第5章 二人きりの夜(2)

 日が暮れる前に自然の洞穴を見つける事ができ、エレ達は食材を抱えて中へ入った。インシオンが集めて来た木材で器用に火を熾し、片側で貝や魚を炙り、反対側でずぶ濡れになったエレの服を乾かす事になった。

 下着一枚になってしまったエレは今、インシオンの上着を羽織っている。男物の上着は、インシオンが着れば膝上だが、エレがまとうと膝下まですっぽりと肌を隠してしまった。袖も丈が余るのでまくっている。

 焚火を挟んで差し向いに座り、エレもインシオンもしばらく口を開かなかった。ぱちぱち木が燃える音と、炙られた魚がじゅうじゅうと脂を滴り落とす音だけが、やけに大きく聞こえる。

「頃合いか」

 インシオンが魚や貝を火から遠ざけて、皿に見立てた大きな葉の上に載せてエレに差し出した。受け取ると、魚の皮目は良い具合に焦げていて、貝も盛んに水を噴き出している。即興の料理としては上出来で、食欲を刺激され、エレは「いただきます」と手を合わせて魚にかぶりついた。海に棲む魚は適度に塩味が利いている。貝も同じで、何の調味料無しでもおいしく食べられた。

 手に入れた食材をすっかり食べ尽くし、木の実も腹に収めてくちくなると、また無言の時間が訪れる。インシオンを見やると、彼は赤い瞳に炎を映して、ここではないどこか遠くを見つめているようだった。

 今は話しかけるべきではないか。膝を抱えて丸くなった時。

養父ジジイはな」

 唐突にインシオンが口を開いた。

「俺を鍛える事に関しては容赦無いが、絶対に死なないぎりぎりの線を心得てた。危ないとわかればすぐに手を引いて助けてくれる人だった」

 ぱちん、と音を立てて火が爆ぜる。インシオンがいきなり過去の話を始めた事を不思議に思って小首を傾げると、だが、と彼は続けた。

「前王は真逆だったな。俺を死にそうな場所へ次々と送り込んだ。実際、死んで欲しかったんだと思うぜ。自分に似ていない息子なんて」

 そんな事は無い、と安直には返せなかった。イシャナ前王がアイドゥールで犯した大罪をエレは知っている。エレ自身もその被害者なのだから。

「正直な、俺はいつかこいつを殺すだろうなって予感が、昔からあったんだよ。それが決定的になったのは、養父が死んだ時だった」

 その言葉にエレは驚きを隠せなかった。インシオンの養父について消息を聞いた事は無かったが、英雄を育てた功労者として、城下街で今もそれなりの暮らしをしているに違いないと信じていたのだ。まさか亡くなっていたとは。しかもインシオンの口ぶりでは、穏やかではない話が出て来そうだ。

「月の無い晩だった。路地裏で刺されて死んでたのを、翌朝憲兵が見つけた。財布が無くなってたから物盗りだろうって始末されたが、あの刺し傷はイシャナの暗殺者の殺り口だった」

 同じように暗殺者としても立ち回った経験のあるインシオンだからわかったのだろう。見捨てられた王族を育てた人間が殺されたという事は、確実に口封じだ。それを指示した人間が誰か。隠された王子の存在を知られて困るのは誰か。今のエレは容易に想像する事が出来た。

「だから、嬉しかったんだよ。破神タドミールになった奴を殺せるとわかった時、俺は、アイドゥールを救うとか、イシャナの為とかレイの為とか、そんな事を何も考えず、ただ正当にあいつを殺せる理由ができた事だけが、嬉しくて嬉しくて仕方無かった」

 自嘲気味に唇を歪めて、インシオンは顔をうつむける。彼が今どういう目をしているのか、エレからはわからなくなった。

「俺は英雄なんかじゃねえ。ただ自分のエゴで戦って、それで勝手に崇められただけだ。お前達を助けたのも、遊撃隊を作って人助けなんか始めたのも、全部後付けの偽善だ」

 そこまで話した所で、呻き声と共にインシオンが胸をおさえて身を屈めた。破獣カイダ化の衝動が来たのだとわかった途端、エレは立ち上がり、焚火の脇を回って、彼の傍に膝をついていた。

 慌てて手元を探ると、インシオンの剣帯に指先が触れる。エレはそこから迷わず短剣を引き抜き、掌に刃を滑らせた。

「それでも構いません」

 ぽたぽたと血を流す手を彼の眼前に掲げながら、きっぱりと言い切る。

「偽善でも後付けでも構いません。あなたが私を何度も救ってくれた事実に変わりはありません。あなたはインなどではない。私の英雄インシオンです」

 紗がかかって正気を失いかけていた赤い瞳に光が宿る。インシオンはエレの言葉をかみしめるように目をつむると、エレの掌に唇をつけた。舌が触れて、エレの血を味わう感触がする。痛みなど平気だった。この人がずっと抱えて生きて来た心の闇を、弱さを、自分にさらけ出してくれた。今はただそれだけが嬉しさの明かりとなって心に灯っていた。

「あなたから見たら、私は子供で、娘みたいなものでしょうけど」

 血を分け与えながらエレはくすりと笑み崩れる。

「あなたの傍にいたい、対等でいたい、助けたいと思う気持ちは本物です」

 その言葉を聞いて、インシオンがふっと顔を上げた。何だか怒っているふうだったので、何か気に食わない事を言ってしまっただろうかと不安になる。だが次の瞬間、インシオンが取った行動は、今日最大の驚きをエレにもたらすものであった。

 力強い腕がエレを抱きすくめる。インシオンの顔が近づいて唇が触れ合い、歯列を割って湿った舌が入り込んで来て、自身の血の味が口内に広がった。

「……お前な、いい加減気づけ」

 息が苦しくなるような長い口づけの後、唇が離れると、呆然としているエレの顔を、赤い瞳がのぞき込む。

「娘ならこんな気持ちにならねえ。俺だってもう、お前が傍にいてくれないとどうしようもねえんだよ」

 意味がよくわからない。いや、言われた事に思考がついていかないのだ。

「俺にはお前が必要だ。同類の同情なんかじゃねえ」

 抱き締める腕の力を強くしながら、インシオンの告白は続く。

「死神としてしか生きられない、誰も愛せなかった俺に、お前は生きる意味を与えてくれた。お前じゃないと駄目なんだ」

 ようやく思考が追いついた。理解した途端、見る見るうちに目に涙がたまって、とめどなく頬を伝い落ちる。その涙の筋を唇で拭って、インシオンが耳元で囁いた。

「何でも求めろって言ったよな。なら、お前の全てを俺にくれ。俺もお前の求めるものを全部やる」

 喜びが、驚きを飛び越えてエレの胸に溢れた。深くうなずき、両腕を伸ばす。

 焚火の炎が洞穴の壁に二人の影を映し出している。その影が、互いを求めるように重なり合った。

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