Call My Name
ある街に立ち寄った昼下がりの事。
インシオンが「用事がある」と一人別れ、エレとリリムとシャンメルの三人になった。ただ時間を浪費して待つのも勿体無いという事で、こじゃれた喫茶店に入って午後のお茶とおやつを楽しんでいると。
「私」
甘いクリームと季節の果物がのったケーキをフォークでつつきながら、エレが思い出したようにぽつりと洩らした。
「自分の本名を覚えていないんですよね」
何の気無しに言ったつもりだったが、空気がずんと重くなった気がした。エレが顔を上げると、リリムとシャンメルは、心中複雑そうな表情をしてエレを見つめている。
そこで初めて気づく。二人も同じ思いを共有している仲間なのだと。
十四年前、『アイドゥールの悲劇』で
エレはある人物によって過去の記憶を改竄され、当時の思い出はほとんど無い。しかしこの場合、記憶があるのと無いのとでは、どちらの方がより気が楽なのだろうか。深く考えるまでも無く答えが出て、「すみません」とエレは身を縮こませた。
「軽率な発言でした」
しかし。
「えー」
いつもの軽い調子で、シャンメルが返して来る。その口元はいつも通りに笑っていた。
「別にまだ何も言ってないじゃん。エレが謝る事じゃないって」
「気になるのは、わかる」
リリムも短く言いながら、チーズケーキを口に運ぶ。
「そんな事言ったらオレ達だって同じだよー。オレだって自分の名前知らないし」
さくらんぼのタルトを、フォークで切り崩すのが面倒臭くなったか、手でつかんでかぶりついた後、シャンメルが口をもごもごさせながら言う。
「インシオンに訊いてみたら? あの人、孤児院の全員の顔と名前覚えてるはずだよ」
そうだったのか。驚きに目をみはると、シャンメルがにっこりと笑う。
「ほら、丁度戻って来た」
彼が指差す方向を見やると、窓際の席に座っていたエレの視界に、通りの向こうから歩いて来る黒装束が映った。
「――ありがとうございます!」
エレはがたんと音を立てて席を立ち、飛び出すように店を走り出てゆく。その背を見送りながらシャンメルがにこにこしていると。
「シャンメルって意外と気が利くよね」
ぼそりとリリムが洩らしたので、「そーかなー」とへらりと笑う。
「リリムだって、本当は自分の名前知ってるのに、言わなかったじゃん。気ぃ遣ってるよね」
ずばり言い当てられて、リリムの頬が赤く染まる。
「べっ、別に。エレが困った顔してたら、インシオンが機嫌悪くなるし。面倒なだけだから」
口ではそう言いながらも、照れくささをごまかす為だろうか。ぐさぐさとフォークがチーズケーキを突き崩してゆく。
「オレ達、割と苦労人だよねー」
シャンメルはけらけら声をあげてタルトをひと呑みすると、エレが残して行ったケーキにもちゃっかりと手を伸ばした。
「インシオン!」
道の向こうから歩いて来る青年の名を大声で呼び手を振ると、呼ばれた当人はぎょっとした表情で顔を上げ、周囲を見回しながら焦りきった様子で駆け寄って来た。
「お前、ドあほか!?」
「え、イン……むごっ!?」
また名を呼ぼうとしたが、大きな手で咄嗟に口を塞がれる。彼の視線を追って見回せば、道行く人々の注目をばっちり浴びていた。
「こんなところで、でかい声で人の名前呼ぶんじゃねえよ!」
呆れ切った声で叱咤される。それでようやく合点がいった。インシオンはイシャナでもセァクでも名を知られた有名人だ。しかもその名を持つ人間は彼一人しかいない。そんな人間の名前を往来で叫んだら、「『黒の死神』がここにいます」と大声で主張しているようなものだ。良からぬ考えを持っている者に聞かれたら、面倒な事態にもなりかねない。
エレはもごもご言いながら腕を上下させ、インシオンがやっと手を離してくれると、ぷはっと息継ぎをし、
