いつか終わる冬の話(1)
翻る赤銀の髪に向けて手を伸ばす。
「エレ」
呼びかけても、彼女は振り向かない。若草の瞳をこちらに向けてはくれない。
「エレ」
彼女は背を向けたまま。その先に待つ、黒髪に赤い瞳の青年を見つけて、その肩がぴくりと跳ねた。
まるでスキップを踏むように彼女は青年の元へ駆け寄ってゆく。二人は親しそうに腕を組み、微笑みを交わしながら遠ざかる。
走っても走っても、二人には追いつけなくて。
(……最悪だ)
とんでもない悪夢を見た。一日の始まりから鬱屈した気分に襲われつつ、寝癖のついた頭を振りながらベッドの上に身を起こす。サイドテーブルに目をやれば、木枠の写真立てが視界に入った。
大陸外から輸入されてまだ数の少ない、過去を現在に残す装置で切り取られた、とある一瞬。椅子に腰かけ双子の赤ん坊を抱いて微笑む赤銀の髪の女性と、彼女に寄り添う黒髪に赤い瞳の青年。二人の右側に立って少し口元をゆるめているのは、肩までの赤銀の髪と赤い瞳を持つ少女。そして左側には、翠眼を果てしなく不機嫌に細めた、黒髪の自分の姿があった。
女性――エレが『絶対に二人も一緒がいいです』と願って写真に収めた、少し変わった形の家族の姿だ。
エレとインシオンが結婚して数ヶ月。産まれて来た双子の容姿を見て、エレはようやく、周囲の人間全員がわかっていた過去と未来の因果を、正しく理解した。
『あなたは時折鋭いのに、基本的に鈍いですよね』
西方から一時帰国した姉のミライは、未来と彼方の名を与えられたもう一人の自分と弟を見ながら、呆れ切った様子で溜息を洩らした。
そしてカナタは。
『え、なんで。気づいてなかったのエレ!? ひどいよ!』
エレに自分との関係をわかってもらえていなかった事を嘆いてわめき散らし、つられたのか赤ん坊達までぎゃんぎゃん泣き出したので、『お前のせいだ』とインシオンに結構強い力で頭をはたかれたのである。
時を超えてまでエレを助けに来たのに、彼女は結局あの男を選んだ。エレには悪いが、将来自分が生まれなくなる可能性があった事を差っ引いたとて、あの男とは一生かかっても仲良くなどできない気がする。
(だってあいつが、僕のエレを持ってっちゃったんだもの)
ベッドの上で膝を立て、そこに顔をうずめてカナタは唸る。写真を見る度に不愉快になるなら飾らなければ良いのだが、毎朝エレの顔を見る方法がこれしか無い。本物の彼女は、ヒョウ・カ王が用意した城下街の一軒家で、子供達の世話に追われているだろう。顔を見せればエレは笑顔で招き入れて、美味しいお茶と手作りの菓子を出してくれるが、さすがに毎日押しかければ迷惑になる。
それにカナタは今、王の直属騎士団の一員だ。西方から興るかもしれない騎馬帝国の出方を知る数少ない人間として、王に助言を与え、時に彼を狙う不届き者から身を守る護衛として立ち振る舞っている。あまりエレの周りをうろつくと、彼女まで危険にさらしかねない。やや常識に欠けていたカナタでも、今ははっきりとそれを理解できた。
もう一度写真の中の愛しい人に視線を向けてから、カナタはのろのろとベッドを降り、黒い騎士服に身を包む。他にも白、赤、紺など選択肢の幅があるのに、大嫌いなあの男と同じ色を敢えてまとうのは、いつか彼に追いつき、追い越して、エレに認めて欲しいから。鏡をのぞき込めば、むすっとした顔の自分が見つめている。子供は異性の親に似た方が幸せになれるという説があるらしいが、誰からも「顔は母親似だ」と言ってもらえるのに、一向に幸せをつかめる気配が無いのがまた腹立たしい。所詮通説は迷信なのか。
叩き壊さない程度に鏡に拳をぶつけると、剣帯を装備してカナタは兵士宿舎の自室を出て行った。
王の責務は重いものだ。数ヶ月傍でヒョウ・カを見て来てそれはよくわかった。
