第7章 光(レイ)と影(イン)(1)
雲一つ無い青空が窓から見える。
大陸南方のイシャナは、セァクのように常に雪に悩まされる事は無いが、時折海からやって来る嵐が直撃するという。実際昨日は、烈風と雷を伴った激しい雨が降り、建物が壊れるのではないかとばかりにがたがた鳴った。
しかし、嵐が過ぎた後には快晴が広がる。この心も空模様のようにからりと晴れてくれれば良いのに。決して手の届かない空を窓辺から見上げて、エレは深い溜息をついた。
イシャナ王城の一室に幽閉された今、エレの格好は今までのような旅装ではない。かといってセァクの民族衣装でもない。イシャナの上流階層がまとうというきらきらしい水色のドレスに身を包んでいた。エレにしたら無駄としか言いようが無いほど布を費やして、ひらひらの飾りと小さな硝子玉が、上半身から爪先を覆うスカートまで縫い込まれている。この一着を作る為にどれだけの金と人手がつぎ込まれているか。想像するだけで嘆息が洩れた。
あれから三日。食事はきちんとしたものが出るし、メイドがやって来て入浴から髪をすき、化粧を施す世話はしてくれる。
だが、それだけだ。
結婚相手ともなる国王、ないしは要職についている人間との会談の場くらいは設けてもらえると思っていたのだが、何の音沙汰も無い。部屋に押し込まれたまま、インシオンが今どうしているか、シャンメル達がどうなったかも耳に入って来ない。
メイド達はエレと言葉を交わそうとしない。必要最低限の会話には応じてくれるが、エレの質問に答える事は無い。それどころか、『アルテアの魔女』の世話をする事になって、明らかにおびえているようだ。髪をすくメイドの手は櫛ごとぷるぷる震えていた。
少しでも機嫌を損ねればアルテアで殺されるとでも思っているのだろうか。今のエレは言の葉の石を取り上げられて力を欠片も振るう事ができないのに、それでも恐いとは。自分という存在がイシャナの人間にどう見られているかわかる、端的な反応だった。
知らない。それがこんなにも不安を煽る事を、エレは今更痛感した。セァクにいた頃は臣下の奏上と民の歓声だけを聞いて、自ら真実を求めようともしなかった。その無知を今深く悔いる。
せめて外が今どうなっているか、セァクとイシャナの関係を知る事ができれば。焦れるエレの背後で、部屋の扉がノックされた。
今はまだ午前中。昼食の準備にはまだ早い時間だ。訝しみながら誰何の応えをするより早く扉が開かれ、ひょこりと蜂蜜色の髪の少女が顔をのぞかせた。
「あなたがエン・レイ?」
鈴の鳴るような可愛らしい声が小さめの口から発せられ、菫の花を彷彿させる色の瞳がエレを値踏みするように見つめる。身の丈に合った桃色のドレスが、人形みたいな小顔と小柄な身を一層可愛らしく引き立てている。
「ずっとお兄様に言っていたのに、誰も彼も邪魔してなかなか会わせてくれなかったから、勝手に乗り込ませていただいてよ。お会いできて嬉しいわ」
少女はとことこと部屋に入ってくると、エレに近づいて両手を取り、上下にぶんぶん振った。イシャナ王城の中で突然こんな友好的態度で接された事に、エレが驚いて言葉を失っていると。
「あら、ごめんなさいね。嬉しくてつい」
少女は今気づいたとばかりに目をしばたたかせると、こほん、と咳払いひとつ。それから、スカートの裾をつまんで優雅に頭を下げた。
「はじめまして、エン・レイお
イシャナにも姫がいたのか。本当に自分は相手について何も知らないまま嫁いで来たのだな、と恥ずかしくなる。そんなエレの羞恥を気づいてか気づかなくてか、プリムラは
「立ち話もなんですし、お茶を飲みながらお話ししましょうよ」
彼女がそう言うのを待っていたかのように、部屋の扉が開かれる。茶色い癖毛をひとつに結って分厚いレンズのはまった黒縁眼鏡をかけ、お仕着せの服を着た侍女が、茶器と菓子を載せたワゴンをおたおたと押しながら入ってきた。
「す、すみません、失礼いたします」
侍女はテーブルに差し向かいで座ったエレとプリムラに、何がそんなに申し訳ないのだろうかとばかりに何度も頭を下げながら、しかし素早い手さばきで茶を淹れる。何も無かったテーブルにはものの数分で、甘い香気漂う紅茶と、数種類の焼き菓子の盛られた皿が置かれていた。
すみませんすみませんと侍女がぺこぺこ頭を下げながら部屋の隅へと引き下がる。それを横目でちらりと見やってから、プリムラは「どうぞ召し上がって」とエレに茶を勧めた。
