第6章 そこにいた敵(1)
「見えて来たぞ」
御者台のインシオンからそう声をかけられて、エレはシャンメルと一緒に幌の外へ顔を出して見た。丘の向こうにそびえる、白亜の要塞のような壁。その全貌はセァク皇都レンハストより数倍は大きいだろう。
イシャナ王都イナト。セァクの民の倍が暮らすという大都市のその奥には、天を突かんばかりに高い城がそびえていた。
ここが旅の終着点。そう思うと、胸のあたりが軽い痛みを覚える。這い上がって来る不安を押し込めると、エレは腕に輝く緑をさすった。
「インシオン」
ソキウスが隊長に声をかける。
「私は先に王城に行って、然るべき報告をしてまいります。あなた方はエレを連れて後からいらしてください」
その言葉にインシオンはうなずいて、街門のところで馬車を一旦止めた。
「ではエレ、また後で」
ソキウスは淡い微笑を残し、馬に乗り替え単騎で王城へ向け駆けて行く。その微笑みがあまりにも頼り無げで、言いようの無い不安をエレの胸に落とす。呼び止めようか、しかし何を話せば良いのか。迷っている間に彼の姿は通りの向こうへと消えてしまった。
馬車は城下街を駆け抜け、まっすぐに城へ向かう。御者台のインシオンはコートのフードを深々とかぶっているので、今目の前を通ってゆくのが英雄の一団だという事に気づく民はいない。インシオンの性格上、余計な野次馬には取りつかれたくないのだろう。段々彼の考えがわかるようになってきた気がして、エレは何となく嬉しくなり、さっきまでの不安を忘れて一人薄い笑みをひらめかせた。
王城前に着くと、インシオンは御者台からひらりと飛び降り、シャンメルとリリムを指で呼ぶ。
「お前らはここで別行動だ」
「えー」
途端にシャンメルがぷくりと頬を膨らませた。
「つまんないよー。オレだって城に入りたーい。お城の食事にありつきたーい」
「命令だ」
ぶうぶう文句を垂れるシャンメルに、インシオンは短く言い切ってそれきり目を逸らし、コートのフードをようやく下ろす。長い三つ編みが跳ねたところで、
「エレ、来い」
と彼はこちらに向けて手を伸ばして来た。
「恐らく陛下に謁見するだろう。そこまでは守ってやる。後はお前の言葉で戦え」
そう。もうこの後は彼らの力は借りられないのだ。エレは表情を引き締めてうなずき、差し伸べられた手を握り返した。
イナトの城はセァクのそれとは完全に違った。セァク皇城は外の寒気を遮断する為に煉瓦で外壁を組んでいる。しかしイシャナ王城は白塗りの壁で、大きく取った窓には女神ゼムレアの創世物語を描いたステンドグラス。建物内だというのに地下まで続く水路があちこちを流れ、廊下には赤い絨毯がどこまでも敷かれている。
インシオンと並んで上階へ続く大理石の階段を前にした時、エレの鼓動は否応なしに高まった。
この階段を昇ればイシャナ王と会う。セァクの姫として、彼と決裂しないよう振る舞わねばならない。アルテアを紡ぐよりも慎重に、言葉を選んで発しなくてはならない。
果たしてできるだろうか。心の臓の位置に手を当て目を閉じ、己に問いかければ、まぶたの裏を、ヒョウ・カの笑顔が、セァクの人々の期待に満ちた目が横切る。
そう、彼らに報いなければならない。意を決して目を開くと。
「待て」
インシオンがエレの行く手を腕で遮り、一歩前に出た。
直後、ばらばらと足音が駆けて来る。廊下の向こう、階段の上。そこかしこから白鎧をまとったイシャナ兵士達が現れた。誰も彼もが抜き身の剣や矢のつがえられた弓を手にし、その敵意は、違える事無くこちらに向けられている。
一体どういう事か。血の気が引いて蒼白になるエレの耳に、なじんだ声が届いた。
「そこまでです、二人とも。陛下に目通りする事はかないません」
ずっと聞いてきた声なのに、ずっと感じていた親しみが今は欠片も含まれていない。酷く冷たい声色だ。
