第6章 別れの朝(1)

 洞穴の外から差し込む光が、朝の訪れを告げている。エレは既に目を覚まし、傍らでまだ寝息をたてる青年の顔を見つめていた。

 触れ合った温もりも、刻まれた熱も、耳元で繰り返されたささめきも、この身に染み着いている。心の中では、果てしない幸福感と、深い満足感と、底無しの愛おしさとが混ざり合って、知らず知らずの内に目が潤んだ。

 眠る青年の薄く開いた唇にそっと口づけて、エレは彼の腕枕から身を離す。自分にかぶさっていた黒い上着を彼の肩にかけると、すっかり乾いた服を着込んで髪を結い、一人洞穴を出た。

 太陽は燦々と浜辺を照らし、清々しい潮風が渡ってゆく。

 さて、これからどうしようか。砂浜に立ち尽くしてエレは考えを巡らせた。海底では無我夢中だったが、きちんと意識して場所を指定すれば、アルテアで大陸に戻る事も可能そうだ。

 インシオンが起きて来たら相談してみよう、と考えたところで、果たして彼と顔を合わせて話ができるだろうかと、心臓が妙な騒ぎ方を始める。向かい合ったら昨夜の事を思い出して、まともに瞳を見られない気がする。

(どうしよう恥ずかしいどうしよう)

 平静を保とうとすればするほど、心拍数は上がってゆく。今更ながら真っ赤になって、砂の上で抱えた膝に頭をうずめて丸まってしまった時。

「エレ様」

 聞き覚えのある声が突然聞こえて来て、エレはびくっと肩を震わせ、顔を上げた。

「アーキ」

 海ではぐれた、プリムラ姫の懐刀だった。彼女は心底ほっとした様子で歩み寄って来る。彼女もこの島に流れ着いていたのだろうか。一人でも消息がわかって良かった、とエレも安堵の息をついた。

「ご無事で何よりです」

 アーキはエレの前に立つと、少女のような笑みをひらめかせた。

「カナタ様もお喜びになるでしょう」

「……アーキ?」

 何故今、あの少年の名前が出るのだろう。不審そうに眉根を寄せるエレの首に、ひんやりとした感覚が触れる。アーキがいつも使っている短剣が押し当てられていた。

「エレ様」

 驚きで見つめると、アーキの瞳は虚ろで、エレを向いているがエレではないどこかを見ているように曇っている。

「カナタ様がお待ちです。まいりましょう」

 反射的に左手を振り上げてアーキの手から得物を叩き落としたのは、インシオンに仕込まれた戦闘術の賜物だった。咄嗟に飛びすさって距離を取り、相手が再び襲いかかって来ても対応できるように呼吸を整える。

 しかし冷静な行動とは裏腹に、エレの頭の中は混乱の極みにあった。イシャナの戦士であるアーキが何故カナタの為に動くのか。裏切ったのか。それともカナタもイシャナ軍の関係者だったのか。

「しょうの無いお方」

 ぐるぐる思考を巡らせるエレの前で、アーキは嘆息し、地面に落ちた短剣をゆったりと拾い上げる。

「では、多少手荒な手段を使っても、お連れするしかありませんね」

 言うが早いか、彼女は一瞬で距離を詰めて来た。びゅんと振られた刃を、身を反らしてかわすが、すぐさま二撃、三撃と続く。相手がエレだからと言って、決して手加減しない攻撃だ。

 しかしこちらは相手がアーキだと思って、攻撃を加える事を躊躇ってしまう。後退を余儀無くされた末に、砂に足を取られてよろめいた視界で、短剣の刃が鈍く光るのが見えた。

 しまった、と思った時には遅かった。右手首を深く切られて血が噴き出す。腱を断ち切られたのか、手に力が入らない。痛みよりも熱さに支配される中、アーキが淡々と短剣を振るう。左手も同じように切られて、両手がだらりとぶら下がる。容赦の無い斬撃は止まる事を知らず、アーキが身を低めて背後に回り、今度は左足に斬りつけた。体重を支える事がかなわなくなり膝をつく。手が使えずによろめくところへ今度は右足へ。四肢を封じられて、エレは無様に砂浜に崩れ落ちた。

