7 いなくなった者達

 人間より一回り大きな黒い体躯。鋭い爪を帯びて不格好に伸びた四肢。背に生える、蝙蝠のような一対の翼。ぎらぎらした金の眼球。

 武勲名高い鬼神でも、実際は話に聞いた事しか無かった。皇族が破神タドミールの血を引くというセァクには多く生息するが、イシャナではうらぶれた地方にしか見かけないと言われていた存在。

 そうだ。セァク兵は今、何と呼んでいたか。

 破獣カイダ

 伝え聞くのと寸分違わぬ姿形をした異形の怪物は、金色の眼をぎょろりとスウェンに向け、新たな獲物を見つけた喜びを表すのか、喉の奥から笑いのような声を洩らした。

 気づけば周囲に兵はいなかった。誰もが戦いを捨てて蜘蛛の子を散らすように逃げ出している。最早イシャナとセァクの戦どころではなかった。

 破獣の登場で、両軍とも戦闘を諦めたようだ。喇叭らっぱの音と銅鑼の音が、互いに不協和音を奏でている。

 撤退せねば。その考えはスウェンの脳内をぐるぐる巡っているのに、蛇に睨まれた蛙のように、破獣の前から動く事ができない。剣を握った手が、地面を踏みしめる足が、本能的な恐怖で震えている。こいつを相手にしてはいけない。脳はそう警告を与えているのに、身体は立ち向かう事も逃げ出す事もできない。『紅の鬼神』が、本物の化け物を前に、本分である戦い方を忘れてしまった。

 完全に硬直したスウェンめがけて、破獣が大口を開けて飛びかかってくる。ぎざぎざの鋭い牙がスウェンの頭に食らいつく直前。

「――スウェン!!」

 スウェンと破獣の間に割って入る影があった。

 ごきゃ、と、不快な音が雨音より大きく鼓膜を叩く。大柄な身体がよろめき、膝を折る。泥水を跳ね上げながら地面に倒れ込む人物を見下ろしたが、はじめスウェンはそれが誰であるかを認識する事ができなかった。雨の中に身を投げ出した「それ」は、頭の上半分が失われ、顔を判別できなかったのだ。だが、もみあげと同化した髭に覚えがあって、瞠目する。この髭面を見間違えはしない。

「……カストール」

 自分のものとは思えないほど情けなく震えた細い声が、口から洩れる。

 馬鹿か。

 そう罵りたいが、言葉が続かない。

 去年結婚したばかりではないか。

『俺には勿体ないくらい可愛い嫁さんだ』

 でれでれしながら、ロケットペンダントの肖像画を嫌というほど見せつけていたではないか。

『お前も家庭を持て。価値観が変わるぞ』

 余計な口出しを繰り返していたではないか。

 来月子供が産まれると。そうしたら前線を退いて教官になろうかと、苦笑いしながら洩らしたではないか。

『俺が父親なんて柄じゃねえがな』

 そう、照れくさそうに髭面をかいていたではないか。

 愕然とするスウェンの思考は、右腕に走った激痛によって現実に引き戻された。いつの間にか、破獣が右腕に食らいついている。痛い、を超えて、熱い、という感覚が全身を支配する。脳髄を引き裂かれるかのようで、意識を手放しそうだ。無理に引きはがそうとすれば、確実に腕を持っていかれるだろう。

 ぼたぼたと地面に赤い血が落ちる。取り落としそうになった剣を、しかしスウェンは左手で受け止めると、自分の腕に食らいついている破獣めがけて降り下ろした。

 無我夢中で見当などつけている余裕も無かったが、刃は破獣の延髄に叩き込まれた。腹の底まで響くような叫びをあげて、破獣の牙が離れる。狂乱するかのように振り回した爪がスウェンの首に食い込み、更なる熱が襲う。

 腕から、首から、命が流れ落ちてゆくのを感じながら、それでもスウェンは剣を振るう。破獣の首に刃が食い込み、肉を斬り骨を断ってはね飛ばす。いくら人外の異形でも頭と胴が離れては生きてはいられない。黒い霧をあげながら、破獣は雨に溶けて消える。

 耳鳴りがひどくて何も聞こえない。視界がぶれるのは雨のせいだけではない。世界の全てが遠くなって、スウェンはぬかるみの中に無様に倒れ込むと、意識を手放した。


「……さん、兄さん!」

 リエーテの声が、暗闇から自分を引きずり出してくれる。呼ばれるままに目を開ければ、見慣れた自宅の天井と、真っ赤に目を腫らしてこちらをのぞき込む妹の顔が視界に入った。

