エピローグ 死神の継承者

 上空をとんびが旋回して鳴いているのが聞こえる。統一王国には生息しない生き物の存在は、こちらに来た当初は色々と驚かされたものだが、慣れとは恐ろしいもので、ここで過ごす時間が長くなる内に、野生動物にいちいち吃驚びっくりしなくなったし、猪も自分で狩って平気で食べられるようになった。

 ゆるい三つ編みに結った柔らかい黒髪が、春の始まりのまだ少し冷たい風になびく。毛皮の衣装に身を包んだその姿は、フェルム統一王国で騎士をしていた男とはとても思えないほどに、既に壮年を迎えた彼の身へ馴染んでいた。

 セイ・ギと『エレ』との戦いが終わり、王国に帰ったカナタ達を、家族は温かく出迎えた。意識を取り戻した母はカナタを抱き締めて、『ありがとう』と穏やかに耳元で囁き、父はやっぱりカナタの髪をぐしゃぐしゃと撫で回して、息子を労った。

 その数ヶ月後、母は無事に男の子を産み、亡き義兄あにの名をもらってレイと名付けた。


 それから、三十年が疾く過ぎた。


 父インシオンは六十の歳を迎えた時、王国軍を勇退して隠居の身になり、数年後、末の息子が成人するのを見届けるのを待っていたかのように、病を得て亡くなった。『黒の死神』があまりにもあっけなく、倒れてからあっという間の出来事だった。

 片翼を失った母エレはそれでも気丈に振る舞っていたが、五年と経たぬ内に、愛しい男の後を追うように、子や孫、曾孫にまで看取られて、波瀾万丈の生涯を静かに終えた。

 巫女姫と英雄の墓はアイドゥールの街を臨む丘の上に、死した後も寄り添うようにして並び立ち、今も彼らを偲んで花束を手に訪れる人が絶えないという。

 二人の血を引く子供達も、大人になってそれぞれの道を進んだ。

 ミライはかねてからの宣言通り、自分の意志で好ましい相手を見つけて嫁ぎ、三人の子の母になった。

 トワはルリ姫の輿入れについてきたアルセイルの兵士に一目惚れし、周りが呆れるほどに果敢なアプローチを繰り返した挙句、無事結婚までこぎつけ、やがて王太子の子の乳母となった。

 スウェンは王立騎士団に入団し、二十八の時に大きいカナタの後を継いで騎士団長となり、密偵のマリエルを妻に迎えた。

 末っ子のレイはあまり身体が丈夫ではなく、同じ名を持つ伯父の二の轍を踏むまいか周囲に心配されたが、成長と共に人並みに健康になり、文化研究者の人生を選んだ。

 そしてカナタは、二十歳で騎士団を辞し、西方へ向かった。誰もが、ユーリルがフェルムに嫁いでくるものだとばかり思っていたので、その行動には皆が――妻となるユーリルさえも――度肝を抜かれた。

 だが、カナタの意志は揺るがなかった。かつて船上でユーリルから聞いた西方の現状は、若者にひとつの決断をさせるに充分な説得力を持っていたのだ。

 多くの部族が衝突を繰り返して、女性をられ、誰かが血を流し、誰かが泣く戦の世を、終わらせる。その為に、己の力と『魔女と死神の息子』という名の威力を遺憾なく発揮しようとしたのである。

 初めて対面したユーリルの父ユーカートには、

『貴様に娘を守りきって、戦いに生き、戦いに死す覚悟はあるか』

 と髭面に渋面を満たして問い詰められたが、臆する事無く、ある、と答え、手合わせに剣を抜いてきた義父を破神タドミール殺しの剣で圧倒し、認められた。

 ユーカートは最期まで戦闘民族の長で、戦場で矢を全身に浴びながら呵々大笑して馬上で絶した。

 族長を失った一族はすぐさま後継者を求めて会議を開き、その場でカナタが指名された。ユーカートが溺愛したユーリル――ユスティニアの夫であり、その時既に多くの戦果を挙げていたカナタは、ユーカートの血縁者を差し置いても指導者に相応しい人間だと、意見の一致を見ていたのである。

 だがカナタは指名を丁重に断り、長の座にユーカートの長男を推した。自分はあくまで一戦士として、義兄あにを助けて一族を盛り立ててゆきたい、と静かに告げ、何と謙虚な男かと、その株を更に上げた。

 一族の民には『アルテアの巫女』のごとく慈悲深く、戦場では『黒の死神』の名におくれを取らぬ勇猛さを発揮するカナタは、いつしか『死神の継承者』の二つ名を得て、味方には頼られ、敵には恐れられた。

