第6章 そこにいた敵(2)

 ごうごうと水音が轟く地下水路。その縁にかかる手があり、水面から顔を出したエレがぷはっと大きく息をした。ぐっと歯を食いしばって通路に上がると、離すまいと握りしめていた腕を引っ張り上げる。血の跡を引きずりながら、インシオンの身体も水から逃れた。

 暗がりに目が慣れて来る。石組みの冷たい水路の中を水が流れてゆく。道は迷路のように複雑に入り組んでいて、どちらへ向かえば外へ出られるか、あるいは少しでも王城から――ソキウスのもとから――遠ざかれるかはさっぱりわからない。

「イン……!」

 腕の中の人物の名を呼ぼうとすると、口が手で塞がれる。血のにおいがつんと鼻を突いた。

「でかい声……出すんじゃねえよ……ほんと思慮の足りねえお姫さん、だな……!」

 荒い息を繰り返しながらもインシオンが悪態をつく。その様があまりにも痛々しくて泣きそうになるが、ここで泣いたら彼を余計に困らせると思って、こみ上げるものをぐっと呑み込んだ。

「いいから、どこか脇道に逸れて……できるだけ姿を隠せ。そして」

 続けられた言葉に、エレは限界まで目を見開く羽目になった。

「俺に刺さってる矢を、全部抜け」

 インシオンの背や四肢に刺さった矢は、一本や二本ではない。いちどきに引き抜こうものなら、大量出血を引き起こす。医者の手当も受けられない現状では、死に至りかねない。

「では、私が回復のアルテアを」「いらん」

 打開策を見いだしたエレの言葉は即座に否定される。

「アルテアを使ったら……ソキウスにすぐ見つかる。いいから、俺の言う通りに……しろ」

 何故ソキウスに見つかるのか、何故アルテアを使ってはいけないのか。何もかもがわからない。だが、赤の瞳は強い光を失わないでまっすぐにこちらを見つめている。その光を受け止めて、エレも腹をくくった。

 インシオンの腕を自分の肩に回して、力を込めてその身体を支える。一歩一歩を踏みしめて、薄暗い脇道へ入った。

 大きな水音が遠ざかった所で、インシオンがずるずると床に崩れ落ちる。壁にもたれかかる事もできないくらい消耗しているようだ。エレは言われた通り矢に手をかけ、思い切り引き抜いた。傷口から鮮血が噴き出して、苦悶の声がインシオンの口から洩れる。

「ごめんなさい!」

「構わん」

 慌てて詫びても、返って来るのは、喉の奥で自嘲気味に笑う声。

「今までさんざんいびってきてやったんだ……仕返しだと思って存分にやれ」

 こんな時まで、こちらに心配をかけまいと冗談を放つなんて。エレの鼻の奥がつんと突かれた気分になった。

 最初は何て冷酷な人だろうと思っていた。だがそれは表面の姿なのだ。破獣になる自分から距離を置く為に、同情を惹かない為に、敢えて非情なふりをして突き放す。それがこの人の優しさだったのだ。

 ともすれば涙がこぼれそうになるのを、口を引き結んで必死にこらえながら、エレは力を込めて二本、三本と矢を引き抜く。最後の一矢を抜き終わった時には、インシオンもエレも周囲の床も、全てが紅で染まっていた。

「……それでいい」

 インシオンが弱々しく微笑む。そのまま目を閉じうなだれたので、ぎょっとして手首をつかむ。ばくばく速い。違うこれは自分の鼓動だ、と気づいて改めて脈を確かめる。頼り無い拍動がエレの手に伝わった。

 インシオンには止められたが、やはり回復のアルテアを使うべきではないだろうか。決意を込めて言の葉の石に手をかけた時。

「エレはっけーん」

 あまりにも場違いな明るい声に、エレはそちらを向き、そして安堵のあまり泣き出しそうになってしまった。脇道を笑顔でのぞき込み手を振る萌葱色の髪の少年。王城前で別れたはずのシャンメルが、にこにこ顔で歩み寄って来た。

