第7章 光(レイ)と影(イン)(2)

 その後は最早驚きの連続だった。

「これをお召しになって」とプリムラから渡されたお仕着せ服に身を包み、赤銀の髪を白帽子の中に仕舞う。すっかりいちメイドとなったエレの前に颯爽と現れたのは、身体の線が目立つ黒服をまとった女性であった。豊満な胸を凛と張り、短剣を帯びた細い腰に手を当て不敵に微笑む、そんな彼女が何者かわからなくて首を傾げると、女性は紅を引いた唇をにんまりとつり上げ、胸に手を当て恭しく腰を折った。

「アーキでございます、エレ様」

 エレは思わずぽかんと口を開け、失礼にあたるのも忘れて女性を指差してしまった。さっきまでおたおたしていた眼鏡の侍女と、目の前の強気そうな女戦士が全く結びつかない。アーキを名乗った女性とプリムラを交互に見やると、その反応を期待していたとばかりにプリムラがおかしそうに笑った。

「お気をつけて」

 プリムラが見送る中、エレはアーキに連れられて部屋を出る。

「顔を見られませんように」

 先程までの態度とは打って変わってしっかりした口調で囁かれ、言われた通りに下を向き、アーキの一歩後ろを歩く。廊下ですれ違う兵士達は、アーキの方が格上なのだろうか、敬礼をして見送り、誰もエレを見咎める事が無かった。

 城内を下へ、下へ。薄暗い階段を降りると空気が急に冷たく変わった。申し訳程度に蝋燭の火が揺れる、かび臭い石の通路を奥へ進む。

 アーキがふっと立ち止まったので、エレも足を止め、声をかけようとする。が、彼女は口に指を当てて『静かに』と合図すると、壁に背をつけて曲がり角の向こう側の様子をうかがった。

 エレもアルテアの巫女だ。本気で注意を払えばある程度の呼吸の動きはわかる。集中して、二人分の息遣いを道の先に感じ取った。恐らく見張りの兵だろう。

 アーキが『ここに』と手で示す。エレがうなずき返すが早いか、彼女は疾風のように駆け出していた。

「あっ!」「何者」

 二人分の声の後に、拳が人の身体を打つ痛そうな音と、くぐもった呻き声、そして誰かが倒れる音が、それぞれふたつずつ。それきり静かになったので、エレは曲がり角から恐る恐る顔を出し、そしてあっけに取られてしまった。

 振り返って得意気に微笑むアーキの足元に昏倒するイシャナ兵二人。アーキは息ひとつ乱れていないし、汗の一筋もかいていない。大した度胸と実力の持ち主のようだ。やはり先程までのおろおろした侍女と印象が大幅にずれていて、エレは脳内での認識の修正に苦労した。

 そこから更に奥へ、奥へ。分厚い鉄製の扉に突き当たった時、それまで無言を貫いていたアーキが振り返り、

「エレ様、これを」

 エレに一振りの剣を手渡した。見覚えのある鞘の装飾に目をみはる。見間違えるはずが無い。インシオンが所持していた剣だ。確認の為、柄に手をかけ少しばかり引き抜くと、材質のわからない透明な刃がのぞいた。

 この剣を今自分に持たせる意味は何なのか。問いかけるより先にアーキが扉に手をかけた。重い音を立てて扉は両側に開き、その奥には、自然の洞窟と思われる土壁の地下洞が広がっていた。どれだけの広さがあるのか、暗くて把握する事はできない。

 ぴちゃり、ぴちゃりと水の滴る音を聞いている内に目が暗闇に慣れてくる。視界に入ってきた光景に、エレは愕然として言葉を失ってしまった。

 インシオンがいた。会いたかったという切なる感情はしかし、驚愕に淘汰された。

 頑丈な鎖が彼を拘束し、四肢に鉄の杭が打ち込まれて土壁に縫いとめていた。まるで獰猛な獣を抑え込むかのような扱いだ。

 どうしてこんな。よろよろと一歩を踏み出そうとしたエレを、アーキが腕一本で遮った。何故止めるのかと不満を口にしようとした時、低く響く唸り声に、エレはそちらへ顔を向け、絶句せざるを得なかった。

 インシオンはエレを見ていた。いや、正確にはエレの方を向いてはいるが、エレをエレと認識していないようだ。赤い目をぎらつかせ、荒い息をついている。

 そう、まるで破獣カイダのように。

 四肢から流れ出る血で地面を赤く濡らして尚、彼が力尽きる事は無い。それが彼の『神の血』の力なのだから。しかし過ぎた流血は、彼の心から正気を奪い去ったのだ。

(私のせいだ)

