16 アルテアの束縛
アルセイル王アーヘルは、獣の毛皮を使った敷物の上に片膝を立てて座し、カナタ達を迎えた。左隣には王妃シュリアンが正座していて、更にその横にルリ姫と、妹のアーシェ姫が続く。第一王女は母親似で長い髪が美しく、第二王女は父親と同じ日に焼けた髪を短く切って、きりりとした顔立ちをしている。彼らの両脇には侍女が控えて、大きい鳥の羽根で作った団扇で、暑い室内に風を送っていた。
「久しいな」
三十路を迎えて精悍さに磨きのかかった王は、白い歯を見せて笑う。
「あれだけ小さかったカナタが、騎士になるまで成長したか」
そういえばこの王とアイドゥールの王城で最後に会ったのは、まだカナタの身長が彼の胸あたりまでしか無かった頃か。
『いずれ
と頭を撫でてもらった記憶は、遠い日だ。向かいの席を勧める王に一礼して、カナタ達は敷物の上に膝を折って座った。
「ルリから報せを聞いた時はたまげたぞ。一体どういう来方をするものかと」
「……それについては諸事情がありまして」
苦笑するアーヘルに対し、大きいカナタは憮然としつつも、今までの経緯を手短に、しかし重要な部分は一切伏せずに話す。アルテアと
「話はわかった」
大きいカナタが語り終えると、アルセイル王は深い息をついて低く洩らした。
「再び災厄をもたらす可能性を持ち込んで、申し訳ありません」
大きいカナタが深々と頭を垂れると、アーヘルは首を横に振る。
「セイ・ギが破神の因子を振りまく事を企んでいるのなら、アルセイルが狙われるのも、道理。そなたらが気に病む必要は無い。エレを救う為にも、我らのできうる限りの協力をしよう」
「ありがとうございます」
青年がほっと息をつくのを見て、アーヘルはひとつうなずき、そして両手を打ち鳴らした。
「とにかく、海を渡ってきて疲れただろう。今夜は晩餐を開催するが、その前に、軽く口にするといい」
王の合図に呼応して、侍女達が茶器と皿を持って部屋に入ってくる。カナタ達が王宮についた時から既に用意していたのではないかという迅速さだ。王族と客人、それぞれの前に硝子の杯が置かれ、琥珀色の茶が注がれる。皿には干し果物(ドライフルーツ)の混じった粥が盛られていて、丸一日食事をとっていなかった腹が、今更思い出したようにぐうと鳴いた。
匙を手にして粥を口に含む。たちまち穀物と南国の果物の甘さが口内に広がり、餓えていた胃が刺激される。気づけば皿を傾け、夢中でかき込んでいた。
「良い食べっぷりだ」
アーヘルがそんなカナタを見て満足げに笑う。
「カナタの年頃の男は育ち盛りだからな。おかわりもあるぞ。遠慮無く食うが良い」
「カナタなら、遠慮しなかったら五杯くらいは余裕で入るんじゃないかしら」
まだ十歳のアーシェ王女が、青い瞳を細めてこましゃくれた発言をし、ルリに「こら」と肘で小突かれて、笑声が辺りに満ちる。
隣でくすくす笑うユーリルに、ふてくされながら視線を送り、カナタはふっとその目を更に横へ滑らせた。
やはり小さいエレの様子が明らかにおかしい。顔から血の気は引いて、細かく唇を震わせている。その目線を追うと、どうやらアーヘルをちらちらと見ているようなのだが、気になるからというよりは、まるで猛獣の前に捨て置かれた草食獣のごとく、ひどく恐れているように見えた。
一体どうしたのだろうか。疑問を覚えつつもカナタは目の前の食事に向き直る。正直なところ、粥一杯では足りなくて、本当におかわりをもらいたいところだったのだが、折角アーヘル王が晩餐を開くと言ってくれたのだ。その時に腹が膨れて入りません、ではフェルム騎士として非常にみっともない。
「充分です。ごちそうさまです」
