第7章 光(レイ)と影(イン)(3)
街が燃えていた。生まれ育った故郷アイドゥールが。
そう、あの日現れた黒い巨大な化け物――
完全に自失した少女が見上げる先で、火に包まれた家並の屋根を上手く飛び移りながら破神へ肉薄してゆく黒い影がある。その手に握った透明な刃が、炎の照り返しを受けてひどく美しい緋色に光ったかと思うと、跳躍した影によって破神の首筋に吸い込まれ、絶叫が聴覚を塞いだ。
ぼたぼたと、赤黒い血が雨のように降り注ぐ中、破神の身体が崩壊して地に崩れ落ちてゆく。その途中で、破神がくわえていた母の身体が人形のようにぼたりと地面に落下した。
『おかあさん……?』
よろよろ近寄ってゆくと、ぐったりしていた母がゆらりと起き上がった。その姿が見る見る内に黒い異形に変貌してゆく。
悲鳴は出なかった。声をあげる事さえ忘れて、母だったものに背を向け走り出した。しかし所詮子供の足。あっという間に殺意が近づいて耳元で獰猛な息遣いが聞こえる。首筋に近づいた死の囁きに泣き出しそうになった時。
ぎゃあっと一声残して、殺気が消えた。足を止め、のろのろ振り返る。
母だった獣が赤黒い液体をまき散らして消滅してゆく。もうあの温かい手が頭を撫でてくれる事は無い。お腹をすかせてもおいしい料理を作ってはくれない。うずくまって嗚咽を洩らした時、ふっと頭上にかげりがさして、顔を上げる。
黒い獣がそこに立っていた。黒いたてがみに赤い目。返り血を浴びて頬を伝う赤が、泣いているように見えた。
何故か恐怖は感じなかった。ふらつきながら立ち上がり、一歩一歩を踏み締め、背伸びをして手を伸ばしながら、呼びかけた。
『……ないてるの?』
『泣いてんのはお前だろ?』
武骨な手が頭を撫で、それからぎゅっと小さな身体を抱き締めてくれる。
大の泣き虫で、転んでは泣き、男の子におやつを横取りされては泣き、大きな蜂に追われては泣き、雷雨の夜に両親を恋しがっては泣いた。
その度に、傷を手当てし、自分の菓子を分けてくれて、蜂を追い払い、眠りにつくまで隣で少したどたどしい子守唄を歌ってくれた人がいた。
曇り硝子の向こう側にいて見えなかった人の顔が、霧が晴れるように鮮やかになる。
その人は、長い黒髪をゆるい三つ編みにし、炎のような瞳を持っていた。
思い出した。
何故忘れていたのだろう。エレの両目からぶわりと涙が溢れ出す。
十三年前、自分はこの破獣を、いや、インシオンを見ていた。彼が破神を倒し、『神の血』を受ける様を目の当たりにしていたのだ。それどころではない。その後彼が開いた孤児院に引き取られていたのだ。
それをアルテアで燃やしたのも自分だ。その時誰かに手を引かれて脱出したのだが、それが誰だったのか、その後どうしたのかまでは、今思い出せない。
だがこれは確かだ。頭を撫でてくれたあの手。あれはセァク前王ではなく、インシオンだ。今よりまだ少年っぽさを残した顔。しかし今と同じ意志の強い赤の瞳。大きな手の温もりは、あの人のものだったのだ。
涙に歪んだ視界の中、破獣同士の戦いに決着がつこうとしていた。インシオンである破獣がアリーチェだった破獣の胸を貫き、心臓を抉り出したのだ。
破獣があおのけにゆっくりと傾き、手足の指先から霧散してゆく。一瞬、柔らかく微笑むおだんご頭の女性の顔が脳裏を横切ったが、断末魔の叫びの前に幻影は消えた。
だが、インシオンはそれで止まらなかった。敵の心臓を貪り、血塗れになった顔でこちらを振り返る。赤の目はとても正気を保っているとは思えなかった。
『最悪の時にはそれで俺を殺せばいい』
先程のインシオンの言葉が蘇る。こういう事だったのか。破獣として狂って戻れなくなった自分を殺せ、と。
本来その役目を託されたシャンメルとリリムは今ここにいない。エレが果たすしか無いのだ。剣を握り締めた手が、かたかたと笑うように震えた。
インシオンはゆらりとたたずんでいる。エレはじっとその姿を見つめ返し、大きく息を吸い込んで、そして心を定めた。
がしゃり、と音を立てて剣が地面に放り投げられる。
「エレ様、危のうございます!」
アーキの制止も聞かず、エレは地を蹴って走り出すと、真正面からインシオンである破獣の腰に抱きついた。
自分はアルテアの巫女だ。言の葉の石など無くとも成し遂げてみせようと、アルテアを紡ぐ。
『あなたは破壊の血に負けない』
破獣がびくりと震えるのが全身に伝わる。しかし、くぐもった声が聞こえたと思ったと同時、肩に熱を覚えた。破獣の鋭い爪が食い込んだのだ。認識した瞬間痛みは増し、動悸が激しくなって息の出し入れが上手くできなくなる。