「アルテアは使わなかったんだね、偉い偉い。あれ使っちゃうとソキウスにすぐバレるからさー。使う時の蝶は一般兵にも見つかるし」

 そう言いながらシャンメルはエレの頭をくしゃりと撫で、インシオンの傍らに膝をついた。

 何故アルテアを使ってはいけなかったのか。何故ソキウスに見つかるのか。そもそも何故シャンメルはここがわかったのか。

「あー待った待った、順番に言うから」

 訴えかけるような視線は存分に伝わっていたらしい。シャンメルは苦笑して両手を掲げ、待て、の意を示した。

「まず何でここがわかったか。リリムのおかげ」

 指を一本立ててシャンメルは語り出す。

「リリムの『神の目』は、破神の血を浴びた人間や破獣の気配をある程度の範囲まで『見る』事ができるの」

 それから二本目の指を立てて、耳をとんとんと指し示す。

「ソキウスの能力はそれに近い。あいつは『神の耳』の持ち主なんだ」

 初耳だった。ソキウスも破神の血を浴びたアイドゥール出身者だというのか。エレの驚きを置き去りにしてシャンメルは続ける。

「あいつは、破神の血を持つ人間や破獣の声を拾う事ができるんだ。リリムより範囲は広い。その気になって対象を一人に絞ったら、多分この大陸に逃げ場は無いくらい」

 だからきっとこの会話は筒抜け。シャンメルはそう付け加える。

「アルテアなんて使ったら、エレだって一発でわかる。でも、使うなって言ったのはそういう意味だけじゃないの」

 少年の視線をエレも追う。そして目をみはった。

 床に横たわるインシオンは、苦悶の表情が薄れ、呼吸も穏やかになってきている。更に驚くべき事に、流血はもう止まりかけているようだ。いや、完全に止まっている。しかも。

「傷が……!?」

 あれだけの酷い矢傷がほとんど塞がっていたのである。

「これがインシオンの力」

 愕然と言葉を失うエレに向け、シャンメルが三本目の指を立てて神妙に告げた。

「破神並の回復力を持つ『神の血』。それがインシオンの力」

 十三年前、インシオンが破神を倒したと聞いた。その時至近距離で破神の血を浴びたとも。その人物に、破神に最も近い能力が発現してもおかしくなかったのだ。

「ソキウスはずっとインシオンの血を狙ってた。破神の血を引く人間の血を集約させると、破神を復活させられるらしいよ」

 シャンメルの告白はあらゆる意味で衝撃だった。破神を復活させるなどできるのか。そして、そんな危険な思想を持つ人間とわかっていて、インシオンはソキウスを傍に置いていたのか。

「そういう人なんだよ、インシオンは」

 エレの言わんとするところを察したか、シャンメルが薄い笑みを見せる。いつもの鷹揚とした笑いではない。どこか寂寥感を帯びた笑みだった。

「自分が破神を上手く倒せなかったせいで、多くの人が死んだり破獣になったりした。だからせめて、一体でも多くの破獣を自分の手で屠って、『神の力』を持つ人間は一人でも多く自分の手の届く場所に置いて守ろうとした。本人絶対口にはしないけど、そういう人だよ」

 それを聞いたエレの目から、とうとうつうっと一筋の熱が伝い落ちた。

 破神の呪いを受けた自分が一番苦しい思いをしているのに、どうしてそこまで他人の事を思いやれるのか。ぶっきらぼうな態度の裏に、どこまでの情け深さを隠していたのか。それを想像するだけで涙が止まらなくなる。

「あー、泣かない。今泣かない」

 歯を食いしばって泣き声を殺すエレの背中を、シャンメルがとんとんと叩いてなだめてくれる。

「オレの『神の足』は普通の人間の数倍の速さで、障害物も突き抜けて移動できる。二人連れるのはちょっとしんどいけどさ、行ける所まで行くよ」

 今はシャンメルに頼るしか無い。差し伸べられた手を取ろうとした時。

「……シャンメル」

 低い声が二人を遮った。二人同時に視線を下ろす。赤い瞳が鮮烈な鋭さを帯びてシャンメルを見すえている。

「お前、ここに来るまでにどれだけ縮めた」

 インシオンが何を言っているのかエレには理解しかねた。だがシャンメルはぐっと言葉に詰まって目を逸らす。ごうごうと水流の音ばかりが聞こえる時間が過ぎた後。

「多分、年単位」

 水音にかき消されそうなほど小さい声で、シャンメルがぼそりと言った。インシオンが舌打ちしてあおむけに寝返りを打つ。まだ起き上がるまでは体力が回復していないようだ。

「エレ」

 その瞳が唐突にエレに向いた。

「お前には無いようだがな、『神の力』を受けた人間には、能力を使う代償がある」

 これも初耳だった。驚きのあまり二の句が継げずにいるエレに向け、インシオンは淡々と語った。

「俺は知っての通りだ。こいつは『神の足』を使う距離と運んだ人数に応じて数日から数年寿命が減る。リリムは『神の目』を一回使う度にひとつ、嗅覚か味覚を失う。もうどれだけわからなくなってるのか、あいつは言わないから俺も知らねえ」