空になった皿を床に置き、頭を下げてから、硝子の杯を手に取る。注がれた琥珀色の茶は、大陸の紅茶とはまた異なる風味だったが、清涼感が鼻腔を抜けて、甘さ一色になっていた口内をすすいでくれた。
それからカナタ達はそれぞれ湯を借り長旅の汚れを落とすと、代わりの衣に袖を通して、束の間の休息を取る事ができた。さすがは南海の上で、仮眠をしている間に洗濯して干されたいつもの服は、夕刻までにはすっかり乾き、王の侍女が届けてくれたので、再び着替える。騎士服はすっかり身になじんで、もう身体の一部のようになっていた。
「お客人。晩餐のご用意がととのいました。陛下もお待ちです」
カナタが着替え終わるのを待っていたかのようなタイミングで衛兵が呼びにやってきたので、彼の後について広間へ向かう。
そこには言葉通り既に国王一家が待っていて、カナタ達が車座になるようにそれぞれ腰を下ろすと、侍女達が次々と大皿に盛られた食事を運んできた。
数種類の刺身。塩だけで焼いた尾頭付きの魚。貝類は火でよく炙られて、盛んに水を吹き出している。それらを包み込んで味わう為の薄いパンが数枚載った皿が、それぞれの手元に置かれ、大きく切り分けた新鮮な果物に、杯には甘い香りのする乳白色の液体が注がれた。
「そなたには酒を出す事もできるが」
酌み交わすか、という問いかけでアーヘルが大きいカナタに、にやりと笑って杯を傾ける仕草をしてみせるが、「いえ」と青年は首を横に振る。
「いつ何時何が起こるかわからない状況ですから。
それでも晩餐は和やかな雰囲気で過ぎた。ルリとアーシェは興味津々でそれぞれの婚約者の近況について大きいカナタに問いかける。
「ハルカは会う度に風邪をひいて寝込んでいたから、心配だわ。あの人とは、お部屋でお話をしていた記憶しか無いもの」
「随分丈夫になりましたよ。身体つきも逞しくなりましたし。次に会ったら驚くと思います」
「そうなの? お会いするのが楽しみだわ」
と、姫は顔を赤らめて口元に手を当て、うっとりとこぼした。どうやら健康になった王子の姿を脳裏に描いているらしい。
そんな様子を見ながら、カナタは刺身をパンに包み込み、かぶりついた。もちもちした食感の後から、生魚のとろけるような味わいが口の中に広がる。船上で食べた刺身も新鮮だったが、これもなかなかに美味い。それと同時に、あの刺身を作ってくれた料理人もカナタ達の戦いに巻き込んで
気を取り直して杯を手にし、乳白色の飲み物を口に含む。甘味が喉ごし良く滑り落ちてゆき、少しだけだが、鬱屈した気分を払拭してくれる。ふと息をつき、横を見て、カナタは眉をひそめた。
敷物がひとつ、空になっている。そこには母と同じ顔をした少女が座っていたはずだ。
「さっき出て行ったわ」
傍らのユーリルが囁きかける。セイ・ギに狙われているのは彼女なのに、一人でふらふら出歩くなど、危険極まりない。探しに行こうかと腰を浮かしかけたが、「私が行く」と恋人がそれを押しとどめた。
「アルセイルに、何か思うところがあるんでしょう。こういう時は女同士の方が良いと思うの」
カナタの眼前に指を立て、黒の瞳を細めてユーリルは微笑する。たしかに彼女の言う通りかもしれない。女同士なら、あの小さいエレも、ここに着いてからおびえるように震えている理由を話してくれるかもしれない。
「わかった」
ひとつうなずくと、「任せて」とユーリルは再度笑みをひらめかせて静かに席を立った。
「もう暗いから気をつけて」