「どうせ『神の血』ですぐに回復するのですから、しばらく動けなくするくらいは、大した事ではありませんね」

 エレの赤い血が砂にじんわりと染み込んでゆく。それさえさしたる問題ではないかのようにアーキが言い放ち、激しい呼吸を繰り返して上下するエレの胸に、切っ先を突きつけた。

「念の為、心臓にも負担をかけておきましょうか」

 だが、不幸中の幸いと言うべきか、短剣がエレの胸を切り裂き更なる血を溢れさせる事は無かった。

「やりすぎだよ、アーキ。エレを死なせちゃ駄目だ」

 新たに場に現れた第三者の声に反応して、アーキがエレから身を離し、そちらを向いてひざまずく。

「申し訳ございません、カナタ様」

 両手足から血が流れ出てゆくのをどこか遠くに感じながら、彼女が深々と頭を下げた相手に視線を向ける。笑みを顔に張りつけながら歩いて来る黒髪に翠眼の少年はやはり、アルセイルで会った少年と同一人物であった。

「エレ、無事で良かったよ。会いたかった」

 カナタは両手を広げて、本当に良かったとばかりに無邪気な笑顔をほころばせる。一体今のエレの何を見て、無事と言っているのか。

「あなたがまた死んじゃったら、僕がここに来た意味が無くなっちゃうもの」

 またもエレには不可解な事を言いながら、少年は砂を踏み締める音を立てて歩み寄る。アーキを押し退けると、彼はエレの脇にしゃがみ込み、嬉しそうに言を継いだ。

「さあ、僕と一緒に行こうよ。エレを助ける方法を見つけたんだ。今度こそ失敗はしない」

 翠の瞳に見つめられると、そのままどこかへ吸い込まれて思考を放棄しそうになる。流されるままにうなずきそうになったエレの意識は、

「エレ!」

 聞き違えるはずの無い、誰よりも愛しい声によって、現実に引き戻された。身体は動かないので視線だけを向けて、目が熱を帯びる。

 黒装束に身を包み、明らかに怒りを宿した表情で、破神タドミール殺しの剣を構えるインシオンがいた。

「お前ら、エレに何してやがる」

「何って心外だなあ」

 ぎらぎらした瞳で睨みつけられても、カナタは平然と頬をかくばかり。

「エレを助けに来たに決まってるじゃん。あんたは関係無いよ」

 その手でエレの頬に触れ、愛おしげに撫でさする。インシオンの怒りが更に深くなったのが、歯ぎしりでわかった。

「何でアーキがそっち側にいる」

「本当にいちいちうるさいなあ」

 詰問にも、カナタは面倒くさそうに顔をしかめて髪をかき回しながらぼやき、翠眼でインシオンを睨んだ。

「僕がアルテアでお願いしたからに決まってるじゃん。『僕の友達になって、僕を手伝ってよ』って」

 それにはエレもインシオンも驚きを隠せなかった。アルテアである程度まで人の言動を操る事は、アルセイルでレスナが使ったアルテアからも、――そしてインシオンは知らないがエレが海底でグレイシアに使ったアルテアからも――証明されている。しかしその時は一時的な強制で、長時間束縛する事はできなかった。それをこの少年が為したというのか。しかも、濁りあるアルテアで。

「あんたみたいな名前だけの英雄なんかに、エレを任せられない」

 カナタはゆらりと立ち上がると、憎々しげに目を細めて、インシオンを指差した。

「消えちゃえよ」

 呼応するようにアーキがインシオン目がけて躍りかかった。空中で一回転。回転の勢いを乗せて振り下ろされた刃を、インシオンは頭上に剣を掲げて受け止める。短剣を弾き返されて舌打ちするアーキに向けて破神殺しの剣が振るわれる。アーキは砂を蹴って跳躍し、横様の斬撃は空を切った。

 二合、三合と剣戟が繰り返される。アーキの突き出した短剣の刃がインシオンの頬をかすめる。流れる血を気にしないまま払ったインシオンの剣は、アーキの利き腕を浅く切りつけた。

 イシャナ最強の英雄と王族の懐刀の剣はどちらも力強く、速く、正確に相手の急所を狙って繰り出され、相手に優先権を握らせる事無く拮抗していた。常々インシオンが「アーキと本気でやり合ったら恐らく互角」と思っていたのが過大評価ではなかった事が、はからずも証明された事になる。