 ソキウスだけは見破れなかった、と最後に付け加えて、インシオンは深い息をつき、それから吐き出すように言った。

「シャンメル。お前一人で行け」

「はァ!?」

 シャンメルが、エレの前では初めて驚きの声をあげた。自分の声の大きさにはっとして口を塞いでから、小声で鋭く返す。

「それじゃあオレがあんた達を助けに来た意味無いよ!」

「意味はある」

 赤の瞳をエレに向けて、インシオンは言い切った。

「この行動でお前とリリムは、こいつに信用を与えた」

 心の中を見透かされているようで、エレはどきりとした。たしかに、裏切り者はソキウスであると発覚した以上もう疑う余地など無いのだが、リリムとシャンメルが力を合わせてインシオンとエレを助けに来てくれた。それはどんな言葉よりも強固な信頼となってエレの胸に根を張ったのだ。

 その誠意に応えねばならない。エレは一瞬瞑目して、目を開けるとシャンメルに言った。

「行ってください、シャンメル」

 非難めいた視線が注がれるが、エレが怯む事は無い。もう決めたのだ。

「私はセァクの姫です。そしてインシオンは英雄です。それなりの扱いを受けるでしょう。ですがあなたとリリムがそうという保証はありません。最悪、反逆者として処刑される可能性が高いです」

 声が震えるのを抑えていられるだろうか。きちんと笑えているだろうか。自信は無い。

「誰が残るのが得策かは、これ以上言う必要はありませんね?」

 シャンメルがこちらをじっと見つめる。値踏みしているような、怒っているような、感情の読めない瞳だった。

「……気は変わらない?」

「はい」

 まっすぐに見つめ合ったままエレはうなずく。シャンメルは気まずそうに視線を落とし、がりがり頭をかいた。

「あーもー、何でこの隊はみんな自分勝手かなあ」

「シャンメルも相当だと思いますよ?」

 まさかそんな切り返しが来るとは思ってなかったのだろう。少年がきょとんと目をみはる。が、一瞬後には至極真面目な顔つきになり、

「死んだら連れ戻しに地獄まで行くからね」

 物騒な言葉を別れの挨拶代わりにして立ち上がり、たん、と床を蹴る。直後、彼の身体は鳥のように軽やかに宙を滑り、あっと言う間に水路の向こうの闇へと消えた。

 それを見送っていたエレの口元から笑みが消える。大騒ぎする胸に当てた手が震え、歯がかちかち鳴る。強がりで押し込めていた恐怖がせり上がって来る。しばらく自分で自分を抱き締め震えが治まるのを待った後、エレはまっすぐに顔を上げ、まだ少し震える声でアルテアを紡いだ。

『光の担い手よ、宙を駆けよ』

 黄色い蝶が光の矢となって水路を照らし、そして闇の奥へと吸い込まれた。


 イシャナ兵がエレ達を見つけたのはそれからすぐだった。

「シャンメルを逃がしましたか。賢明な判断です」

 兵を率いて現れたソキウスは、エレを見るとにっこりと笑った。今までのような、親しみを感じる穏やかな笑みではない。内に秘めていた悪意を前面に押し出した、不快感を与える笑みだった。

「インシオンの命を保証してください」

 インシオンをかばうように前に出て、エレはソキウスを睨み返す。気迫で相手に飲まれないようにと強気を保つのが精一杯だ。

「インシオンを殺したら、あなたがたの言う事は聞きません」

 ソキウスが一瞬、面倒くさそうに口を歪めるのがわかった。だが彼はすぐに笑顔を取り繕う。

「勿論ですよ。エレ、あなたはセァクの要人。インシオンは我が国の英雄。相応のもてなしをいたしましょう」

 その言葉が、声色が、どれだけ薄っぺらいものか今ならわかる。言葉を操るアルテアの使い手だというのに、何故こんな事態になるまでこの程度の欺きを見抜けなかったのか。巫女と讃えられていた自分が恥ずかしくて消えたくなる。

 だが、消える訳にも逃げる訳にもいかない。ここから先、インシオンを守れるかは、エレの言動次第なのだ。

「確保を」

 ソキウスが指を鳴らすと、剣を油断無く構えたままのイシャナ兵がエレ達に近づいて来た。

 腕をつかまれて立たされる。エレは抵抗せずに静かに目を閉じる。

 インシオン遊撃隊と共に旅をした記憶が瞬時に脳裏を駆け巡る。決して愉快な思い出ばかりではない。だが、セァクにいた頃には決して経験できない驚きに満ちた、輝ける日々だった。

 インシオンに出会えて良かった。

 心からそう思った。

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