声をかけると、少女は振り返り、「ありがとう」と小さくささめいたかと思うと、不意にカナタに顔を近づけ、額に軽く唇をかすめた。彼女の積極的な行動に心臓がばくばく大きな音を立てる。幸い、国王一家は大きいカナタとの話に夢中になっていたので、こちらに注意を向けてはいなかったが、周りの侍女や衛兵の中には、カナタ達のやりとりをばっちり目にした者もいるだろう。
口づけが初めてでもないのに顔を真っ赤にするカナタに軽く手を振って、ユーリルは背を向ける。だから、少年は気づかなかった。
部屋を出てゆく少女の黒の瞳に、昏い決意の炎が燃えていた事に。
昼間なら遙か彼方まで水平線を見渡せる崖の傍に、その墓標はあった。アルセイルが破神に焼き尽くされた頃から永い時を経て存在し、苔がむしたその墓石には、しかし現代の言葉で、『大好きなアルテアの巫女エレ、ここに眠る』と書かれている。時を超えた墓の主の子供達が刻んだ言葉なのだ。
若草色の瞳がそれを辿り、指で触れて、軽くなぞる。
「これが私の墓です。私のいた世界と寸分変わりません」
墓の前に屈み込んだ赤銀髪の少女は、振り返らず、呟くように言葉を洩らす。闇に紛れて近づいていた足音を、彼女は耳聡く聴き取ったようだ。
「この世界の私は、この墓を見て、どう思ったのでしょうね」
そう言う彼女の口元には、同情や寂寥感など微塵も宿っていない。ただ、嘲笑にも似た歪みが浮かんでいるだけだ。
「どうでもいいですか。彼女はもうすぐいなくなるのですから」
彼女から十歩ほど離れた場所に立つ影が、すらりと鞘走りの音を立てて抜剣する気配がする。刃の輝きが、月明かりを受けて暗闇の中鈍くきらめいた。
「……いつから気づいていました?」
「確証は無かったわ。あなたはいつも後ろで震えてるだけだったし」
すっくと立ち上がる小さなエレに向け、影――ユーリルは油断無く短剣を構えたまま腰を低める。
「でも、後から考えると色々引っかかったのよ。あなたを狙ってセイ・ギが現れたなら、船員を
あの時半破獣は、小さいエレにも襲いかかろうとしていた。セイ・ギの造り出した破獣ならば、彼が『ミライ』として求める彼女に危害を加えるような真似はしないだろう。だが、中途半端に力を失ったアルテアと『神の血』ならば、造り主を襲う手違いが起きてもおかしくはない。船員達を全滅させても、数人ならばアルテアで場所を移動する事も可能だったろう。
「それに、あの夜のあなたとセイ・ギのアルテア」
じりじりと小さなエレに近づきながら、ユーリルは言を重ねる。
「『消えろ』とセイ・ギが言って、あなたは『消えない』と言ったわね。あれはエレさんを死なせない為に『消えない』と言ったのだと思っていた。でも」
一拍置いて、西方の姫は鋭い光を黒の瞳に宿し、その目を細めて相手を睨みつける。
「セイ・ギのアルテアが『消えない』ように仕掛けたものだとしたら、エレさんが目覚めないのにも納得がいく」
赤銀髪が揺れ、翠の瞳が宵の星空を見上げた。長い吐息が洩れた後。
「……正解です、さすがユーカートの娘さんですか」
少女が髪を翻しながらゆっくりと振り返った。その顔には今、見た目相応の愛らしさは無い。人生経験を経た女性の、諦観にも似た苦笑が宿っていた。
「羨ましかったんです」彼女は言った。「私と同じ運命を辿る事無く、あの人に愛されて、子供達に囲まれて、幸せそうに笑っている、彼女が」
その顔から笑みが消え、代わりに、心底から憎々しげな表情が浮かぶ。
「さらわれた女がどういう目に遭うかは、あなたも西方の女性なら、わかりますよね?」
彼女の言葉に、ユーリルはさっと顔を赤くした。エレがかつて『アルテアの巫女』を求めるアルセイルに誘拐されたのは有名な話だ。当時シュリアン以外にもいたアーヘル王の王妃が暗殺未遂事件を起こした事で、事態はそれどころではなかったらしいが、事件が無ければ、エレはアーヘルの手込めにされていただろう。それが別世界で起きていた可能性を、今、この少女は示唆している。