朝一番の会議を終えて、王妃と朝食を採る時間もそこそこに、午前中の謁見が待っている。入れ代わり立ち代わり訪れる来訪者の話を一人一人丁寧に聞いて受け答えをする辛抱強さは、カナタには到底真似できない。
万一王を狙う者がいてもすぐに飛び出せる距離で背の後ろに手を組んで立ちながら、気を抜いていると周囲に気取られない程度に欠伸をかみ殺して、しかし場に注意を払う事は忘れない。誰が何歩で王に近づけるか、矢が飛んで来るならどこからか。空間把握能力の高いカナタはそれらを計算し尽くした上で、時折緊張を解くのである。
正午を遙かに過ぎて謁見が終了し、王が昼食へ行ったところで、ようやく騎士達にも休憩時間が訪れる。
王宮敷地内の一角にある兵士専用の食堂へ早足に向かう。昼飯は充分な量が用意されているはずなのだが、何せ兵の数は多く、そして気を張り体力を使う仕事の為、がっつく者が多い。出遅れると、残りかすのようなスープにしかありつけないのだ。
今日も謁見が午後に食い込んでしまった。パンも主菜もすっかり冷めきっているだろう。
(まあ、食べられれば何でもいいんだけど)
かつて、エレや遊撃隊と共に逃避行をしていた頃は、草を食んで飢えをしのいだ事さえあった。あの頃に比べたら、まともな食べ物である、それだけで充分だ。
休憩時間は短い。食堂へ急ぐカナタの行く先から、見慣れた黒装束が歩いて来るのが見えた。
一番会いたくない人間に出くわしてしまった。不快感もあらわに目を細めて立ち止まると、向こうから来た相手もカナタの前で足を止めた。
「……上官に敬礼をしないのは本来なら懲罰ものだが、気づかなかった事にしてやる」
こちらも今食事を済ませて来たのだろう。英雄の名を持つ男は、赤い瞳で威圧感たっぷりに見下ろして来る。気圧されまいと睨み返すと、「お前、本当に誰に似たんだ?」と、相手は目をつむって眉間を指でおさえた。
「あんたじゃないのは確かだね」
腰に手を当てふんぞり返って言い返せば、「生意気さは相変わらず絶好調だな」と小さくごちるのが聞こえた。
「まあ、それは今はいい」
黒の英雄――インシオンは、手を離して目を開くと、至極真面目な顔つきになって、再度カナタを見すえて来た。
「俺は明日からアイドゥールへ行く」
イシャナとセァクが統合されたフェルム新生統一王国。その都を、イシャナ寄りのイナトではなく、両国の旧首都からほぼ同じ距離にあるアイドゥールにしようという動きは、本格的になりつつあった。かつての悲劇の場所を新首都に定めたのは、ヒョウ・カ王の決断だ。そして再建の進捗を視察に向かうのは、イシャナの英雄であり、今は一連隊を率いる大佐のインシオンが月一で行う仕事だった。
しばらくこうしてばったり顔を合わせる危険性も無くなる事に、カナタはほっと息をつき、しかしインシオンが続けた言葉に、はたと思い至る。
「俺がいない間、エレ達を頼むぞ」
そうだ。インシオンがイナトを空けるという事は、エレは子供二人を抱えて寂しい思いをして過ごさねばならない。しかもいざという時すぐに彼女を守れる人間が、傍にいないのだ。彼女の心細さはいかほどか。
しかし、それをわかっていながら、この男の言う事に素直にうなずく気が起きなくて、カナタはわざとすねた風をしながら、目を合わせずに憎まれ口を叩く。
「何それ。上官命令?」
「いや」
返された言葉は、予想外のものだった。
「実力を考えても、一番あてになるのは結局お前だからな。男同士の約束だ」
そうしてこちらの頭を軽く叩いて、英雄はそのままカナタの脇をすり抜け、すたすたと歩き去る。
『男同士の約束』
その言葉が心にひっかかる。しかし、決して不快さを伴うものではない。むしろ胸の奥からむずがゆいものがこみ上げて、冷たい廊下を歩いてかじかんでいた指先までをじんわりと温めてすらくれる。
(頼られて嬉しいの? あいつに?)
