第4章 狙われた巫女姫(5)

 破獣カイダ

 山賊達を襲っているのは破獣だった。以前見た破獣達より体格も翼も一回り大きい。黒のたてがみが長い髪のようになびいて、獣の王者である獅子を彷彿させた。

 突然訪れた脅威に対し、山賊達は、あるいは腰を抜かしてその場にへたり込み、あるいは尻に帆かけて走り出す。またある者は果敢にも武器を手にして精一杯の抵抗を試みた。しかしそのいずれも、破獣が咆哮してばさりと翼をはためかせた一瞬後には、血しぶきをまき散らしてその命を刈り取られる運命にあった。現れてものの数分で、たった一匹の破獣は数人の山賊を殲滅せしめたのである。

 破獣がゆったりと羽ばたいてエレの前に降り立つ。最後は自分の番か。言う事を聞いてくれない痛む身体で破獣を見上げ、そして不思議な感覚にとらわれた。

 破獣も自分を見ている。そう感じたのだ。

 破獣には目がある、物を見るのは当然だ。しかしそれとは違う。今までの破獣はただ視界に入ったものを滅してゆく習性があった。だがこの破獣は今確かに、何らかの意図をもってエレを見つめているようだ。

 その目の色も違う。普通破獣は瞳の無い金色の眼球を持つが、この破獣の目は、まるであの人のような赤だった。

 エレは吸い込まれるようにのろのろと手を伸ばす。その手が破獣の爪先にこつんとぶつかった途端、破獣は喉の奥で呻くような唸り声をあげたかと思うと、まるでエレに触れられるのを恐れるように一歩後ずさった。そして翼を広げ、青い空へと飛び去ったのである。

 触れるものが何も無くなった虚空に手を掲げたまま、エレは考える。破獣を前にして恐怖を感じなかった。むしろ懐かしいとさえ思っている自分がいる。一体何故なのか。

 ぼんやりと思考するエレの耳に、新たな足音が近づいて来るのが聞こえた。

「――エレ!」

 最初、誰だかわからなかった。あの人が自分の名前を呼ぶ事など無かったから。

 だが、見た事も無い心配顔でこちらをのぞき込む赤の瞳を見た瞬間、声の主が誰であるかを認識した。

「……イン……」

 腫れあがった口が邪魔をして、名前を呼びきる事はできなかった。

「お前、俺が『はぐれたら動くな』って言ったから、ここから動かなかったのか」

 くらくらする頭でぎこちなくうなずくと、インシオンの表情が複雑そうな感情を孕んで歪んだ。

「……馬っ鹿か、お前」

 今にも泣き出しそうな顔をしている、と感じたのは、目がかすんでいるせいなのか。ぼうっとしていると、突然抱き起こされ、エレの身体はインシオンの逞しい腕にすっぽりと包まれていた。

「まったく、馬鹿なお姫さんだよ、お前」

 驚きのあまり息が止まった。

 今まで、弟に抱きつかれたり、いきなり担ぎ上げられたり押さえ込まれたりはあったが、こうして異性に抱きすくめられるのは未知の経験だった。身体が痛み以外の理由で熱くなる。

 どぎまぎするエレの脳裏で、唐突にひとつの疑問が浮かんだ。

 昔、こういう事が無かったか? と。

 この腕に抱き締めてもらった気がする。しかしそれがいつどこでなのか、一切思い出せない。記憶を掘り起こそうとすると、スコップが硬い岩盤に阻まれはじき返されるかのように、その先へ進めない。無理に掘り進めようとすればするほど視界がぶれて星がちかちか舞った。

「……大丈夫か?」

 耳元で囁かれ、はっと我に返る。案じ顔のインシオンが至近距離でエレの顔を見つめていた。小さくうなずき、それから、この体勢は非常に恥ずかしいものだと気づいて、離れようと身をよじるが、逆に腕に力がこもる。

「震えてるぞ、お前。もう少しこうしていろ」

 言われて初めて、エレは自分の身体ががくがくに震えている事を自覚した。そこまで恐怖していたのか。

 今はこの優しさに甘えよう。エレはそう判断してインシオンの胸に頭を預けた。インシオンは無言だったが、普段の冷たい言動からは想像もつかないくらいの熱をエレに伝えてくれる。今はそれが何よりも心強かった。