 エレは数日前の己の言動を悔いる。あの時、シャンメルに負荷をかけてでも、インシオンを説き伏せて逃がしておくべきだった。彼はイシャナの英雄なのだから適切な扱いを受けるだろうと思っていたが、その考えが甘過ぎたのだ。ソキウスはインシオンを射る事に躊躇いを感じないような男だ。そのソキウスがインシオンを『英雄』として重んじるのではなく『死神』として迫害する可能性を、どうして考えなかったのだろう。

(私は本当に愚かだ)

 これではセァクの姫という立場に甘んじて、自分の目で見て頭で考える事をしなかった頃から、何ひとつ成長していない。何ひとつインシオンに返せないまま、彼をここまで追い込んだ。それを知らずにいた事も己の罪だ。

 責任を取らなくてはならない。たとえここで、破獣と化した彼に喉を食い破られようとも、それは自分に与えられた罰だ。エレは唇を引き締めると、アーキの腕をそっと押し退けて踏み出そうとした。

「それ以上彼に近づかれては困ります」

 制止の声がかかったのはその時だった。アーキの声ではない。しかし聞き覚えがある。振り返り、エレは更なる驚きで目をみはった。

 灰色の瞳がじっとこちらを見つめている。アーキと似たような黒装束に身を包み、紫の髪は今は結わずに流れるままだ。

「アリーチェさん……」

 彼女は一月も前に死んだはずだ。イシャナ兵を装ったセァク人に殺されたのだ。だがその姿は、出会ったあの時のアリーチェのままである。

 しかし。

「申し訳ありません。この私はあなたを詳しくは存じません。もう何人目かもわからないのです」

 胸に手を当て不可解な台詞を述べ、アリーチェは一歩ずつをゆっくりと踏み締めてエレ達に近づいて来た。

「ただ、あなたがインシオンに接するようならどちらかを消せと、主に言われておりますので」

 言いながら、こきぽきと骨のひしゃげるような音が聞こえ、陽炎のようなゆらめきに包まれてアリーチェの姿が変貌してゆく。エレ達の前で、彼女は破獣に変じていた。

「お下がりください、エレ様」

 アーキが低く囁いて腰の短剣を鞘から抜き放つと、ひとつ呼気を吐いてアリーチェだった破獣に斬りかかった。茶を出す時以上に俊敏な動きは破獣の急所を確実に捉えていたと思った。が、アーキの動きを上回る速度で破獣が身をひねる。短剣が空振ってアーキがたたらを踏んだところへ、丸太のような腕が振り払われた。

 間一髪、アーキは軽やかに後転して、当たれば即死の一撃を避ける。靴が泥を跳ねるのも構わず地面を蹴って、躍るように二打、三打を繰り出す。しかしアリーチェだった破獣の方も人を超えた存在。簡単に刃を食らいはしない。

 人と破獣の戦いは、一見互角のように見えた。だが、根本的な身体の造りの差が実力の差として出始める。翼を広げて宙を滑る破獣にアーキの刃が追いつかず、少しずつ、彼女に疲労が蓄積していった。

 このままではアーキが危ない。しかし、加勢しようにも今のエレはアルテアを放つ術を持たない無力な少女だ。インシオンの剣は持っているし、彼から与えられた剣術もあるが、実戦で振り回した事は一度も無い。初戦で剣を振るって破獣に勝とうなど、無茶にも程がある。

 どうすればいいのだろう。抱える剣をやたらと重たく感じて、こめかみを粘度の高い汗が伝い落ちた時。

「……エレ」

 小さく、名を呼ばれた。

 振り返れば、赤い瞳と視線が交わり、どきんと心臓が跳ねる。ただそれだけで涙がこぼれそうになる。

「俺の剣は持ってるな?」

 その目には今確かに、正気の光が宿っている。しっかりとうなずくと、インシオンは顔を伏せ低く言った。

「最悪の時にはそれで俺を殺せばいい。だから今は」

 その後は破獣の唸りになって聞き取れなかった。インシオンの姿が一瞬で変わってゆく。テネの山脈を抜ける時に見た、黒いたてがみを翻し、赤い目を爛々と光らせる、破獣に。

 鎖が糸のように千切れ、四肢を縫いつけていた杭があっけなく抜け落ちる。黒の破獣が一声吼え空気を震わせると、アリーチェだった破獣へとまっすぐに飛びかかっていった。

 闇の中で破獣がぶつかり合う。互いに咆哮をあげ爪を振るい、相手の肩に牙を立てて、赤い血が花のように狂い咲いた。

 人間と同じ赤い血。それは破獣が人である何よりの証だ。それを見たエレの頭の奥が、鋭い刃でえぐられたようにずきんと痛み、思わずその場にうずくまる。

「エレ様!?」

 アーキの声が耳に届く。しかしエレはそれに応える事もできないまま、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返すばかり。

 視界が激しくぶれる。目の前の破獣の戦いに、何か別の光景が重なってくる。それがある瞬間にかちりと焦点を合わせる。今まで『それ』を覆い隠していた硝子の障壁が、音を立てて砕け散った。

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