第2章 暗転(6)

 目が覚めても、暗闇だった。

 暗い場所は嫌いだ。今にもそこに炎が吹き荒れて、破壊の嵐が訪れるのではないかという恐怖に襲われるから。

 十四年前のアイドゥールの悲劇。破神が生まれ故郷を滅ぼし、多くの人間が、死ぬか破獣になるか、『神の力』を得て、人生を狂わされたあの日を思い出すから。

(インシオン……)

 その名を呟いたつもりが、もごもごした声しか出ない。不審に思ってしばらくぼんやりとし、ある瞬間にはっと我に返って、エレは今自分が置かれている状況を把握した。

 どこかの小部屋のようだ。間断無い揺れが身体に伝わり、砂利をざるの上で行き来させているような音が聞こえる。そんな小部屋の中に、エレは後ろ手に縛られ猿轡をかまされた状態で転がされていた。

 縄を解けないか、縛られた手首をすりあわせてみる。がっちりと抜かり無く固められて、ちょっとやそっとではびくともしない。胸元の、血を込めた小瓶も失われていた。

 襲われた時も、相手は完全にエレ一人を連れ去ろうとしていた。これはエレがアルテアを使う事を知った上で、声を発する事、小瓶を失ったエレが唇を噛み切って血を調達する事、いずれもできないよう念入りに、エレからアルテア行使の手段を奪ったのだろう。

 これが半年前だったら、どうしようもなくてただ途方に暮れていただろう。だが半年間の遊撃隊での活動は、エレを箱入り娘の皇女から、したたかな戦士へと成長させていた。縛られていない足を必死に手へ近づけて、靴の内側をまさぐる。こつん、と固い感触が手に触れて、エレはほっと息を洩らした。

(良かった、これは取られてない)

 インシオンが、敵に捕らわれた時やアルテアを封じられた時を想定して、

『隠し武器のひとつくらいは持ってろ』

 とエレに買い与えた小さな刃だ。見つからずに済んだようだ。それを引っ張り出し、逆手に持つ。縄は固かったが、小刀は少しずつそれを断ち切って、やがてぶつりと縛めを解いた。

 両手が自由になると猿轡を外して、深呼吸を繰り返しながら身を起こす。ここがどこかはわからないが、インシオン達が助けに来てくれる事をあてにして漫然と時間を過ごすなど、愚かな事この上無い。もう、状況に流されて助けを待つばかりの姫君ではない。自分自身で行動してこそ、あの人に釣り合う一人前の人間になれるのだ。

 扉に取り付いて息を潜め、表の様子をうかがう。アルテアを使う者の耳は、二人分の呼吸音を正確に聞き取った。

 二人なら、何とかなるかもしれない。エレは唇を歯で傷つけて血を含むと、扉の隙間からわずかに差し込む光を頼りに、小部屋の中にあった樽に目をつけた。手をかけてみる。中身は入っていないのだろう、エレの力でも転がす事ができそうだ。

 瞳にぎんと強い火を燃やすと、エレはその樽を思い切り突き飛ばした。がらんごろん、と、派手な音を立てて樽は転がる。

 囁き交わす声が聞こえた後、外から鍵が開いて、日に焼けた肌の男が慌てた様子で飛び込んで来た。そのあまりに無防備な首筋に向けて、エレは手刀を叩き込む。インシオン直伝の攻撃は一瞬で男の意識を奪い、床に沈めた。

 小部屋の外に出ると、仲間がやられて想定外だったのだろう、もう一人の男は焦りきった様子で後ずさる。エレはぺろりと唇をなめてアルテアを紡いだ。

『安らかな眠りを』

 虹色の蝶が紺色に輝いて、男の顔面に張り付く。蝶が消えると、男は呆気に取られた顔のままあおのけに倒れて動かなくなった。本来は不眠症に悩まされる人間を入眠させる為に使うアルテアなのだが、こういう使途もある。

「悪い夢、見ないでくださいね」

 二人に向けて済まなそうに両手を合わせて頭を下げると、エレは廊下を走り抜けた。

 相変わらず床は絶え間無く揺れていて、平衡感覚が上手く保てず、段々気分が悪くなって来る。むかむかする胸をおさえて、外の光が見える階段を昇り切った時、エレは信じられない光景を目の当たりにして、硬直してしまった。

 目の前一面に、碧が広がっている。とてつもなく大きな水たまり。いや違う。これは、海だ。話には聞いていたが、初めて見るその大きさに唖然としてしまう。空を飛ぶ海鳥の鳴き声がやたら耳に響く。ここは海に浮かぶ要塞。船の上だったのだ。常に揺れていたのは、波に打たれているからだ。

 しばらく自失状態に陥っていたエレは、背後からばらばらと近づいて来る足音にはっと現実へ立ち返った。振り向けば、抜き身の剣を手にした褐色の肌の男達が後ろから追いかけて来る。その服装は貫頭衣をまとった薄着で、セァクの衣装ともイシャナのものとも違う。

 とにかく、捕まる訳にはいかない。走り出し、反対側の甲板へ出た時。

「――エレ!」

 とてもよく聞き覚えのある、今一番聞きたい声が聞こえて、エレは船の縁に手をかけて身を乗り出した。

 船はまだ港に停泊していた。その桟橋を全力で駆けて来る黒服の青年がいる。

「インシオン!」

 喧嘩をしていた事も忘れ、エレは満面の笑顔で叫ぶ。

「飛び降りろ!」

 インシオンも声を張り上げて必死に手を伸ばした。

「必ず受け止めてやる! だから早くそこから飛び降りろ!」

「逃がすな!」「矢を放て!」「碇を上げろ!」

 背後で様々な怒号が飛び交っている。この機を逃したらもう後は無い。それを悟ったエレは、意を決すると、船縁へ足をかけ、思い切り空中へと飛び出した。

 インシオンが両手を広げて待っていてくれる。その腕の中へ飛び込んで行けばもう安全だ。ほっと安堵の息が洩れた。

 しかし。

 がくん、と。強く髪を引っ張られてエレは体勢を崩した。直後、船板に身体を叩きつけられ、肺の中の空気が一気に吐き出される。

 男の一人がエレの髪をひっつかんで捕まえたのだ。髪だけでぶら下がる状態になり、首が抜けそうで息が苦しい。このまま意識を手放してしまいそうだ。

「エレ!」

 インシオンが舌打ちして抜剣する。しかしそこに向けて、船から矢の雨が降った。しかもただの矢ではない。透明な鏃を持っている。

 まさか、の予感がエレの脳裏に浮かぶ。果たして視界は最悪の状況を映し出した。全ての矢をさばききる事ができず、矢の一本がインシオンの胸を撃ち抜いたのだ。衝撃でその長身がのけぞり、血を吐きながらインシオンが倒れてゆく。

「インシオン!」

 伸ばした手は届かなかった。エレの髪をつかんだ男が、エレを再び甲板に引き上げ、がっしりと抑え込んだからである。

「出航しろ! 急げ!」

 更なる揺れが訪れて、船が港を離れてゆく。

 インシオンの声が聞こえない。もう二度と聞けないかもしれない。

 エレの絶望を乗せて、船は外洋へと繰り出したのだった。

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