 だが、彼がその名の力をしらしめたのは血煙舞う地だけではなかった。部族同士の話し合いの場をもうけ、刃ではなく言葉を交わす事で、同盟を結んだり、一族に併合したりと、西方をひとつにまとめる流れへと働きかけ、いずれはフェルムに負けぬ大国にしようという人々の意志を導き出した。

 王国と西方の仲を取り持つ為に奔走していた大きいミライとソキウスが、高齢を理由に帰郷した後、カナタはその役目をも引き継ぎ、フェルムの役人と西方の有力者が会談を重ねる場を守っている。


 また風が吹いて、カナタは面を上げた。若い頃は母親似で、嫌だと思った時期もあったが、年を経るほどに今度は父に似てきて、翠眼を細めて遠くを見すえる姿は今や、往年の『黒の死神』そのものである。

「じいちゃー!」

 風の中に無邪気な幼子の呼び声を聞いて、カナタは腰を上げ、三つ編みを揺らしながら振り返った。赤銀の髪の幼女がぶんぶんと手を振り、時折まろびそうになりながら草原を駆けてくる。その後から、赤い髪と星を宿した黒い瞳を持つ女性が、苦笑しながらついてきた。

「もう、この子ったら、あなたのところに行くと言って、聞きやしないんだから」

 飛びついてくる孫を受け止め抱き上げると、妻が頬に手を当てて呆れたようにぼやく。

「だってエレ、じいちゃのことだいすきだもん!」

 亡き母と同じ名を与えられた幼子は、満面の笑みを浮かべてカナタにがっしりとしがみついてくる。カナタはユーリルとの間に一男一女をもうけ、息子は先年嫁を迎えてこの孫が生まれた。その無邪気な姿を見るほどに、決意は強くなってゆくのだ。

 この笑顔を守りたい。この子が自由に草原を駆け回り、戦におびえる事無く生きてゆける世界を創りたい。残された時間であとどれだけの事ができるかはわからないが、命果てる瞬間まで、父と母の名に恥じる事の無い人生を歩み、いつか天上で二人に再会した時に、自分はあなた達の息子として精一杯生きた、と胸を張って言えるように生き抜きたい。

「ねえ、じいちゃ」

 カナタの顔に頬をすり寄せ、小さい小さいエレが、妻と同じ、星の瞬く黒い瞳で見上げてくる。

「ひいじいちゃとひいばあちゃのおはなし、またして!」

 孫は昔話が大好きで、こうしてよくせがんでくる。

『アイドゥールの悲劇』から五十年以上が過ぎ、『神の力』も無くなった世界で、破神の脅威を目にした人間も、破獣カイダの実情を語れる人間も、大分少なくなった。いつかは全てが伝説の中の出来事となり、史書に刻まれ綴じられてゆくのだろう。

 それでも、風化させたくない思い出がある。

『エレとインシオンが何をなして、どうやって生きたか。忘れて欲しくない』

 大きいカナタは母の葬儀の後で、両親と周りの人間達がどんな道を歩んだか、今まで伏せていた全てを含め改めて、カナタ達五きょうだいに語ってくれた。この物語を語り継いで、人々の心で、エレとインシオンがいつまでも息づくように。

 だから、語ろう。この小さな命にも。『アルテアの魔女』と『黒の死神』の生き様を。彼女らが紡いだ運命の先に、お前も存在しているのだと。今はまだ全てをわからなくても、この子がやがて少女になり、大人になった時、二人の血を継いでいる事を誇りに思えるように。

「あ」エレがカナタの腕の中で身じろぎし、空を指差す。「ちょうちょー」

 小さな手が示す先を見上げれば、たしかに蝶が一匹舞っていた。虹色に輝き、金色の粒子を振り撒いて。

 それはまるで、いつか見たアルテアの蝶のようで、我知らずにカナタの目から一筋、『死神の継承者』に相応しくない涙が伝い落ちる。

「じいちゃ?」

 孫が不思議そうに小首を傾げ、訊ねてくる。

「なんでないてるの? どこかいたいの?」

「いいや」

 静かにこうべを横に振り、カナタは小さいエレを抱き締める腕に力を込めた。

「嬉しい時や懐かしい時も、人は泣くんだよ」

 妻が静かに寄り添って、潤んだ瞳で共に空を見上げる。虹色の蝶は、黄金色の光を名残にして、溶けるように蒼穹に消える。

『あなた達に、永遠の幸せを』

 母のアルテアが紡がれたような気がする。

 かつて魔女と死神が歩んだ世界を照らす太陽の輝きは今も同じで、そしてこれからも、変わらないのだろう。

 人の歴史が続く限り、いつまでも、いつまでも。

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アルテアの魔女 たつみ暁 @tatsumi

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