「私、あなたも憎いです」
ユーリルの驚きを置き去りにして、小さいエレは衝撃の告白を続ける。
「私からあの人を奪った男の娘である、あなたが憎いです。世界の違う別人だとはわかっていても、私から全てを奪ったあの男を、許せない。その血筋に連なる人間を、恨まずにはいられない」
数十という棘がこちらに向いて、勢いよく心に突き刺さったようだった。『君にこの話をするのは酷だとわかっているけれど』と前置きし、西方に騎馬帝国が興って訪れた悲劇の未来の話も、大きいカナタはかいつまんでユーリルに話してくれた。
このエレはきっと、父にもひどい目に遭わされただろう。今の西方の在り方を思えば、『アルテアの巫女』を手に入れた父がまず何をするかは、ユーリルにもわかる。ユーカートは娘にとっては良き父親であったが、狙った獲物に対しては容赦無い征服者である事は、十九年傍で見てきたのだ。よくわかる。
「だから、この世界をひっくり返したい」
小さいエレは再び笑みを浮かべた。『アルテアの巫女』に相応しい慈愛に満ちたものではない。全てを憎み、全てへの復讐を決意した、まさに『魔女』と呼べる、神聖さの欠片も存在しない表情だった。
「カナタにはセイ・ギを倒してもらいます。それでアルテアの力と元の姿を取り戻せば、私は彼女を排して、もう一度、あの人のたった一人の『エレ』になれる」
「そんな事、許されるはずが無い!」
ユーリルは思わず声を荒げていた。この世界のインシオンが愛しているのは、この世界のエレ唯一人だ。共に苦難の道を渡り、共に生き抜く事を選んだ伴侶だけだ。どんなに同じ顔をして笑っても、同じ声でインシオンの名を呼んでも、彼が目の前のエレを愛する事は無いだろう。ましてや彼女が、彼の愛しい妻を死に追いやったとなれば。
「許されなくても構わないんですよ」
それでも少女は、陶酔したように両腕を広げて、舞うように回転し、謡うように宣う。
「愛情でも、嫌悪でも、憎悪でさえも構わない。あの人が私だけを見て、私の存在を心から消さないでいてくれれば、それで」
ぷつりと唇を噛み切って、浮き上がる血の粒を舌で舐め、小さいエレがほくそ笑む。
「その為にどんな犠牲を払っても、それはあの人を私から奪った世界への、当然の復讐ですから」
そして間髪入れず、ユーリルが攻撃の一歩を踏み出す直前に、アルテアが紡がれる。
『あなたは私の意志に逆らえない』
虹色の蝶がふっと現れたかと思うと、くるくると小さなエレの周囲を舞う。それがある瞬間に黒く輝いて、ユーリル目がけて飛んできた。振り払う間も無く、蝶はユーリルの胸に吸い込まれて消える。
直後、身の奥から突き上げる衝撃に、ユーリルは短剣を取り落して膝をついた。毒を得たかのように全身に痺れが広がって、身体が言う事を聞かない。呼吸一つさえ満足にできなくて、ひゅうひゅうと細い息が洩れる。砂嵐が吹き荒れるような霞んだ視界に、少女が歩み寄ってくるのだけが見える。
『破壊の血を持つ者よ、獣に変われ』
再びアルテアが紡がれ、更に黒い蝶が飛び込んでくる。罵倒の声も返せずに地面に手をつくと、びしり、と音を立ててその手が鋭い爪を有した白い皮膚に変わってゆく。理性が駆逐されてゆく。
(カナタ、ごめんなさい)
目の奥が熱くなって、ぶわりと涙が溢れ出す。恋人の顔が脳裏に浮かんだが、それさえも彼方に消えて、ユーリルは闇の深淵へと意識を手放した。
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