「落ち着いたか」

 それなりの時間が経ったところで、インシオンが声をかけてきた。さっきより力強くうなずき返し、言の葉の石を切れた唇に当てて、まだよく回らない舌で宣誓する。

『この身を癒せ』

 虹色の蝶が白く発光してエレの身に吸い込まれ、あちこちの痛みが消えてゆく。

「ほんとすげえよな、それ」

 インシオンが感心したふうに呟くので見上げると、彼は目を細めてふっと微笑んだ。

 笑った。

 その事実にエレの頬が再び熱を持つ。想像していたよりずっと優しくて、柔らかい笑みだった。

「……何だ。言いたい事あるのかよ」

 ぽうっと見入っていると、インシオンがたちまち仏頂面になったので、残念に思いながら、エレはぶるぶる首を横に振る。

「こんな景気の悪い場所にいつまでもいられねえからな、戻るぞ」

 インシオンはそう告げると、エレの身体を軽々と抱き上げた。エレは小さく悲鳴をあげて、彼にしがみつく。

「お、下ろしてください! 自分で歩けます!」

「とか言いつつ、しっかり俺の首にかじりついてるじゃねえか」

 からかうような語調で返されては、反撃の糸口を見失ってしまう。

「いいから、しばらく大人しくしとけ」

 そう言って、インシオンはエレを抱えたままひょいひょいと崖をのぼり始める。エレはしばらく無言で身を任せていたのだが、一旦瞑目してから目を開くと、呼びかけた。

「インシオン」

 彼が見下ろして来る気配があったので、己の決意を音にする。

「私に剣を教えてください」

「あん?」

 予想通りの反応が返ってきたが、エレの思いは変わらなかった。

「自分の身は自分で守れと言ったではありませんか。こういう状況になった時、アルテア以外で身を守る術を持っていたいのです」

「揚げ足取りやがって」

 インシオンが不機嫌そうに舌打ちする。面倒くさい、の一言でばっさり切り捨てられるかとエレは危惧したが。

「まあいい、言い出したのは俺だからな。責任取ってやる」

「本当ですか!?」

 エレはぱっと表情を輝かせて顔を上げた。途端、ごん、とエレの頭がインシオンの顎を打つ。

「……おっ前、本当にたいがいにしろよ」

「す、すみません!」

 またインシオンを怒らせると思ったエレは身をすくめたのだが、聞こえて来たのは、ぷっと吹き出す声だった。

 笑っている。インシオンが声をたてて笑っている。エレは初めはただひたすら唖然としていたのだが、やがてつられてくすくす笑い出す。お互いに顔を見合わせれば、更に笑いが募る。

 さっきまでの状況を忘れようとするかのように、二人は笑声をあげ続けた。


「あ、エレ無事だったー」

 隊商は馬も馬車も止めてエレを待っていてくれた。この場に着く前にインシオンに下ろしてもらって自分で歩いて来たエレの姿をみとめたシャンメルが陽気に手を振る。しかし、リリムとソキウスは神妙な顔をして、隊商の長と共に二人を出迎えた。

「エン・レイさん、無事で良かった」

 ソキウスが声をかけて来る。そこに違和感を覚えてエレが眉をひそめると、「あれー?」とシャンメルが先に指摘した。

「ソキウスってば、エレの呼び方戻っちゃったの? 『親しくなるにはこう呼ぶのが自然でしょう』とか言ってたくせに」

 声真似をしておどけてみせるシャンメルを見るソキウスの瞳が、動揺を必死に押し隠しているように見えた。しかし彼はすぐに普段の落ち着きを取り戻すと、

「ああ、そうでしたね。すみません、エレ。私も気が動転してしまったようです」

 と、やんわり笑ってみせたのだった。

「迷惑をかけた」

 インシオンが長に詫びると、「いいえ!」と長が慌てて両手を振りぺこぺこ頭を下げる。

「このお嬢さんを危険な目に遭わせたのはこちらです。しかも覚えていないなどと言い訳をして……誠に申し訳無い!」

 話が見えずにエレがきょとんと目をみはると、珍しくリリムが口を開いた。

「あなたを突き落としたのは、一緒の馬車にいた子供よ。あたしが見た」

「そうそう、こいつだってー」

 シャンメルが、馬車にいた中でも年かさの少年の背をどんと押して、エレの前に突き出す。

「だから本当に知らないんだってば!」

 少年は泣き出しそうな顔で腕をぶんぶん振り回して必死に弁明した。

「このお姉ちゃんを押したなんてのも、誰かに何か言われたかなんてのも、全然覚えてないんだってば! 信じてよ!」

「すみません、このようにしらばっくれて」

 隊商の長が少年に向けて拳を振り上げるが、「いや」とその手をとどめたのはインシオンだった。

「こちらは無事だったんだ。本当にわからんと言うなら、これ以上事を荒立てて互いの関係を悪くしたくはない」

「は、はあ、インシオンさんがそうおっしゃるなら……」

 英雄の言葉はやはり力を持つものらしい。長は行き場の無くなった拳を開くと、その手で少年の頭を強制的に下げさせて、自らも低頭した。

 その場が収まって、インシオンとシャンメルは再び馬上の人となり、他の人間達は馬車に戻ってゆく。エレも続こうとしたところで、

「エレ」

 背後から突然声をかけられて、びくっと身をすくめる。振り返ると、いつになく真剣な顔つきをしたソキウスがいた。彼はちらりと仲間達を見やり、誰もこちらに意識を向けていない事を確認すると、エレに耳打ちする。

「これだけ何度も正確に、我々を、というかあなたを狙って来る追手がいる事。これは不自然です」

 彼は何を言いたいのか。話を読みかねてエレが目をまたたかせると、ソキウスは更に声を低めて告げた。

「あなたをイシャナへ行かせない事でインシオンを陥れようとしている何者かがいるかもしれません。それも、我々のごく近くに」

 その意味を理解した瞬間、エレの瞳が驚愕で大きく見開かれた。心臓が逸る。

 まさか。そんなまさか。

 その思いだけがエレの頭の中でぐるぐると螺旋を描いた。

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