それでも痛みをこらえて深呼吸すると、まっすぐにインシオンを見上げる。その顔はいつかのように、返り血を浴びて、涙の跡のように頬が濡れていた。
泣いているのだ、この人は。
他人をぶっきらぼうに突き放して、そっけないふりをして。その裏で、人の生死に、ままならぬ身の上に、そして自分が犠牲にしたと思っているアイドゥールの人々や、破獣に殺された人々の為に、ずっと涙を流していたのだ。
「泣かないの」
必死に両手を差し伸べる。血の涙の跡に唇で触れて、赤く染める。十三年前のあの日、初めてアルテアを発したあの時のように。エレはインシオンに向けてただひとつのアルテアを、大事に告げた。
『泣かないの』
虹色の蝶がふわりと舞う。蝶は白く光って破獣に吸い込まれる。すると変化が起きた。角や牙が収縮してゆく。肌が人間の色に戻る。翼が消える。
黒い三つ編みに赤の瞳。人の姿をしたインシオンが唖然とこちらを見つめていた。
ゆっくりと。エレは花がほころぶように笑った。しかしその顔がくしゃりと歪み、ぽろぽろ涙がこぼれ落ちて、エレは笑いながら泣く。その身体がしっかりと抱きすくめられた。
「……ありがとう」
とても小さく遠慮がちな声だったが、その言葉は確かにエレの耳に届いた。それを聞いて更なる涙が引き寄せられる。
だが、今は泣いている場合ではない。一刻も早くせねばならない事がある。エレはインシオンの身体を強く抱き返すと、彼に告げた。
「行ってください」
インシオンが戸惑いに身を震わせるのが腕ごしに伝わる。それでもエレの決意は変わらなかった。
「ここからは私一人で戦ってみせます。あなたはシャンメルやリリムと共に、ソキウスの手からから逃れてください」
いや、ソキウスから逃れるなら、手ではなく耳か。そんな冗談が脳裏に浮かんだが、口にするまでの余裕は無かった。インシオンの赤い瞳が不服そうに見下ろして来たからだ。刺すような視線を怯まずに受け止めて、エレは口を開いた。
「私がイシャナ王の花嫁である限り、ソキウスはぎりぎりまで私に手を下さないでしょう」
声が震えるのを必死に抑えて、エレはインシオンに笑いかけた。
「少しでも有利に動くには、余計な人物はいない方が良いです」
途端にインシオンが半眼になる。
「本心か?」
問いかけに、エレはしっかりと首を縦に振った。
「……わかったよ」
温もりがほどかれる。インシオンが身を離して剣を拾い上げ、エレの脇をすり抜ける。エレはまっすぐ前を向いたまま振り向かなかった。
「後はお任せください。お見苦しいところをお見せしましたが、人間相手に後れは取りません」
「お願いします」
アーキが背後で頭を下げる気配がしたので、端的に返す。二人分の足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなるまで、エレは闇の中でたたずんでいた。
だが、一人になった途端、こらえていた感情が一気に水の形を取って溢れ出す。
振り向きたかった。その背にすがりついて止めたかった。傍にいて欲しかった。抱き締めていて欲しかった。声をずっと聞いていたかった。赤い瞳を思い出そうとすると、心臓が締めつけられるほどに苦しい。
この想いにつける名前を今まで認められなかった。だが、今はわかる。
「……イン、シオン」
もう応えてくれる相手はいないのに、しゃくりあげながらその名を呼ぶ。
「あなたが、好きです」
一度口に出せば、もう想いの奔流は止まらなかった。
「好きです」
うずくまって膝を抱え込み、エレは泣いた。独りでこの想いを吐き出し、そして綺麗に忘れようと誓って。
エレの悲しみが一通り過ぎる頃、複数の足音が近づいてきた。前回もこんな感じだったな、という考えが脳裏をよぎる。
「まったく、あなたはつくづく私を困らせてくれますよ、エレ」
兵を率いて来たソキウスは、嫌味たっぷりの声色で語りかけた。振り返り、睨むように相手を見すえると、「おお、恐い」と彼は肩をすくめる。
「そんな顔をしないでください。あなたには願ってもない話を持って来たのですから」
ソキウスの持ち込む話に良い知らせなどあるものか。信じまいと念じたエレの決意は、続けられた言葉に根底から揺らぐ事となる。
「イシャナ国王陛下があなたとの接見を望まれました。二人きりで、と」
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