9 流れる歳月

 子供と過ごす日々は驚きと戸惑いの連続だったが、新鮮でもあった。

 夜泣きで起こされたり、与えた人工乳を吐き戻されたり。高熱を出しぐずりまくって途方に暮れ、妹の夫に頼って解熱剤を打ってもらったが、浅い眠りからすぐに現実へ引き戻されて、赤子の息が止まっていないか何度も確かめる夜もあった。

 それでも子供はこちらの杞憂など他所に置いたかのようにすくすくと成長し、二歳を過ぎる頃には、大きな病気もせず、喋るより先に飛び跳ねて近所を遊び回るようになっていた。

 自分の足で走れるようになった子供に、スウェンは木の棒を握らせ、剣術を教え込んだ。剣で生きてきたスウェンに、子供との遊び方はそれしか無かった。

 父と息子というよりは、祖父と孫と呼んでもおかしくないほどの歳の差の二人。『一人前の戦士として育てろ』という指示通り、スウェンは剣の振り方、素手で敵と渡り合う方法、自分より図体の大きい相手への立ち回り、凡人が通れないような道無き道をゆく身のこなしなど、己の知る戦いの術をとことん叩き込んだ。石蹴りや鬼ごっこさえ、的にまっすぐ石を打ち込む練習や、追う側追われる側の心理を身をもって知る、大事な訓練だった。

 息子は何度も転び、ひっくり返っては、大小の擦り傷切り傷を作った。いつも痣だらけの子供を、世話をしてくれた階下の夫婦は大層心配したが、「これ以上手を加えては命に係わる」という境界線を、戦場を渡って重々承知しているスウェンは、決して致命的な怪我を息子にさせなかった。戦いと同時に急所を守る術も教え、危ない時には迷わず手をつかんで助け起こした。

 息子は泣かなかった。ぐっと歯を食いしばり、つりがちな赤の瞳にぎんとした意志の光を宿して、全てを吸収しようと貪欲に立ち向かってきた。

 そして数年経ったある時唐突に気づいた。必死の形相で食らいついてくる息子の表情は、少年時代のかつえた自分とまるで同じである事に。そして悟った。エニミが残した言葉の意味を。

『あなたの血を継ぐ人間の内、一人はイシャナの王になり、一人は英雄となります』

 エニミが産んだ娘の本当の父親は誰か。心当たりは充分すぎるほどにあった。彼女の予言は果たされようとしているのだ。王になる子供は王宮で育てられている。ならば英雄になるのはきっと、目の前にいる、この死神の落とし子だ。

 英雄を自分の手で育てる。自分だけが知っている秘密を抱える楽しさに背中を押されて、スウェンは更なる戦闘術を息子に叩き込んだ。幸い生徒は呑み込みが速い。どこまで成長するかこの目で確かめたい欲が出て、教える側もつい熱がこもり、時間の足りなさが惜しいほどに年月は速く過ぎた。

 飛びかかってくる小さな身体をかわし、足を払ってひっくり返す。そのまま倒れれば頭を打つが、しかし息子は地に身体が叩きつけられる前に両手をついて身軽に跳ね、素早く蹴りを放ってくる。まだ背が伸びきっていないせいで短い足は、スウェンが軽く背を反らすだけで空を切り、体勢を崩してたたらを踏む無防備な首にスウェンが軽く手刀を叩き込んで、決着はついた。

「――まだ!」

「今日はここまでだ」

 心底からの悔しさで目に涙をためながら身構え直す息子の黒髪をぐしゃぐしゃと撫で回すと、ぱん、とはねのけられる。

「勝ち逃げしてんじゃねえよ、クソジジイ!」

「いっちょまえの口は一度でも俺に泥をつけてから叩け、チビすけ」

 背を向けて歩き出すと、後ろから飛びかかってくる気配が迫る。スウェンは振り返りもしないまま左腕を伸ばすと、息子をがっちりと抱え込んで、荷物のようにひょいと肩に担いだ。

