第3章 異郷の地にて(2)

「ほう、化けるものだな、女は」

 昼餐の席へ案内されると、少年王アーヘルは獣の毛皮を使った敷物の上に腰を下ろして、エレを待ち受けていた。その隣には青い衣装で着飾った、エレより少しばかり年かさだろう、長い黒髪の女性が座していて、青の瞳でエレを見るなり、ぎんと刺すような視線を送って来た。

「まあ座れ」

 侍女達が大きな鳥の羽で作った団扇で風を送る中、アーヘルは自分の向かいを指差す。そこにはやはり毛皮の敷物があるだけだ。まさか床に座って食事をするとでもいうのだろうか。食事は食卓についてするもの、というエレの常識は根底から覆された。

 文化が違う。その事実が、大陸から離れた場所に来てしまった現実を、ありありとエレに突きつけた。

 へたりこむように座り込むと、やはり面のような笑みをたたえた侍女達が、次々と大皿を運んで来る。そこに盛られた物を見て、エレは更に驚愕する羽目になった。

 魚をさばいて生のまま盛りつけ、ご丁寧に頭と尻尾まで飾っている。貝類は火で炙ったらしく、まだぱくぱくと口を開けてはさかんに水分を噴き出している。香草のにおい漂うスープにも二枚貝がふんだんに使われていて、とにかく魚介類づくしだ。目の前に置かれた薄いパンのようなものだけが、何とか食べられそうな気がした。後はやはり未知の果物が豪快に切り分けられて、大皿に盛られている。そしてとどめに、町を通る時に見た木々になっていた実の上面を切り落としてストローをさしただけのものが、口休めの飲み物として手元に置かれた。

 食文化もあまりに違う事にエレが目を白黒させていると、少年王がおかしそうに肩を揺らした。

「大陸人には馴染みの無いものばかりで、怖気づいたか?」

 そうして彼は薄いパンに生魚を挟んで豪快にかじる。明らかにこちらを格下に見て馬鹿にしているその態度があまりにも腹立たしくて、エレはむっとした表情を作ると、彼を真似てパンに赤身の魚を挟み、かぶりついた。

 煮ても焼いてもいない魚など生臭いだけではないかと思っていたエレの予想はしかし、意外にも裏切られる事となった。香辛料をきかせたソースで味付けされた魚は口の中でとろけるように消え、ほのかな甘さすら舌に残す。パンが味を主張せずただもちもちとした食感を与える事で、魚の味がより引き立てられていた。

「どうだ、食ってみればなかなかのものだろう」

 目を丸くするエレを眺めて、アーヘルがまた愉快そうに笑う。相手の思うつぼにはまっていたのが悔しくて、エレは無言で魚を飲み込むと、果実の飲み物に手を伸ばした。白い果汁はこれまた予想外に甘ったるくて、口の中をすすぐにはいささか用をなさなかった。

「アルセイルは海の上を漂う島国だ。新鮮な魚介類を得るには事欠かない」

 自らもゆるりと果実の飲み物を楽しみ、アーヘルは先を続ける。

「いずれこの食べ物にも慣れる。ここでの暮らしにもな」

 エレは言葉を失ってしまった。ここでの暮らしに慣れる、と言ったのか。それではまるで、エレがこのアルセイルから帰れないかのようではないか。

「私はここで暮らしたりなどしません」若草の瞳に強い光を宿して、アーヘルを睨みつける。「イシャナに帰してください」

 しかし。

「お前の意志など関係無いのだよ」

 少年王はさもくだらない事とばかりに笑って、エレの言葉を切って捨てた。

「余の元にアルテアの使い手を置くのは、アルセイル王として当然の使命だ。お前はそれに従っていれば良い」

 そしてゆっくりと立ち上がりエレのもとへやって来ると、ぐいとこちらの顎を持ち上げて、振り払う間も無くエレの口にその唇を押しつけた。

 口づけの味を知らなかったのに、突然奪われた。しかも好きでも何でもない誘拐犯に。エレの中にも、初めての唇を捧げたい相手は、という思いはあった。その思いをいきなり踏みにじられて、つうっと涙が一筋こぼれ落ちる。