自分の心情が理解しがたくて、一人、唇をへの字に曲げて突っ立っていると。
「なにあんた。英雄殿とあんなに親しく話しちゃって?」
突然背後からがっつりと肩を抱え込まれ、身に染みついた反射行動で、カナタはばっとその手を叩き落とし飛びすさって、剣の柄に手をかけていた。
「何よ、そこまで驚く事無いでしょうに」
ぶたれた手をさすりながら、心外そうに目を細めるのは、カナタと色違いの赤い騎士服をまとった少女だった。確か年齢はカナタと同じ十七のはずだ。
「何の用、リエラ」
不機嫌を隠さずに同僚の名を口にすると、リエラと呼ばれた女騎士は黒目がちの瞳にからかいの色をいたずらっぽく閃かせて、にんまりと口元をつり上げた。
「いやー。あたしもこれから食事だからさ、是非同僚君と語り合って情報の共有と親密度の上昇をはかっておきたい訳」
もっともらしい理屈をひっつけて来たが、目的は、カナタとインシオンの関係についてあれこれ聞きたいだけだろう。
ヒョウ・カ王の直属騎士団は、統一王国誕生時に新設されたばかり。王が将来有望な少年少女を、イシャナもセァクも家柄も過去も関係無しに見出して、直接指名で召し上げたので、年齢層はほぼ同じで、全員が同期となる。しかしカナタは必要以上に彼らと近づこうとは思わず、時折ある親睦会にも顔を出さずに孤高を貫いている。しかも上官や王に対しても横柄な態度で接するので、騎士団の中でもかなり浮いた存在になっている事は、本人もよく自覚していた。
カナタの素行をこき下ろす輩は相当数いる。だが、叔父のヒョウ・カ――ヒカが、『今の君は僕より年上だし、何より君はエレの子だし。気の済むようにしてくれて構わないよ』と笑って認めてしまった事と、最も近くにいる
「礼儀がなってなくて生意気」「口を開けばエン・レイ様の事ばかり」「そのくせ王が信頼を置いている」「出身もはっきりしないくせに何様だ」
以上が同僚達がカナタについて噂する時に挙がる主な題目だ。どれも本当の事だし、やっかみもこもっているだろうと思って、気に留めてはいなかったが。
しかしそんなカナタに対しても、距離を詰めて友好的関係を築こうとする奇人がいない訳ではなかった。リエラはその典型的な一人である。
受け答えもせずに足早に歩き出すカナタの後を、「ちょっとちょっと、待ってよ」リエラが駆け足でついて来て、横に並ぶ。
「あんた本っ当に愛想無いわよね。たまには皆の前で笑ってみたら?」
「敵愾心持ってる奴らの前で? 馬鹿みたいにへらーって?」
味方ではない人間に隙を見せない事が重要だというのは、インシオンを見て学んでいる。そっけなく返すと、リエラはぱちくりとまばたきをし、それから腹を抱えて吹き出した。
「まあそりゃそうよね! 自分を嫌ってる奴らにヘラヘラしたって、馬鹿にされる材料を増やすだけだものね! あんたが正しかったわ、悪かった!」
悪いと言う割には、声色に微塵も反省が含まれていない。何をしても悪びれない、その態度はかつての自分を見ているようで、軽い苛立ちを覚える。同族嫌悪というものだろうか。
「まあ、いいじゃない」
リエラがふっと口元を緩めて、柔らかい笑みを見せる。
「周りが何言ったってさ。あんたはやる事はちゃんとやってるし、英雄の信頼も得てるみたいじゃない。あたしはそういう奴、嫌いじゃないわよ」
それを聞いてもカナタの心は簡単に揺らいだりはしない。自分の事を好きだと言って欲しいのは、世界でただ一人、エレにだけだ。
一番好きだと、愛していると言って欲しい。その願いが決して叶わないとわかりきっている事が、更なる虚無感を呼ぶ。
それでも。
エレが笑っていてくれるなら、焦燥を押し込めヒカの傍にいて王国を守る事が、ひいてはエレを守る事になる。一番近くに居続ける事だけが好きな人を愛する事ではないという意味を、カナタは最近ようやく理解し始めていた。
しかし、事件は起きた。
インシオンがアイドゥールへと向けてイナトを離れた二日後に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます