるように用意されていたとしたら?」
思わず今までのやりとりも忘れて、普通に質問してしまうと、アーヘルは半眼で宙を見すえた。その言葉と、今の襲撃から、エレはやっと考えがまとまって来た頭で思考し、絶句する。
誰かが、いるのだ。間違えたふりをして侍女すら見分けのつかない麻薬を用意し、暗殺者を雇って、エレを始末しようとしている誰かが、このアルセイルに。刃を持った姿の見えない相手にいきなり背後へ立たれた恐怖に、全身が冷えて、暑いのに身体の震えが止まらなくなった。
「陛下、ご無事ですか」
おっとり刀で、ランプを掲げた兵達が部屋になだれ込んで来る。アーヘルは彼らを一顧だにする事無く「大事無い」と答えると、
「始末しておけ」
剣を鞘に納めながら、倒れている襲撃者達を顎で示し、それからエレを振り返った。
「寝物語にしてやろうと思ったが、お前には、改めて場を設けて話す必要がありそうだな」
何を話す必要があるのだろう。エレはきょとんとしてしまったが、アーヘルが次に告げた言葉に、大きく目を見開く事になったのだった。
「我がアルセイル王家に伝わる、
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