第3章 異郷の地にて(1)
暑い。
窓から差し込む太陽光の強さで、エレの意識はゆるゆると浅い眠りから現実へと誘われた。ベッドは木製の寝台に厚手の布一枚を敷いただけのもので、枕も妙に硬い。
じっとりと湿った暑さではないが、単純に大陸より気温が高いのだ。窓は開け放されているものの、風は申し訳程度にしか吹き込んで来ない。雪国セァク育ちのエレにはそれだけでもしんどい気候だった。
出港した船の船倉に再び押し込められたまま、数日。どこを航行しているのかわからず、ひどい船酔いで吐き続け、朦朧とした意識のままたどり着いたのは、どことも知れぬ島だった。
幌の無い荷馬車に積み込まれて揺られる中、ぐったりと横たわりながら見た光景は、イシャナともセァクとも違う町だった。
木材を組み合わせた平屋の家並。そこかしこに生えている背の高い木には大きな茶色い実が生っている。行き交う人々はやはり貫頭衣をまとって、男は日に焼けた腕を露出し、女は薄布を頭からかぶって、舗装されていない道を行き交う。
やがて、町一番の大きな建物に着くと、エレはその一室に押し込められ、何も状況を説明されずに放っておかれた。
いや、放っておかれた、と言い切るのはおかしいかもしれない。薄手の服をまとった女達がやって来て、薄い粥だの清涼な香りのする茶だのを甲斐甲斐しくエレに与えて行ったのだ。
得体の知れない連中が出したものに手をつけたくないという意地があったので、しばらく背を向けていたが、空っぽの胃は非常に正直に食べ物を求めたので、少しばかり口にしてしまった。粥は適度な塩分がきいてやたら美味く感じ、茶もねばついた口内を充分にすすいでくれたのが、相手に屈してしまったようで悔しかった。
時間が経って、ずっと回転していたような感覚がおさまって来ると、次は他の事を考えてしまう。当然最初に考えるのはインシオンの事だった。
矢で胸を貫かれた。普通の人間ならば一撃で死にかねない攻撃である。インシオンは『神の血』を持っている為、ひどい傷でもたちどころに治る体質をしている。だがしかし、今回撃たれたのは、透明な鏃だった。
もしエレの予感が当たっているならば、あの鏃は、インシオンが持っている剣と同質の存在かもしれない。常人以上の力を持つ破神の血の所有者にもすみやかな死をもたらすという不可思議な金属――いや、金属であるかも定かではない――に貫かれたら、いくらインシオンでも耐えられるかどうか。
きっと大丈夫、と自分に言い聞かせようとすればするほど、撃たれた瞬間の、苦悶に歪む彼の顔を思い出してしまう。どうか生きていて欲しい。自分はまだ彼に謝っていない。何も伝えていない。何もしてあげていないのだ。
ふるふると睫毛が震え、静かに濡れる。流れ出したものを必死にこらえようと、片手で目を覆った時。
「おや、姫君は一人で心細さに涙していたのか」
男にしては高いくせに大人びた声が聞こえて、エレは咄嗟に目をごしごし拭って身を起こした。
「泣いてなどいません」
正体のわからない相手に弱みを見せる訳にはいかない。まだくらくらする頭に、おさまれ、と念じて、エレは声の主を睨み返した。
声の通り、まだ幼さを残す少年だった。弟のヒョウ・カ――ヒカと大して歳も変わらないくらいだ。小麦色の肌だけでなく、髪も日に焼けたのだろう、薄いアッシュブロンドになっている。そこに黒曜石のような瞳が非常に強い目力を帯びていた。
「ようこそ、『アルテアの魔女』エン・レイ」
少年が両手を広げて、謳うようにのたまう。
「アルテアの故郷、アルセイルへ。余が現王アーヘル・ザイン・アルセイル四世だ」
どこからどう見ても子供にすぎない少年が『余』などという一人称を使った事も滑稽で驚きだが、この少年が王である事、しかも『アルテアの故郷』などと言い出した事が、エレに少なからぬ衝撃を与えた。
唖然とするエレの反応も予想の範疇だったのだろう。少年王は愉快そうに肩をすくめると、言を継いだ。
「船酔いはそろそろおさまっただろう? これから昼餐だ。着替えたら同席するが良い」
こちらの心情などお構い無しに指示を下して、少年王は部屋を出てゆこうとする。
「答えてください」
エレは慌ててとりすがるように声をあげた。
「インシオンは無事なのですか」
「インシオン?」
王が振り返り、覚えが無いとばかりに怪訝そうな表情を見せる。
「あなた方が撃った黒服の人です」
「知らんな」
まるで些末な事のように、少年王は鼻で笑い伏せた。
「大陸で部下が殺した人間の数など、余には関係無い事よ」
あれだけ大仰な誘拐劇を行ったのに、部下の行為に責任を持たないのか。何て王だろう。エレが愕然としている間に彼は立ち去り、入れ替わりに四人の侍女がきらきらしい衣装を抱えてやって来た。
侍女達は誰もが皆、張り付けたような笑顔でエレの服を脱がせると、てきぱきとアルセイルの服で着飾ってゆく。エレはあっという間に、レオタードにも似た、肌の露出の多い桃色の衣装に包まれていた。形の整った豊かな胸が強調され、腕や足、背中に薄布はかかったものの、すうすう風通しがきいて落ち着かない。居心地が悪くてもじもじしていると、侍女の一人が、寝ていてぼさぼさになったエレの頭から、髪を結っている紅の組紐をするりと解いた。
「返してください!」
すぐさまエレは抗議の声をあげる。それはインシオンからもらった大事な思い出の品だ。奪われる訳にはいかない。
しかし侍女は笑みを浮かべたまま首を横に振ると、エレが今まで着ていた服と共に組紐を取り上げた。わずかに残っていたインシオンとの繋がりも絶たれた気がして、言いようの無い喪失感がエレを襲う。
だが、繋がりはもう一つ残されていた。侍女が伸ばして来る手から、エレは腕を引っ込めて必死にそれをかばう。そこには、硝子製の緑の腕輪がはまっていた。これはインシオン遊撃隊全員との絆だ。これ以上奪われてたまるものか、という決意を込めて、エレは侍女達を睨みつけた。
一般人が持ち得ない気迫に、侍女達は多少なりとも気圧されたようだった。まがいものの笑顔のまま引き下がる。その笑みの下に一体どんな思惑を秘めているのか。察する事ができないのがうっすらとした恐怖をエレに与えた。
腕輪を奪う事を諦めた侍女達ではあったが、自分達の本分を果たす事を忘れた訳ではなかった。エレを鏡の前に座らせ、白粉をはたき、紅を引いて、赤銀の髪に櫛を通し盛るように編み上げてゆく。銀のサークレットが額に渡され、エレはすっかり、セァクの皇女でもイシャナの戦士でもなく、アルセイルの姫として作り替えられてしまった。
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