いつか終わる冬の話(2)

 城下街の憲兵から王が報せを受けたのは、早朝だった。男子宿舎に乗り込んで来たリエラに叩き起こされ、着替える間ももどかしく宿舎を飛び出し、城下の一等地に建てられた一軒家へ向かう。

 扉を開けた瞬間、カナタの五感に飛び込んで来たのは、ぐしゃぐしゃにひっくり返され蹂躙され、赤ん坊の泣き声が響く、元はよく片付いていたはずの家の中だった。

「……エレ」

 引き出しという引き出し、棚という棚が開け放たれ、中の物が足の踏み場もない程に散乱している。そこへふらふら踏み込んで、カナタはこの家にいるはずの女性の名を呼んだ。

「エレ!?」

 しかし応えは返らない。母を求める赤ん坊の泣き声一人分が満ちるばかりだ。

(……一人?)

 頭はめちゃくちゃに混乱していたが、脳の一部はやけに冷静な思考をし、奥の部屋のベビーベッドへ駆け寄る。赤銀の髪の赤子が、目一杯涙をこぼして泣きわめいていた。隣に寝かされているはずの自分――正しくこの時代に存在するはずのもう一人の自分――がいない。

 空いた場所に転がっていた輝きに気づく。紅玉ルビーにとまる蝶を象った銀の指輪。いつもエレの左薬指にはまっていたものだ。インシオンからもらったこれを、エレがどれだけ大切にしているかは知っている。こんな所に無造作に放り出すはずが無い。第三者が捨てた、と見るのが正しいだろう。

「カナタ、しばらく動かないで。何も触らないで。そのまま」

 指輪に手を伸ばしかけたカナタの背後から、いつに無く真剣なリエラの声が聞こえた。そこに込められた静かな気迫に、反射的に手を引っ込め背筋を伸ばして直立する。女騎士は家中を歩き回り、時折「成程ね」と独言を吐きながら、隅から隅までをくまなく調べ、やがてカナタのもとへ戻って来て「もういいわ」と告げる。

「物盗りに見せかけているけれど、違う」

 腰に手を当て、自信を持って彼女は言い切った。

「エン・レイ様は普段は、玄関に鍵をかけて過ごしてらっしゃるんでしょう?」

 その問いかけにうなずくと、リエラは玄関を指差す。

「玄関の鍵は無理矢理壊されてはいない。つまりエン・レイ様が自分で開けたんだわ。面識のある人間だったか、どうしても鍵を開けなくてはいけないような報せを騙ったか、どちらかね」

 後半については、ありうる、と考えられる。折しもインシオンが王都を離れている時だ。彼の身に何かあった、という話を持って来れば、エレは冷静さを失い、詳しく聞こうと、知らない相手でも扉を開けてしまうだろう。

「次に部屋の中。これだけ散らかっているけれど、金目の物は持ち去っていないのよ」

 物盗りを装うには詰めの甘い連中ね。そう呟いて、リエラは続ける。

「そしてエン・レイ様の子供。本当は二人いるのよね?」

 まさか四人だとも言えず、カナタはそう言いたい衝動をぐっと呑み込んで首肯する。するとリエラは顔の前に指を一本立ててみせた。

「一人でいいのよ、楯にするなら。子供一人人質に取ればエン・レイ様が逆らえないで、わざわざ運ぶ荷物を増やさないで済むってのを、わかってる。エン・レイ様の性格を把握しきっての犯行だわ」

 これで確定、と彼女は呟く。

「エン・レイ様をよく知っていて、殺すのではなく連れ去る。どこにかは、わかるわね?」

 アルテアの力を失いただの人間になったエレを、それでも欲する者、それは。ごくりと生唾を呑み込んで、カナタはその可能性を口にした。

「……セァク?」

「当たり」

 少女は深々と息をつく。

 セァクの中に、エレとインシオンの結婚を歓迎していない者がいる事は知っていた。『尊い我らの巫女姫をイシャナの死神が穢した』と声高に嘆く人間がいた話は、カナタの耳にも届いている。ヒカとプリムラの結婚についてさえ、『高潔な血が濁る』などと馬鹿らしい嫌味を朝議の度に言う老人どもも、目にして来ている。旧セァクと旧イシャナは、決してまだ一枚岩にはなれていないのだ。この不安定な状況につけ込んで、各国の再独立を目論む者がいても不思議ではない。

 王宮で騎士団に守られたヒョウ・カ王を狙うのは危険度が高い。より簡単にセァクの皇族を取り戻したいならば、城下で暮らすエレを狙う方が妥当なのだ。イシャナの英雄の妻という証である指輪をこれ見よがしに捨てたのにもうなずける。

(エレはもう王族とは関係無いのに)

 いまだに彼女を政治の道具として使おうという輩がいるのか。拳をぐっと握り込む。心に燃え上がるこの感情は、明確な怒りだ。

 カナタの目の色が変わったのを、リエラも見抜いたのだろう。彼女は指を三本、カナタの眼前に立ててみせた。

「セァクに行くなら、大きなルートはみっつあるわ」

 一本目の指を折る。

「まずは大河ヴォミーシアを遡る事。でもこれは船で目立つから、使わないと思う」

 続いて二本目。

「次はアイドゥール経由。これも無いわ。わざわざインシオン大佐がいない時を狙ったのに、彼の目の前を通り過ぎるような真似をする馬鹿はいないでしょう」

 詰めの甘さからしたら、するかもしれないけど。そうひとりごちて、彼女は三本目の指を折った。

「最後はテネの山脈を馬車で越える手段。可能性としてはこれが一番濃厚ね。辺りの山賊をあらかじめ買収しておけば、自分達が手を下さなくても、山賊達が追手を片づけてくれるもの」

 黒い瞳が挑戦的に見つめて来る。

「さあ、どうする?」

「テネを行く」

 一瞬の躊躇いも無しにカナタは言い切った。『神の力』で正確にエレを追う事ができなくなった今は、自分の直感を信じようと思った。

「陛下に頼んで、一番早い馬を用意してもらうわ」

 リエラも話が決まったなら早いとばかりに家を出てゆこうとし、玄関でふっと立ち止まると、

「あんたってさ」

 と振り返って、少しだけ寂しげな笑顔を見せる。

「ほんっと、エン・レイ様が絡むと顔つき変わるよね」

 当たり前だ。エレはカナタの存在意義だ。彼女を危険にさらす者なら、誰であろうと排除する。それにインシオンに直々に頼まれているのだ。必ずエレを無事に取り戻してみせる。それが『男同士の約束』を果たす事になるし、自分の実力をエレに見てもらう絶好の機会だと思うのだ。

 泣きじゃくる赤子をベビーベッドから抱き上げ、あやしながら、「大丈夫」とその耳元で囁く。

「エレ達は僕が助けるから、待ってて、ミライ」

 きっともう一人の姉が見ていたら、『やめて! あんたにそんな殊勝な態度取られたら気持ち悪くてしょうがない!』と嬌声をあげるだろう。いっそその光景を見てみたい嗜虐心がむくりと頭をもたげたが、今は遊んでいる場合ではない。こうしている間にも、エレは遠くセァクへと連れ去られてしまい、取り返しがつかなくなるかもしれない。ミライを後からやって来た憲兵に託すと、カナタは翠眼に決意の炎を宿して、家を後にした。

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