「泣くほど心地良かったか?」

 嫌悪のあまり鳥肌が立つほど長い間口を塞いでいたアーヘルは、ようやく唇を解放すると、余韻を楽しむかのようにぺろりと口元をなめる。

「これからいくらでも与えてやるぞ、エン・レイ。我が第三の妃としてな」

 冗談ではない。これ以上、この不遜な少年の思うままにさせてたまるか。エレはぎっと相手を見返して口を手の甲で拭い、言い切った。

「私はエレです」

 インシオンが与えてくれた名を敢えて強調する事で、お前の所有物にはならない、という意志を示す。しかしアーヘルにはエレの気迫もただの強がりにしか映らなかったようだ。

「気の強い女は嫌いではない」

 少年王の顔に揶揄する笑みが浮かぶと同時、平手が飛んで、エレの頬をしたたかに打った。

「だが、女は夫に貞淑に仕えるものだ。じっくり教えてやろう。今夜の床の中でな」

 打たれた以外の理由でエレの頬が赤くなった。少年王の言葉が何を示すのかわからないほど、エレは幼稚ではない。かつてイシャナに嫁ぐ身であった時に、侍女頭からそういう知識は与えられた。これ以上奪われるものがあってたまるか。頬を手でおさえて歯を食いしばり、屈辱に耐える。

 何も言い返さなかった事を、心が折れたとでも解釈したのだろう。アーヘルは満足気に口元を歪めて、昼餐は終わりだとばかりに悠然と部屋を出てゆく。彼の隣に座っていた女性も立ち上がり、再びエレに辛辣な一瞥をくれると、王の後を追って退出した。

 侍女達もてきぱきと食事のあとを片づける中、エレは敷物の毛皮を握り締める。

 何て傲慢な王だろう。ヒカやレイのような謙虚さなど微塵も見られない。教育係は何をやっていたのか。

 あんな王に征服される訳にはいかない。助けを期待できない以上、自分一人で戦うしか無いのだ。その決意を確固たるものにして、エレは立ち上がった。

「エン・レイ姫」

 囁くように声をかけられたのはその時だった。ひそやかな声の主を捜してきょろきょろしていると、「こちらよ」と部屋の出口から差し招く、白く細い手が見えた。

 片付けに徹している侍女達がエレを止める事は無さそうだ。エレは部屋を出て手の主と向かい合った。

 エレより少し小柄な、薄紫の髪と瞳を持つ少女だった。透き通るような色白で、手だけでなく身体全体がほっそりとしていて、儚げな印象を与える。

「はじめまして。私はレスナ」

 レスナと名乗った少女は、にっこりと笑って優雅に腰を折った。緑の薄布がさらりと流れ、サークレットが涼やかな音を立てて揺れる。

「アーヘルの第二王妃よ、一応ね」

 王を呼び捨てした事と、『一応』と補足した事を怪訝に思ってエレがわずかに首を傾げると、顔を上げたレスナから笑みが消えた。周囲を見渡して、こちらの会話に気を向けている者がいない事を確認してから、第二王妃は言を継ぐ。

「あの王を慕っている王妃などいないわ。皆、故郷を滅ぼされて連れて来られたんですもの」

 あまりに過酷な話をさらっと告白した事に、エレは驚いて、かける言葉を見失ってしまう。

「第一王妃のシュリアン様はもっと酷いわ。十という幼さで前王の側室にされて、前王が死んでアーヘルが王になった為に、后にあてがわれたのよ」

 さっき王の隣にいた女性よ、と説明されて、エレは思い出す。絹糸のような黒髪に、苛烈な青い炎を燃やした瞳の女性を。そのような経緯で王妃である事を強いられているならば、己の境遇を呪わしく思って、他人に厳しく当たるのも当然かもしれない。

「エレ、と呼んでいい?」

 レスナはふんわりと笑んで、エレの手を静かに包み込んで来る。ひんやりとした感覚が心地良く触れた。

「エレ、私達は同じ籠の中の鳥。困った事があったら何でも言って。力になるわ」

 孤立無援の異郷の地で、そんな優しい言葉をかけてもらった事が嬉しくて、じんわりと胸が温かくなる。

「ありがとうございます、レスナ様」

 しっかりと手を握り返して頭を下げると、「ああ、そのようにかしこまらないで」と肩をとんとん叩かれる。

「同じ身分なんですもの、レスナ、と気軽に呼んで。敬語も要らないわ」

 そう言われても、セァクの姫として礼儀正しく振る舞うよう叩き込まれた性分はなかなか消えない。敬語はすぐには直らないかもしれないが、せめて彼女の好意に報いようと、エレは笑顔で返した。

「はい、レスナ」

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