「す、すみませんでした……」
と頭を下げた。先程といい、自分は本当に思慮が足りないと落ち込む瞬間である。
「もういい」
インシオンは溜息をつき、さりげなく歩き出してその場を離れる。小走りで後を追うと、「で」と赤い瞳がちらりとこちらを向いた。
「息せき切って走って来て。何を言いたかったんだよ」
言われてようやく、エレは自分の目的を思い出す。
「あ、あの、あのですね」
まだ何も言っていないのに、心臓がどきどきと逸る。エレが本題を告げると。
「……名前?」
インシオンが足を止め、怪訝そうに眉をひそめた。
「んなもの訊いて、今更何だってんだ」
途端に不機嫌になった目が、じろりと見下ろしてくる。
「何だお前、今の名前気に入ってないのか」
「ち、ちち違います! そんなんじゃないです!!」
咄嗟に両手と首を横にぶんぶん振る。インシオンにもらった『エレ』の名はとても気に入っている。何より、彼がエレにくれた大事な愛称だ。嫌だなどと言ったらばちが当たる。
それでも、それとは別の思いが胸の奥で渦を巻くのだ。
インシオンに、他の誰でもない彼に、本当の名を呼んで欲しい。その低い声で名を囁いてくれたら、それだけでどんなに幸せな気分になれるだろう。
だが、土台無理な話だったのだろうか。インシオンがそんな頼みを聞いてくれると、少しでも期待したのが浅はかだったのだろうか。しゅんとうつむき溜息をつくと。
「耳」
インシオンがぶっきらぼうに告げたので、顔を上げる。
「耳貸せ」
彼は仏頂面のままだったが、近づくように指で示している。何だろうと思いながら少し近寄ると、肩に手が乗り、整った顔が迫って、耳朶をかみそうな距離で彼が耳打ちした。
「お前、今日誕生日だろ。夜は一等の店を予約して来てやったから、存分に食えよ」
そう言った後に、小さく付け足す。
「 」
ほとんど吐息のような声が耳をくすぐり、彼が身を離す。今のは何だったのだろう。ぐるぐる考えて、順々に理解してゆく。
インシオンが至近距離で囁いてくれた。
インシオンが自分の誕生日を覚えていてくれた。
インシオンが自分の為にお店を予約してくれた。
そして、インシオンが。
(……呼んでくれた……?)
エレの本名を。
理解から相当な間を置いて、喜びが怒涛となって胸に押し寄せた。嬉しさのあまり頭のてっぺんまで一気に血がのぼって、顔が真っ赤になる。
「――おい!?」
振り返ったインシオンが慌てて手を伸ばし身体を支えてくれた事で、エレは初めて、自分がその場で卒倒しそうになっていた事を悟った。
「おい、お前まじで大丈夫か!? 生きてるか!?」
「ら、らいりょうふ、れす」
大丈夫です、と返そうとしたつもりが、全く呂律が回っていない。全身が心臓になったかのごとくどくどくと脈打って、酔ったように火照っている。エレが酒に酔った事は無いが、恐らく酔いとはこんなものだろう。いや、実際酔っているのかもしれない。インシオンのささめきに。
身体に力は入らないが、嬉しさが指先まで沁み渡っている。
「ったく、お前、ほんっとしょうがねえ奴だな」
インシオンが呆れきった様子でぼやくと、エレをおぶって道を歩いてゆく。
頼もしい背中にもたれかかって揺られながら、エレは改めて感じるのだ。
この人が好きだ。この人がもたらしてくれるもの全てが嬉しくて、愛おしい。
子供としか見られていなくても、想いが届かなくても、彼の傍にいられる時間が、大切で大切で仕方無い。
(どうか)
エレは創造の女神ゼムレアに心の中で祈りを捧げる。
(この時間がいつまでも続きますように)
たとえこれが、刹那の幸せだとわかりきっていても、そう願わずにはいられなかった。
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