第4章 狙われた巫女姫(4)
エレはごろごろ崖を転がったが、不幸中の幸いか、大した勾配は無かった。とはいえ、崖下で落下が止まった時、打ち身と木の根にひっかけたあちこちの傷がずきずき痛んで、すぐには動く事ができなかった。
ようよう動けるようになったのは、しばらく時間が経ってから。無意識に息を止めていたせいで空っぽになってしまった肺にたっぷり空気を取り込んで、思い切り吐き出す。そしてのろのろ身を起こし、周囲を見渡した。
すぐそばに大きな岩があって、これに頭をぶつけていたらと想像してぞっと身をすくませる。それから崖を見上げ、どうやって登ろうかと思案した時、先日インシオンに言われたばかりの台詞を思い出した。
『はぐれたらその場から動くな』
そう警告された。言う事を聞かなかったら足を斬り落とすとまで脅しをかけられたではないか。
ここから動かない方が良いのだろうか。馬車が引き返して来るか、誰かが探しに来てくれるかもしれない。
しかし、という考えも浮かぶ。
セァクでは戦場で落伍した兵を救わないのが常であった。周囲の者達は姫であるエレにそういう場面を見せないよう隠していたらしいが、国内を脅かす破獣退治に向かう兵達を直接ねぎらった時、行きにいた顔が帰りに見えない事があった。どんなに世間知らずのエレでも、それが何を示すのかわからないほど愚かではない。
イシャナでも常識は同じだとしたら、インシオン達は自分を置いてゆくだろう。ならば自力でこの崖を這い上がって後を追いかけてゆくしか無い。
いずれにしろせめてまずは傷を治そうと、アルテアを紡ごうとした時、エレは急速に背後に迫る気配を感じ取った。そして振り向くより先に、ごつい手に後ろから口を塞がれた。
「んむう……っ!」
身をよじってもがこうとすると、もう一方の手で身体を抱え込まれる。
「この女か?」
「赤銀の髪だ、間違いねえ」
複数の男達の声がする。エレの視界に山賊達の姿が入って来た。会話から察してざっと血の気が引く。この賊達は最初から、隊商の荷ではなくエレを狙っていたのか。では、馬車から落ちたのも、彼らと結託した何者かがエレを故意に突き落したのかもしれない。知らなかったとはいえ、無関係の人達を巻き込んでしまっていたのだ。
この落とし前は自分でつけなくてはならない。エレはなりふり構わず大口を開けると、男の手に思いきり噛みついた。「ギャッ!」という悲鳴と共に手が離れる。咄嗟にアルテアを放とうとしたが。
「このアマァ!」
男の激昂する声と同時、頭をつかまれて強く地面に叩きつけられた。目が回ったところへ、顔に更なる衝撃が走る。丸太のような太い足が、エレの顔を蹴ったのだ。
「この俺様に噛みつくたあ、いい度胸だな!」
反抗した事が相当神経を逆なでしたらしい。容赦無い蹴りが、顔を、胸を、足を打つ。腹にまで蹴りが入って身を丸めると、更に攻撃が加わった。
「おい馬鹿、死なせたら元も子もねえんだぞ!」
「ああん? 知るかよそんな事!」
仲間達が諫めても、男の怒りが引っ込む気配は無い。
「要は死ななきゃいいんだろ? だったら、ちいとばかりおしおきしたって構やしねえ」
ぼやける視界の中、男が短剣を抜き放ち、いかつい顔をにやけさせて刃をなめるのが見えた。
「この顔を見られねえくらいにしてやってもいいくらいだ」
短剣の刃が頬に押し当てられる気配がした。反撃のアルテアを練りたいが、蹴られた口が腫れ上手く動かない。肺が空気を求めてひゅうひゅうと細い息しかできない。
今度こそ誰も助けてくれない。自分はここでずたずたに切り裂かれ、顔の見えない相手のもとへ連れ去られるのだ。そしてその後には、イシャナとセァクの関係が悪化し、最悪戦争の未来が訪れる。その時、発端を起こしたインシオンに、どれほどの責任がのしかかってくるだろう。
ぷつ、と刃の先が頬に刺さった熱さえ、冷えた遠い感覚に思える。自分の身が危険な時にエレが考えていたのは、インシオンの事だった。
「思い知れ、このクソガキがァ!」
男が楽しげに叫んだ時だった。
鋭く風を切る音が聞こえたと同時、男の首から上が消えた。手から力が失われ、握っていた短剣と共に身体が地に落ちる。
「なっ」
「何だ!?」
突然訪れた惨劇に山賊達が慌てふためく。その間にもまた別の男が悲鳴をあげ、左の肩口から先を失って崩れ落ちた。
何が起きているのか見届けようとエレは必死に目の焦点を合わせる。そしてその目を驚愕に見開いた。
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