 このままではらちがあかないと思ったのだろう。アーキが身を沈めてインシオンの剣をかわしたかと思うと、足元の砂をつかんで投げつけた。目つぶしなど、戦士の戦い方としては三流以下だが、暗殺手段としてならば非常に有効になる。視界を奪われ隙を作ったインシオンに、好機とばかりにアーキが飛びかかる。

 しかし、インシオンも伊達に『死神』の異名を取ってはいなかった。利かない視界ながらも聴覚を頼りに空を裂く刃の音を聞き取ったのだろう。振り下ろされた短剣を剣で受け流し、逆の手で目をこすると、自由になった左目だけで相手との距離を目測し、腰を落とす。続けられたアーキの攻撃を紙一重でかわし、剣を突き出した。

 アーキが苦悶に呻いて膝を折る。インシオンの一撃はアーキの脇腹をとらえ、内臓を避けて肉だけを裂いていた。致命傷にはならないが、しばらく動きを封じるだけなら充分だろう。ようやっと息をついて目に入った砂を落とし、インシオンはカナタを睨みつけた。

「エレから離れろ」

 受け入れなければ斬る事も辞さないという、絶対零度の冷たさを帯びた声に、しかしカナタは怯まなかった。

「あーあ、やられちゃった。やっぱり普通の人間じゃあ駄目だね」

 つまらなそうにぼやき、「それじゃあさ!」と、新しい遊びを思いついた子供のように無邪気に手を打ったかと思うと、鋼水晶の剣を抜いて、まだ砂の上に転がっているエレの眼前に、切っ先を突きつけた。

「ハンデをつけようよ! あんたが一回剣を振るうごとに、エレの血管を一本切る。アーキにとどめを刺すまでに、何本切れるかなあ?」

 エレもインシオンも、ぎょっと目を見開いてしまった。狂っている。そうとしか言えなかった。だが、少年の瞳からうかがえる躊躇いの無さは、言った事を実行するという気配が、ひしひしと感じて取られる。

「だあいじょうぶ! 命にかかわるような動脈はちゃんと避けるからさ!」

 そらおそろしいほどに明快な笑いを響かせて、「アーキ」カナタが低く名を呼んだ。

「まさかこれで終わりじゃないよね?」

「はい。申し訳ございません、カナタ様」

 血の溢れる脇腹をおさえながら、アーキが立ち上がった。急所を避けているとはいえ、『神の力』も持たない人間。そのまま動き続ければ、失血死もありうる。だのに彼女は些細な傷とばかりに、再び短剣を構えたのだ。

「さあ、お遊戯の続きだよ!」

 カナタの宣誓と共に、アーキがインシオンへ突っ込んでゆく。

 だが。

 インシオンは動かなかった。剣を握る手をだらりと下げたまま、目だけはカナタを睨んで、それでも尚アーキを迎え討とうとしない。武器を振るおうとしないのだ。エレを傷つけない為に。

「駄目です、インシオン」エレはまだ自由にならない四肢でもがいて、声を張り上げる。「戦って!」

 それでもインシオンは動かなかった。お返しとばかりに突き出したアーキの短剣が、インシオンの腹に刺さる。喉の奥で呻いて顔をしかめたが、彼はまだ倒れなかった。

 動かないインシオンに向けて、アーキは淡々と攻撃を繰り出す。腕が、足が斬りつけられ、血が流れても、インシオンはカナタを睨みつけ続けたままだった。

「面白くないなあ」

 カナタが不愉快そうに口元を歪める。

「もういいよ、アーキ。やっちゃいな」

「はい、カナタ様」

 少年の言葉にアーキは素直にうなずき、インシオンに向けて一歩踏み込んだ。短剣が正確に心臓の位置に吸い込まれる。追い打ちとばかりに短剣をひとひねり。たまらずにインシオンが悲鳴に近い叫びをあげた。

 短剣が引き抜かれる。インシオンが胸をおさえて砂の上に倒れてゆく。倒れた身体の下からじんわりと赤が広がってゆく。いつか夢で見た光景の再現に、エレの身体は急速に冷えた。

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