「良かった、兄さん。やっと気づいてくれた」

 妹ははらはらと涙を流しながら、こちらの右手を握りしめる。しかしその感覚が遠い。妹がどれくらいの力強さで手を握っているのか、感知する事ができないのだ。

「スウェンさん、あなたは運が良かったですよ」

 妹以外の声が聞こえたのでそちらに視線をやると、いつもリエーテを診てくれている医師が、眼鏡の奥の優しげな瞳を細めて、ほっと息をついた。

「破獣とまともに向き合って生き残ったイシャナ人は、あなたくらいのものでしょう」

 破獣。

 そうだ。スウェンは思い出す。あの異形の化け物と対峙して、死んだかと思っていた。

「右腕の腱を食い千切られ、首からの出血もひどかった。泥にまみれたせいで傷口が膿んで高熱を出し、さすがにもう駄目かと思いました」

 では、夢ではなかったのだ。あの黒い怪物も。人が食われる怖気を煽る音も。カストールのあっけない最期も。

 リエーテの手から自分の手を引き離そうとする。しかしスウェンの右手は主の言う事を全く聞かず、指一本動かすのさえどうすれば良いのかわからない。

 腱を食い千切られた、と医師は言ったか。

 手が動かない。まともに剣を握れない。それではもう、戦えない。降ってわいた絶望に、スウェンは愕然とするしか無かった。

「兄さん。おなかすいたでしょう? 今日は私がお粥を作るわ」

 リエーテの手が離れると、力を込める事のできない右手ははたりと毛布の上に落ちた。背を向け台所に立つ妹の後ろ姿をぼんやりと見つめていると。

「傷痍軍人には国から年金が出ます」

 スウェンの視界から妹を隠す位置に医師が座って、声をかけてきた。

「あなたのこれまでの功績を考えれば、贅沢をしなければ一生を過ごせるだけの額を受け取れるでしょう」

 ですが、と、ちらりとリエーテを振り返り、彼は続けた。

「妹さんの治療費をまかないながら暮らすには、少々苦しいかもしれません」

 それは否定できない。左腕は動くので、城下の子供達に剣を教えたりすれば多少の金は稼げるだろうが、まっとうに働く事はもうできない。教官の道も閉ざされた。こんな事なら、暮らせる金はもらえているからと下級兵の地位に甘んじないで、貪欲に上を目指していれば良かったのか。

「なので」

 嘆息するスウェンをまっすぐに見つめて、医師は言葉を継いだ。

「リエーテさんの今後は、私に任せていただけないでしょうか」

 最初、何を言っているのかわかりかねて、スウェンはぽかんと口を開けたまま固まってしまった。しかしスウェンは頭の悪い男ではない。すぐに意味を理解して、驚きに目を見開く。

「リエーテさんを、私の妻として迎えさせてください」

 医師が深々と頭を下げると、台所に立つ妹の背が見える。男達の話が聞こえていないのか、彼女はこちらを振り向く事も無く、食事の用意を続けていた。


 妹を養えなくなったスウェンに、医師の申し出を断る理由は無かった。そもそも、腕が良いだけでなく穏やかで優しい町医者として城下の人々に頼られている男だ。金には困らないし、リエーテも信頼している相手であり、妹を任せるに足るだけの器を備えていた。

 スウェンの傷が回復し、一人で暮らすに困らないだけの体力が戻る頃、リエーテは医師に嫁いでいった。

 城下の教会で、スウェンの財力では決して用意できなかった美しい花嫁衣装に身を包んだ妹は、幸せに満ちた笑顔で、夫となる男と愛の誓いを交わした。

 式が滞り無く終わり、宴もたけなわになって、すっかり陽の暮れた暗い道を通り自宅に帰ると、静寂だけがスウェンを出迎えた。十数年、兄妹二人で暮らしてきた家は狭いと思っていたが、一人になってみるとやけに広く感じる。

 ごろりとベッドに転がって仰向けになり、スウェンは手で目を覆って、いなくなった人々の名を小さく呟く。

 エニミ。

 カストール。

 そして、リエーテ。

 誰もがスウェンを置いていった。

『紅の鬼神』の存在はやがて忘れられ、そして自分はいつか、誰にも知られぬまま朽ち果ててゆくのだろうという仄暗い未来が、びろうどのようにゆっくりと心に覆い被さって、思考を奪っていった。

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