「ガキ扱いするな! ジジイ! クソジジイ!」

「今夜の飯は何にする」

「鶏肉がいい! むね肉まるごと一枚香草焼きのやつ! パンには粗目ざらめ!!」

 じたばた手足を動かしながらも、即答が返ってくる。晩飯のねたに釣られる子供の単純さに内心苦笑しつつ、陽の暮れかけた裏通りに長い影を落としながら家路を辿る。

 べしべし頭を叩く掌が大きくなったな、と感じる。身長は周囲の同年代の男子よりも小さいが、それに比すると手足はやたら大きい。いずれはかなり背が伸びるだろう。下手をすれば自分より大きくなるかもしれない。この子が大人になる時、自分は名実共にクソジジイになっている。その時に逆襲をされたら、果たして今のようにあしらえるだろうか。余計な心配が脳裏を横切ったが、それを楽しみにしている自分がいる事も否めなかった。


 何度目かの夏が来た。近年まれに見る猛暑で、部屋の窓を開け放っても風ひとつ吹き込んでこない。外へ出れば炎天下。こんな状況で訓練をすれば脱水症状で倒れてしまう。身体を鍛える事を欠かすのは気が引けたが、その為に息子を命の危険にさらす訳にもいかなかった。

 王都にいても時間を浪費するばかりで仕方が無い。思案した末、スウェンは旅支度を整えると、ぼろい幌馬車を借り息子を乗せてイナトを出、街道を南下した。

 南にはディルアトという、大陸の外と交易を行って栄えた港街があるが、今回目指すのはそのような人の多い場所ではない。人気の無い、しかし泳ぐにはうってつけの白い砂浜が広がっている海岸だった。

 泳ぎは川に連れて行って教えた事がある。息子は生まれて初めて見る海の碧さにすっかり圧倒され、しばらくぽかんと口を開けて見入っていたのだが、やがて基本的な疑問に気づいたらしく、「ジジイ」と声をかけてきた。

「飯はどうするんだよ」

 近くに集落は無い。調理器具と火を熾す一式は持参してきたが、水といくばくかの非常食以外は持ち合わせていない。スウェンは息子の服を脱がせて下穿き一丁にすると、『紅の鬼神』と呼ばれていた頃に相応しいあくどい笑みを浮かべて、宣告した。

「食糧なら目の前にたんとあるだろ。自分の食う分は自分で採れ」

 そして、驚きに目を真ん丸くする息子の背中を押し、容赦なく海の中へと突き落とした。息子はしばらくじたばたもがいていたが、やがて泳ぐ事を思い出したらしく、一度海面に顔を出し大きく息を吸い込むと、派手な水飛沫をあげて海中に姿を消した。

 見守る事数分。上がってくる気配が無い。

(……やりすぎたか?)

 いくら見捨てられた王子といえど、海で溺れさせたなどという結末をもたらせば、重大な責任を負う事になるだろう。助けに潜るべきかと服を脱ぎ始めたスウェンだったが、額目がけて飛んでくる何かの気配を察してはっと顔を上げ、ぶつかる前に反射的にそれを左手で受け止めた。

 手の中を見てみれば、拳大の、生でも焼いても美味い貝。理解する前に二つ目が飛んできた。動きの鈍い右手を叱咤してそれもつかむ。

「――今度は!」

 声の方に視線を向ければ、水面から顔を出した赤い瞳がぎんと睨んで、こちらを指差していた。

「魚捕まえてきてやるからな!」

 そう言い残して息子は再び海中へ潜る。負けず嫌いの性格は一体誰に似たのか。スウェンが呆れ半分で見守っている内に、息子は本当に魚まで数匹捕まえてきて、その日の夕食は海の幸で一杯になった。

「海の中」

 香ばしく炙った魚と貝を食べ尽くした後、焚火の炎を赤い瞳に映しながら、膝を抱えて丸くなった息子がぽつりと洩らした。

「綺麗で、つまらなくはなかった」

 だから、と口の中でもごもごするように少年は続ける。

「またここに連れてこいクソジジイ」

「……そうだな」

 素直でないのは自分に似てしまったようだ。苦笑しながらスウェンは返した。

「男同士の約束だ」


 だが、約束は果たされる事が無かった。満ち足りた日々の終焉は、ある日、唐突にだった。

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