第6章 別れの朝(2)

「あはははははは!!」

 カナタの爆発したような笑い声が砂浜に響き渡る。少年は、腹を抱えて心底おかしいとばかりに笑い転げた。

「ちょっと脅しただけなのに、馬鹿正直に剣を振らないなんて、何て弱いんだろうね!」

「お前、には、わからねえ、だろうよ」

 懸命に放たれた声に、カナタは片眉を跳ね上げた。普通の人間なら致命傷である攻撃をくらって激痛にさいなまれているだろうに、それでもインシオンは顔を上げ、声を絞り出した。

「お前、みたいな、良心も無い、奴に、他人の思いなんて、わからねえ」

 途端、カナタの顔に怒りが宿る。彼は舌打ちして、倒れ伏すインシオンの元へずかずかと歩いてゆく。

「弱い犬ほどよく吠える、って、ヒノモトのことわざだっけ?」

 半眼で見下ろし、憎々しげに歯を食いしばってぶるぶる全身を震わせたかと思うと、血を吐くような叫びが迸った。

「あんたに何がわかるってんだよ! 誰も守れなかったくせに! エレや僕らを置いて逝って、助けて欲しい時に全然助けてくれなかったくせに! そのくせ言う事だけは一人前でさ!!」

 それは怒声というよりも、子供が駄々をこねるような言葉だった。批判でもない。皮肉でもない。突然自分の世界を取り上げられた迷い子の、腹の底からの泣き声だった。

「だから死んじゃえよ」

 一通りわめき散らした後、破神殺しの透明な剣が、インシオンの首筋にひたりと当てられる。

「『神の血』を持ってたって、首を落とせばさすがに死ぬんでしょ? あんたなんかいなくたって、エレは僕が守る」

 インシオンが殺される。その恐怖が明確な刃となってエレの胸を刺した。どうする。どうすればいい。流れ出る血潮の色を見つめながら必死に思考を巡らせた時、不意に身体の奥から突き上げる衝動がエレを襲った。

(殺せばいい)

 その考えが頭の中にじわじわ染み渡り、冷静に思案する意識を駆逐してゆく。この衝動に身を任せろ、と自分の中の自分ではない何かが囁く。駄目だ、と必死に抑えこもうとする思考すら押し流されてゆく。

(殺せ)

 意志とは関係無く、にやりと唇が笑みを象る。

「……エレ?」

 異変を察知したカナタがこちらを向いた。その手足が、肉が、異様に美味そうに見える。

 切れたはずの腱が再生して繋がってゆくのを感じる。出血が止まる。獅子が獲物を見つけて動き出すようにのっそりと、エレは赤い砂の上に手をついて起き上がった。その手が鋭い爪を持つ武骨な手に変わってゆく。みしり、と音を立てて身体が変貌を始める。そしてその感覚が気持ち悪いものではない。むしろ快感すら呼び起こす。

「エ、レ?」

 インシオンが呆然と呟く声が、壁一枚隔てた向こう側から聞こえるようだ。背中の肩甲骨が翼の形を取ってばさりと広がるのを自覚する。

 そこにアルテアの巫女はもういなかった。黒ではなく白い身体。金ではなく翠の眼球。かろうじて赤銀のたてがみが名残を残す、破獣カイダが身を起こし、空に向けて咆哮を放った。

「エレ!?」

 狼狽するカナタを、エレは、いや破獣はもう認識していなかった。

 インシオンを脅かす人間を殺せばいい。

 その一念に脳を支配され、破獣は牙の並ぶ口を開くと、悠然と翼を羽ばたかせ、少年目がけて飛びかかる。だが、鋭い爪が少年の首を傷つける寸前、少年と破獣の間に割り込む影があった。アルテアで縛られたアーキが、主であるカナタを守りに入ったのだ。

 躊躇いはもう無かった。

 インシオンを傷つけた人間は殺す。その執念だけにとらわれて、破獣は容赦無く腕を振るった。少女の腕力を超えた重い一撃がアーキの顔に叩き込まれ、血を吐きながら彼女がよろめく。その肩に大口を開けて食らいつき、ごっそりと千切り取った。人間の血が、咀嚼する肉がとてつもなく美味い。大きな満足感が破獣の心を支配する。くずおれるアーキに対するとどめとばかり、心臓をえぐろうと腕を振りかざした時。

「――エレ!!」

 耳に突き刺さる声があって、破獣はぴたりと動きを止めた。翠の眼を声の方へ向ける。

「やめ、ろ、エレ」

 困惑と懇願を宿した赤い瞳が、破獣をまっすぐに見つめていた。餌になる人間。そうとしてしか見ていなかった脳が、ある瞬間に答えを導き出す。

 ――インシオン。

 その人を認識した瞬間、破獣は、いや、エレは唐突に自我を取り戻した。振り上げた手をのろのろと下ろし、呆然と見つめる。人の肌の色をしていない、赤く濡れた獣の手。決して人間のものではない硬質な白い皮膚に覆われた身体。

 自分は今、破獣になって、湧きあがる衝動のままに人を殺そうとしていたのだ。それに気づいた瞬間、がたがたと全身が震え出す。恐怖が怒涛のように胸に訪れる。

(私は、破獣になって)

 最愛の人の目前で、とんでもない惨劇を生み出そうとしていたのだ。

 口の中に広がった血の味が、しでかしてしまった罪の深さを、烙印としてエレの心に焼きつける。

(私はもう、人間でいられない)

 自分にはもう、インシオンの傍にいる資格が無い。目の奥が熱を帯びたかと思うと、ぶわりと翠の眼球から水分が溢れ出して頬を滑り落ちてゆく。ああ破獣でも泣けるのだな、と悟ると、決心がついた。

 一歩、二歩、後ずさる。インシオンは愕然とした表情でこちらを見ている。

(そんな顔をしないでください)

 どうせ最後に覚えているなら、笑顔を胸に焼き付けておきたかった。だが、この身で彼の前に立っては、それも叶わぬ願いである。

 気持ち、口元を持ち上げた。破獣の身で上手く笑えただろうか。その思いを残して、エレはばさりと翼をはためかせる。軽く砂を蹴ればふわりと身体が浮いた。

「エレ、エレ!」

 血を吐きながらインシオンが叫んでいる。後ろ髪を引かれても、もう振り返るまいと決めて、エレは朝の海へと飛び去る。

「――何でだ!」

 風に乗ってインシオンの魂の叫びが耳に届いた。

「お前が何だろうと構わない! 俺だってまともな人間じゃない! 俺にはお前が必要だと言っただろう!? 俺を置いて行かないでくれ!!」

 ああ、と吐息が牙の間から洩れる。最初は何て冷酷な死神だろうと思っていた。でも共に過ごす内、その奥底に隠された優しさを知った。そんな人だから惹かれたのだ。

「エレぇぇぇぇぇッ!!」

 もう呼ばないで、忘れて欲しい。更なる涙は風に流される。この先のあてど無く、エレは空遙かへと消えてゆく。

 インシオンを愛して幸せだった。

 彼に愛されて、幸せだった。

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