第7章 背を押され(1)

 血まみれの手を伸ばしても、つかめるものは虚空だけだった。

 エレは去った。白い破獣カイダの姿になって。泣いていたのに、その涙を拭ってやる事もできなかった。激しい虚無感がインシオンの胸に訪れる。

「……エレ」

 呆然とした呟きが耳に届く。顔を上げれば、カナタが空の彼方を見つめてかたかた震えていた。

「どうして?」

 もうインシオンの事は意識の外に置いたかのように、頼り無くよたつきながら、少年は砂浜を歩いてゆく。

「何で僕を置いて行くの。行かないで、行かないでよ」

 子供が駄々をこねるように首を振りながら、両手を宙に向けて差し伸べる。

『僕を置いて行かないで』

 アルテアが紡がれたとわかったのは、虹色のいなごがその手から生み出されたからだ。放たれた蝗は少年の肩に止まり紺色に輝くと、主と共に揺らめいて消えた。

『神の血』で傷はもう塞がったはずなのに、心の臓がひどく痛む。どうしてこんな事になってしまったのか。どうすればこの結末を避けられたのか。エレの想いに応えてしまった事が間違いだったのか。エレに自分の血を分け与えた事か。遊撃隊に加えてしまった事か。それとも半年前のあの日、彼女の護衛を引き受けずに任務を蹴っていれば良かったのか。出会わずにいれば、こんな苦しい思いをする事も無かったのか。

 砂を噛み、爪が皮膚に食い込むほど拳を握り締めた時、駆け足で近づいて来る足音を、インシオンは聞いた。

 赤銀の髪が視界に入った時、エレが戻って来てくれたのかと錯覚した。しかし自分の目は、愛する女の顔を見間違えはしない。髪の長さも瞳の色も違う。

「インシオン」

 傍らに膝をついて呼びかける声も、エレの方がずっと高い。

「アルテアで傷を癒します。動かないで」

 たしかミライと呼ばれていたか。少女は赤い瞳を深刻に細めてこちらの顔をのぞき込む。この少女もアルテアが使えるのか。それを知ったインシオンが取った行動は。

「……俺はいい。もうほとんど治ってる。それより」

 かざされた少女の手を押し返して、近くに倒れているアーキを指さす事だった。砂の上にあおのけになった彼女は、ぜえぜえと苦しい息を繰り返している。エレに食い千切られた肩は、筋一本でようやく繋がっているような状態だった。

「できるならあいつを治してくれ。ただ、カナタあのガキのアルテアに操られてたから、回復したらまた襲いかかって来るかもしれねえ」

 ミライの表情が瞬間、こわばった。この少女とあの少年の間にどんな因縁が横たわっているのか、インシオンは知らない。ただその顔色から、少女は少年に何かしらの劣等感を抱えているのだろう事は、英雄として多くの人間と接して、羨望、嫉妬などといった負の感情をより多く見て来たインシオンだからこそ想像のつく事であった。

 ミライはしばし躊躇したが、決断するのは早かった。きゅっと唇を噛み締めると、アーキの元へ駆け寄り、言の葉の石を唇につけて濁り無き言葉を紡いだ。

『死に向かう魂をここに引き寄せ、言の葉の鎖から解き放て』

 かざした手から虹色の金糸雀カナリアが生まれた。金糸雀は白い輝きを放ってアーキに吸い込まれる。すると、肩の細胞が瞬時に再生し、傷という傷が塞がって、死相が浮かんでどす黒くくすんでいた顔に赤みが差した。

 しんどそうにつむっていた目がぱっと開き、彼女は飛び跳ねるように起き上がる。ミライが反射的に腰の剣に手をやったが、アーキは少女に留意する事無く、インシオンの傍らへ飛んで来ると、砂に埋まり込む勢いで頭を下げた。

「申し開きの余地もございません」

 その一言で、アルテアに縛られている間の記憶が本人にある事を、インシオンは悟った。いっそ全ての自我を失って操られていた方が、抱く苦しみはわずかであっただろう。

「完全に油断しておりました」

「お前が謝ったって状況は何も変わらねえよ」

 うつ伏せからあおむけの状態に寝返りを打って、インシオンは息を吐き出す。彼女を責めるのは筋違いとわかっていても、敢えて許しの言葉をかけない事が、精一杯の腹いせだった。

「立てますか」

 視界にまた別の人間の手が差し伸べられた。その一言で声の主を認識する。

 ソキウスが自分を見下ろしている。ちっとも心配しているようには見えないが、彼がこちらを嫌っている以上仕方が無い。お互い様だ。手を差し出してくれるだけ進歩だと自分に言い聞かせ、インシオンはその手を借りて身を起こした。それから、彼と少女が共にいる事を訝しみ、更にある異変に気づいた。

「……おい?」

 眉間に皺を寄せこめかみを指でおさえて、歩み寄って来る少女を見すえる。

「何で俺はお前の名前を忘れてる?」

 少女がぐっと言葉に詰まった。インシオンの中ではたしかに、カナタが彼女の名前を呼んだ場面が記憶として残っている。だのに、最前まで覚えていたはずの少女の名前を、てんで思い出せないのだ。一体どういう事か。

 少女が深い溜息をつく。観念したように彼女は口を開いた。

「それが私のアルテアの代償です」

 意味をはかりかねて更に眉をひそめると、少女が言葉を重ねた。

「生まれ持った力ではない反動でしょう。私がアルテアを使う度、私を知る誰かの記憶から、私に関する何かが失われます」

 自分の記憶ではなく、他人の記憶が削除されるのか。ソキウスの『手』に似ているな、とインシオンはぼんやり考え、それから、じっと少女を睨みつけた。

「そろそろ、全部話してもらおうか」

 少女は赤の瞳を戸惑いに揺るがせ、インシオンから視線を外す。その肩を優しく叩いて声をかけたのは、ソキウスであった。

「ミライさん。もう隠し立て出来る時機ではないと思いますよ?」

 口元はゆるく笑んでいるが、目はちっとも笑っていない。

「本当の事は口外しないって、約束してくれたじゃありませんか」

「『私は』言わないと言っただけです。あなたの口から語る事を止めはしません」

 非難がましい声をあげる、ミライと呼ばれた少女に対し、ソキウスはしれっと言いのけてみせる。

「やっぱりあなたはずるい人」

 諦めの吐息をついて、ミライはまっすぐにインシオンを見つめた。

「わかりました。イシャナに帰ったら、お話しします。私と、カナタと、あなたとエレと、アルテアと破神タドミールにまつわる全てを」

 最初に会った時より少し雰囲気が柔らかくなったな、と感じる。あの時のこの少女は、自分以外の世界の全てが敵で、誰も信用せず、己一人の力で全てを切り開くつもりのような、悲愴な空気をまとっていた。だが、今は少し違う。この短期間で何が彼女を変えたのかはわからないが、とにかく今は、この少女から話を聞かねば、何も解決策は見いだせない。この胸の風穴を埋める術も、わからないのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る