8 影という名の光
空虚な時間ばかりが過ぎた。
国からの年金と、城下の子供達に将来イシャナ兵として戦えるだけの剣を教えて得た金。それで質素に食いつなぐ日々。
惰性で食事を摂り、惰眠を貪って、あまりにも怠惰な午後は古本屋で買ったぼろぼろの娯楽小説を流し読む。
時には髭を剃る事も忘れ、伸び放題でもみあげと繋がってしまった不精な顔を鏡でのぞき込んでは、亡き友を思い出す。ほんの時折、気まぐれでその友の残された妻子を訪ねて、思い出話をぽつりぽつりと語り合う。その時、相手の悲しみを紛らせるほどの話題を持っていなかった事を痛感し、もっときちんと彼と向き合って言葉を重ねていれば良かったと後悔もした。
そうして十五年が無為に飛び去った、暑い夏の終わりだった。
小さい。柔らかい。そして、温かい。
腕の中にいきなり押しつけられた感触に、スウェンは戸惑いを隠せずにはいられなかった。
スウェンが引退して以来一度も訪ねてくる事など無かったイシャナ正規軍の将官が突然やってきたかと思うと、赤子を一人、託したのである。
「この子供を、お前にひけを取らぬ一人前の戦士として育てろ」
完全に上から目線に加えて、子供を育てた経験も無い退役軍人に子守を押しつけるとは、一体何事か。
「この子が何者か知る権利くらいは、自分にあると思いますが」
軍に在籍していた時の自分の階級を鑑みて慇懃に訊ねると、将官は面倒くさそうに舌打ちしたが、
「国家機密だ。他言無用にしろよ」
と念押しして言を継いだ。
「陛下の御子だ」
それだけでスウェンは全てを理解した。
先年、宰相の孫娘が国王に嫁いだという話題で持ちきりになった時期があった。宰相の孫、という事は、エニミの娘だ。彼女と同じ容姿をしているという娘が、嫁げる年齢になったのかと、ぼんやり思ったものだ。
世継ぎの王子が産まれたのは、つい先日の事だった。だがたしか、国民にお披露目された王子は、父親と同じ、金髪に碧の瞳を持つ子供ではなかったか。今腕の中でむずがっている赤ん坊は、エニミを思い出す黒髪に、血のような赤い瞳をしている。まるで死神の落とし子のごとく。
そういえばイシャナには昔から、双子の王族は不吉とされ、双子が産まれた時には片方しか残さない因習があったか。最悪、産声をあげたその場で口と鼻を塞いで殺される例もあったというから、この子供は抹殺されなかっただけ幸せだったのだろう。
「養育費は年金に上乗せする」
相変わらず偉そうにふんぞり返り、将官は半眼でスウェンを見すえる。
「せいぜい死なせるなよ」
それで用件は終わりだとばかりに踵を返そうとする相手に向け、一番大事な事を訊いていないと、スウェンは声を張り上げた。
「名前は」
将官は鬱陶しそうに振り返り、吐き捨てるように。
「
それだけを言い残して、立ち去る。見捨てられたのがわかったのかとばかりに、赤ん坊がふにゃふにゃとぐずりだした。
「……勘弁しろよ」
みゃあみゃあ猫のような泣き声をたてる赤ん坊をベッドの上に置いたまま、スウェンは手で顔を覆って床にヘたり込んでいた。
敵を斬る事には自信があった。だが、赤子の世話など、結婚もしていない男が知るはずも無い。リエーテが産んだ子供を抱かせてもらった事はあるが、あまりの抱き方の下手くそぶりに姪はぎゃんぎゃん泣いて、
『兄さんには任せられない』
と妹は呆れ顔で我が子を腕の中に取り返したものだ。
泣いている時は何をすれば良いのか。何を与えれば良いのか。何も知らない。『せいぜい死なせるなよ』と簡単に言われたが、このままでは本当にこの子供を泣き疲れた末に死なせてしまいそうだ。いや、それ以前に、止まない泣き声でこっちの気が狂いそうだ。ぐしゃぐしゃと左手で髪をかき回した時。
「スウェンさん?」
控えめに扉が叩かれ、呼びかける声がする。のろのろと立ち上がって玄関を開ければ、心配そうな顔で見つめる、階下の若夫婦の姿があった。妻の腕の中では、女の赤子がすやすや寝息を立てている。
「泣き声が聞こえたものだから、心配になって」
夫が言い、部屋の奥でじたばた手足を動かしている赤ん坊を見やる。
「スウェンさんも色々事情がある方だから、深く立ち入るべきではないだろうけど、男手ひとつで子供の面倒を見るのはさすがに大変だろうと思いまして」
「丁度うちにも産まれたばかりですし、手助けできる事があったら、遠慮無く言ってくださいな」
夫婦が淡く微笑む。日頃の挨拶もろくに交わさないような退役軍人が上階に住んでいて、気味悪がられているのではないかと思っていたが、この夫婦は人が好すぎるようだ。
だが今、要らぬとはねのけては確実に赤ん坊を死に追いやってしまう。人に頼る事をせずにきたスウェンだったが、数秒躊躇った後に、決意した。
「……よろしくお願いします」
軍人として以外に低頭した事の無いスウェンが、初めて他人に頭を垂れた瞬間だった。
夫婦は早速、持参した服やおむつを取り出し、赤子を着替えさせると、妻が丁度目を覚ました自分の子と一緒に赤ん坊に乳をやった後、スウェンにみっちりと子供の抱き方を教え込んだ。
「首がすわっていないので、包み込むように。そう。そうです」
十五年訓練をしてもぎこちなく動くまでしか回復しなかった右腕を叱咤しながら、赤ん坊を抱き、軽く揺らすと、あれだけわめいていたのが嘘のように泣きやんでゆく。乳を与えられてくちくなり、汚れたおむつも替えられて落ち着いたらしい赤子は、次第にうつらうつらとし、目に涙をためたまま、すうすうと穏やかな寝息をたて始めた。それを起こさないよう、そっと布団の上に横たえる。
子供が寝入った所で、人工乳の作り方やおむつ交換、沐浴のさせ方から気をつけるべき体調の変化まで、若夫婦は丁寧にスウェンに指南してくれる。初孫が産まれたと大はしゃぎな彼らの両親が伝えてくれた昔からの知識は、大いにスウェンの役に立った。
「それじゃあ、私達はこれで」
「何かありましたら、いつでも声をかけてくださいね」
一通りの教示が済んだところで、夫婦は笑顔を残して立ち去った。
後にはスウェンと、眠る赤ん坊が残される。そっとその胸に手を当てれば規則的に上下していて、この小さな命が息づいている事をこちらに伝えてくる。
選ばれた王子は
「おい、チビ」
返事など返ってくるはずも無いのをわかっていながら、柔らかい頬を指先で軽くつついて呼びかける。
「俺はお前を
何の夢を見ているのだろうか。赤ん坊は小さな拳で顔をこすりながら、もぞもぞと動いたが、またすぐに穏やかな寝息をたてる。
影がやってきた。だがそれは、空っぽだったスウェンの心に、小さいがとても温かい光を灯してくれた。
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