17 正義の在り処

 晩餐が終わりに向かっても、ユーリルと小さいエレが戻ってくる気配は無かった。杯は新しい物に取り換えられて、甘い飲料の代わりに、昼間飲んだ清涼感のある茶が注がれている。

 カナタがそれを飲み干して、二杯目のおかわりをもらった時に、アーヘルがぽつりと呟いた。

「遅いな」

 その場にいる誰もが抱いている感想だ。夜も明かりを灯しているアイドゥールとは違い、アルセイルは、夜が更けてしまえば真っ暗の場所もある。海近くの丘を歩いていれば、うっかり足を踏み外して波の中へ真っ逆様、という事態にもなりかねない。

「おれが探してきます」

 茶を飲み干して立ち上がった時、背筋をはい上がるような寒気を覚えて、カナタは咄嗟に表情を引き締め、破神タドミール殺しの剣を抜いた。アーヘルと大きいカナタも反応して、それぞれの得物を鞘から解き放つ。シュリアンが娘達の肩を抱き込んだ。

「おやおや、食後のゆったりした時間に、お邪魔だったかな」

 大窓が開け放たれた向こう、テラスから歩いてくるのは、アイドゥールで出会ったセァク人の少年。間違い無く、母を危機にさらしたセイ・ギその人だった。睨みつけて、しかし違和感を覚える。少年の姿は、あの夜会った時よりもさらに若返り――というより幼くなり、カナタの胸ほどまでしか身長が無い。

 カナタ達の怪訝そうな様子を読み取ったらしい。セイ・ギは自身の姿を見下ろして、「ああ」と事も無げに言い放つ。

「僕がアルテアを使う代償は、これだよ。使う度に時間を遡る。しまいには胎児に戻って消えてしまうだろうね」

 だから、と黒い瞳がこちらを見すえる。

「そうなる前にミライを返してもらえれば、これ以上アルテアを使わなくても良くなるんだけど」

「身勝手だな!」

 大きいカナタが声を荒げた。

「あれだけ人を巻き込んでおいて、自分は幸せになろうってのか」

「身勝手なのは君も同類だろう?」

 翠眼がぎんと睨みつけても、返ってきたのは嘲るような笑いひとつだった。

「君こそ、アルセイルで破神の研究の為に、さんざん人を犠牲にしたじゃないか。僕がミライから『神の血』とアルテアをもらう原因になった傷を負わせたのも、今思えば君しかいないよね? そんな傍若無人を繰り広げた君が、今更正義の味方気取りかい?」

 青年がぐっと息を呑む。本人の口から聞いた事は無いが、彼が千年前のアルセイルで破神やアルテアの研究に手を貸していた事は、周りの人間から聞いて知っている。一体どれだけの事をしたのかは教えてもらえなかったものの、相当深く関わっていた事は、たしかなのだ。それはこのセイ・ギが存在した世界でも同じだったようだ。

「エレの為なら、僕は罪人でも偽善者にでもなれる」

 大きいカナタが気を取り直して、握る手に力を込めた剣を、少年を指すように向ける。

「お前こそ、あれだけ破神の因子をばら撒いて、破獣カイダを造り出し、僕らを殺そうとしたじゃないか」

 すると、セイ・ギはきょとんと目をみはった。訳がわからない、とばかりに小首を傾げる。

「僕が? いつだって?」

「とぼけるな!」

 そのちっとも悪びれない態度に、青年が声に苛立ちを乗せるのが、カナタにもわかった。

「ツァラでも、海でも、破獣を生み出して僕らやエレを狙ったじゃないか。覚えが無いとは言わせない!」

 だが、詰問にも、少年は本当に知らないといった態でぽかんとしている。しらばっくれているという可能性も考えられたが、しかしこの反応は、演技であるにはあまりにも自然すぎた。

「破神の血をばら撒こうとは思っていたよ。でもそれは、ミライを取り戻してからだ」

 ゆるゆると首を横に振り、セイ・ギはカナタが持っている物と寸分違わぬ破神殺しの剣を鞘から引き抜く。

「どうやら君は、相変わらず真実の見えない曇った目を持っているようだね、カナタ」

 それはカナタではなく、もう一人の自分に向けられた言葉だ。青年の焦燥が最高潮に達し、彼は床を蹴って剣を振りかざすと、セイ・ギめがけて斬りかかった。

 かん、と高い音が響く。攻撃を弾き返す少年に、大きいカナタは続けざまに斬りかかり、じりじりと部屋からテラスへと押し出す。月光の下、鋼の鈍い輝きと、漆黒を映し込んだ透明な刃が、何合と打ち合わされた。

「人の話を聞かないのも変わらないね」

「うるさい!」

 少年の挑発に完全に乗せられた大きいカナタの剣が、冷静さを失ってゆく。普段余裕を見せている青年がこんなに精神を昂らせるのを、カナタは初めて見た気がした。彼の大事な『エレ』の生命がかかっているからというのもあるだろう。

「おれとあにいで対抗します」

 剣を構えて、加勢すべき機会を見計らっているアーヘル王に、カナタは声をかける。

「陛下はご家族を守ってください」

 王が「すまぬ」と軽く頭を下げるのを見届けて、カナタもテラスへ飛び出した。剣戟を続ける二人の間に割って入り、鋼水晶の剣を横薙ぎにする。セイ・ギが新手に驚きつつも、冷静にカナタの一撃を受け流し、続けざまに上段から振り下ろされた大きいカナタの一閃を、後方に跳躍してかわした。

「どこまで行っても君達カナタは邪魔者だね」

 大きいカナタの剣がかすめたのだろう、少年はわずかに切れた頬の血を手の甲で拭い、心底鬱陶しげに吐き捨てると、剣を握り直した。

 彼方の名を持つ二人と、正義の名を持つ少年が、静かに睨み合う時間が過ぎる。が、不意にテラスに吹き荒れた風が、その均衡を崩した。

「がっ、は!」

 宵闇に紛れて空から舞い降りた影が振り下ろした腕に、セイ・ギが強く叩かれてよろめく。突然現れた第三勢力に、カナタ達も油断無く体勢をととのえ、それから、驚きで瞠目した。

 破獣だった。だが、通常の破獣とは異なる。赤いたてがみが夜風になぶられる、白い皮膚を持つ一体だ。破獣が現れた事、しかもセイ・ギを襲った事に、本当に破獣を生み出したのは彼ではないのかという考えが脳裏をよぎる。

 だが、カナタのそんな逡巡は、破獣がゆっくりとこちらを向いた事で、中断される羽目になった。破獣の瞳の無い眼球。その色は普通は金色に光っている。しかしこの破獣の眼は、夜より尚暗い、黒だった。そこにわずかに宿る星を見とめて、カナタは驚きに息が止まるのではないかと思った。

 まさか、の想いが脳裏を駆け回る。

「……ユ」

 名前を呼びきる前に、破獣が唸り、夜空に向けて咆哮を放ったかと思うと、カナタ目がけて飛びかかってきた。咄嗟に身をひねったが、爪が左肩を斬り裂いて、熱が走る。

「ユーリル!?」

 カナタの悲痛な叫びに応えるかのように、破獣が大口を開けて、泣き声のように吼えた。

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