声の方向を見る。階段の上、兵の間からゆったりとした足取りで進み出て来たのはソキウスだった。「また後で」と微笑したあの柔らかい表情ではない。眼鏡の奥の瞳は絶対零度に氷結してこちらを見すえている。
「インシオン」
瞳と同じ、聴く者を凍てつかせそうな冷たさで彼は宣告した。
「アルテアの魔女をたぶらかし取り込んで、陛下に害をなそうとした反逆罪により、今ここであなたを処刑いたします」
処刑。エレの思考は一瞬追いつかなかった。しかし理解した瞬間、顔面蒼白になる。彼は今、インシオンを殺すと言ったのだ。
身体はがくがく震えるが、頭の奥は酷く冷静だった。抜け落ちていたパズルのピースがはまるように答えが見える。インシオンを陥れようとしていた身近な人間。それを最初に示唆する事でいの一番に容疑者から外れる事ができる者が、たった一人だけいた。エレはその可能性を見落としていたのだ。
「裏切り者は、あなただったのですか」
エレが唖然と洩らすと、「裏切る?」ソキウスは高慢に鼻で笑って、嘲るように告げた。
「
インシオンは背中しか見せていないが、少なくともそこに動揺は見られない。最初から知っていたのか。知っていて、ソキウスをずっと傍に置いていたのか。何故そんな危険な真似をしたのか。それともインシオンでも読めない事があって、驚きを超えて黙ってしまっているのだろうか。顔が見えないので何もわからない。
「やりなさい」
エレの混迷など知らぬとばかりに、ソキウスの右手が高々と掲げられる。
「し、しかしこれでは魔女にも当たる可能性が……」
「構いません。やりなさい」
兵の狼狽にも耳を貸さず、右手が振り下ろされる。弓兵達が引き絞った弦から手を離すのと、黒髪が至近距離に迫って抱きすくめられるのとが同時に起こり、そして。
鈍い音を立てて、インシオンの全身に容赦無く殺意の矢が幾つも幾つも突き刺さった。
血を吐く音が耳元で聞こえる。腕の力が抜ける。崩れ落ちそうになる身体を慌てて抱きとめると、男性一人分の体重がずしりとのしかかって、思わず膝を折った。
「魔女には当たりませんでしたか」
さも些末な事のようにソキウスが目を細めて、兵士達に告げた。
「構いません。インシオンの首をはねなさい。魔女は生かしたままで」
その言葉に従って兵士達が動き出す。じりじりと狭まってくる包囲の輪を前に、エレはぎゅっとインシオンの身体を抱き締めた。温かい液体が流れ落ちてゆく。それが彼の命が流出しているようで、止まれとばかりに腕に力を込めた。だが、その腕も激しく震える。
いなくなってしまう、インシオンが。
最初の死神みたいな冷たさ。そっけなく突き放す態度の裏に秘められた優しさ。笑うと太陽のように温かい表情。全てが失われる。
恐怖で歯の根が合わない。彼の血で服が赤く塗れるが、それもすぐに冷たくなった。
アルテアで兵士達を怯ませる事はできるだろう。だが大人の男一人を担いで逃げるまでの腕力はエレには無い。そもそも、刃を向けて来たとはいえ迂闊に人間を傷つけたくない。ユニアスの二の舞を踏みたくはない。
どうしよう。どうすればいい。
混乱する頭が思考を放棄しかけた時、エレの身体がふわりと浮く。インシオンに抱き返されたのだと気づいた時には、二人は空中に身を投げ出していた。眼下には、地下水脈まで続く水路。
あまりに突然の事で悲鳴を出す暇など無かった。浮遊感の直後に訪れる落下感。派手な水飛沫をあげて、エレとインシオンの姿は水中に消えた。
「あの傷でまだ動けるとは。流石に
ソキウスが憎々しげに口元を歪め、それから、邪悪の王のように嗤う。
「まあいいです。私からは逃れられない」
そうして追撃の命を兵士達に下し、兵達がばらばらと駆けて行った後、ゆっくりと階段を降り、床に残された血溜まりの前に立つ。膝をついてはいつくばると、彼は神に対して平伏すように血溜まりに顔を近づけて、インシオンの血をその舌で味わった。恍惚とした表情で、満足げに。
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