まだ湯気を立てるカップに口をつける。砂糖菓子をなめたような香りが鼻に抜け、甘い味わいが口内に満ちた。
「……おいしい!」
「その言葉をいただきたかったの」
思わず状況も忘れ素直な感想を洩らすエレを見て、プリムラが満足げに微笑む。
「イシャナではこんな風に香り付けに相応しい紅茶が南方で沢山採れますわ。お菓子も食べてみてくださいな」
示された菓子を手に取り口に運ぶ。焼き菓子は歯ごたえ良く、しかし舌の上で泡のようにとろけていった。
「東では毎年良質な小麦が収穫できますの。腕の良い菓子職人にかかれば、これだけの物ができましてよ」
プリムラはそう言って、イシャナについて語り出した。
色とりどりの花咲く春の草原。夏には鳥が恋を歌い、海での漁は豊富な種類の魚を得て、あちこちの街でそれぞれの特色を活かした祭が繰り広げられる。紅葉舞い散る中、豊穣を感謝する秋を経て、薄雪降る冬へと一年は流れ行く。イシャナの四季を軽妙に語るプリムラの口上に、エレはいつしか引き込まれて熱心に耳を傾けていた。
「今度はあなたの番ですわ」
プリムラに水を向けられて首を傾げると、イシャナの姫はにっこりと笑った。
「是非セァクの話を。お義姉様の思い出を語ってくださいませ」
「雪ばかりですよ」
苦笑を返して、エレは口を開いた。
万年雪に覆われるケリューンを背後に負った、夏も涼しい皇都レンハスト。年に一度開かれる祖神祭でライ・ジュの通りをゆく山車。人々の歓声。山へ獲物を追いに入る男達。勇敢なセァクの兵。自分を慕う幼いヒョウ・カ皇王。
イシャナより厳しい環境ではあったが、苦しいと思った事は無かった。あの地には思い出が沢山ある。人々は明朗な性格と輝く笑顔を忘れず、助け合って生きていた。これまでの過酷な旅路で忘れかけていたが、一旦思い出せば懐かしさに目頭が熱くなる。
言葉を切って黙り込んでしまったエレを、プリムラは神妙な顔つきで見つめていた。が、唐突に訊ねかける。
「お義姉様は、セァクに帰りたくて?」
言われて、どきりと胸が高鳴る。望郷の想いはいつもこの胸にある。うなずきかけ、しかしその首が中途に止まった。脳裏に浮かんだ三つ編みの後ろ姿によって。
インシオン。ずっと自分を守ってくれた黒の英雄。今どうしているだろうか。ソキウスが兵を率いて殺そうとしたという事は、彼が上層部にある事無い事を吹き込んで罪人に仕立て上げたのだろう。
今、インシオンはどこにいて、何をしているのか。かなり危うい境遇に立たされている事には違いあるまい。自分の為にそうなったのだ、彼の無事を確認するまでは、この国を去る訳にはいかない。エレは縦に振りかけた頭を横に揺らした。
「……インシオンに」
その言葉を口に出すのに何故か酷く時間がかかった。喉につかえているものを吐き出そうとすると、涙がこぼれた。
「会いたいです」
ぽたぽたと雫がテーブルに落ちる。プリムラは眉根を寄せてその様子を見ていたが、ふっと長い睫毛の目を伏せると、呟くように言った。
「わかりましたわ」
エレがはっと顔を上げると、妹姫は不敵な笑みを浮かべてみせる。そうして、部屋の隅に縮こまっていた侍女を振り返った。
「アーキ、わかっていてね?」
「ははははい! すみません!」
いきなり名を呼ばれた侍女が慌てて返答する。あまりの慌てぶりに眼鏡がずり落ちかけ、彼女はあたふたとそれを直した。
「エレ、とわたくしも呼んで良いかしら?」
アーキと呼んだ侍女から視線を戻して、プリムラは、悪戯を思いついた子供のような笑みをひらめかせる。
「わたくしも、ソキウスを一度出し抜いて、あのすましやがった顔をぐっしゃぐしゃに歪ませてやりたいと思っていたところですの。それがエレの助けになるのなら、一石二鳥ですわ」
意外と物騒な台詞を吐くお姫様だ。一体どこでそんな言葉遣いを覚えて来たのだろう。エレがあっけにとられてぽかんと口を開けたまま固まってしまうと、プリムラはふふっと声を洩らし、それから笑みを打ち消し真顔になって、その華奢な手でエレの手を包み込んだ。
「ですが、危険が伴います。アーキに任せますが、くれぐれもお気をつけて。わたくしは、折角得た友人を失いたくありませんの」
危険が伴うとはどういう事だろうか。それをこの頼り無さげな侍女に任せて大丈夫なのだろうか。様々な疑念を抱きつつも、エレはうなずき、その手を握り返した。
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