4 鬼神の妹
王都イナトは、イシャナが生まれた二百五十年の昔から栄華を誇る大都市である。高い白の壁に守られた街は外敵の侵入を許した事が無く、街門からその最奥にそびえる王城までを、広い目抜き通りがまっすぐに貫いて、様々な店が軒を連ねている。
人々が行き交う合間を縫うように、スウェンは早足で歩く。その腕にはいくつかの袋を抱え込んでいる。肉屋で買った鶏肉。青果店で買った葉物と林檎。乾物店では魚の燻製と香辛料。そして行きつけの薬局で手に入れた、異大陸の漢方薬。王都に戻って給料が入ると必ず買い揃えるものばかりだが、しかし薬はスウェン自身が使うものではない。
大通りから外れ、二階建て三階建ての建物が所狭しとひしめきあう住宅街へ。向かいの家へ綱を渡して干した洗濯物が翻る下を、子供達がきゃいきゃいと笑い声をあげながら、ふざけあって駆けてゆく。ぶつからないように道の端を歩き、スウェンは迷う事無く裏通りを進むと、古ぼけた二階建ての共用住宅の階段を昇った。
百年は前に建てられたその家の、少々がたついた木の扉を開ける。すると、窓際のベッドの上に身を起こして外を眺めていた人物がつっとこちらを向いた。
「おかえりなさい」
二十歳の娘にしては少々幼い顔に満面の笑みを浮かべ、肩口までの赤銀の髪がさらりと揺れる。身体の線はひどく細い。
「そろそろ兄さんが帰って来る頃だと思ってた」
「ただいま」
その笑顔を見ると、流石の鬼神も表情をほころばせる。
「リエーテ」
緩みきったその顔を第三者が見たら、『鬼神がこんなふうに笑う事があるのか』と大層驚くだろう。それほどまでに、この娘がスウェンにとって大事な存在である事を示している。
それも当然である。娘――リエーテは、四つ年下の彼の妹。守るべき唯一の肉親なのだから。
「起きていて大丈夫なのか」
買ってきた品物を調理台の上で整理しながら訊ねると、「平気」と朗らかな返事がやってくる。
「このところは調子が良いの。先生も、起き上がれるなら少し身体を動かしても構わないくらいだって言ってたわ」
「そうか」
人並み外れた身体能力を持つ兄に体力を持っていかれたかのように、妹は生まれつき身体が弱い。しかも幼い頃は、悪癖を持つ父が酒に金をつぎ込んで、薬代をちっとも得られなかった。成長期にしかるべき治療を受けられなかった身体は痩せ細り、大人になってもこうして日がな一日ベッドの上で過ごす生活を強いられている。
妹の病を治す為に、子供でも金を得るには。スウェンは考え抜いた挙句、近所に住んでいた元イシャナ軍人の老人に頼み込んで、戦闘技術を叩き込んでもらった。無報酬で子供に本気の戦い方を教えるなど、奇特な人物だったと思うが、老人も、自分の技を継いでくれる人間がいる、それだけで満足だったようなので、相互扶助のような形で師弟関係は成り立った。
やがて老人が寿命で亡くなった頃、スウェンはイシャナ軍へと入った。十三歳の小僧が何をできるかと、周りの大人達は侮りせせら笑ったものだ。しかし、入隊直後の新人への洗礼である先輩兵士との手合わせで、スウェンは自分より遙かにがたいのいい兵を、ものの数分で地面にはいつくばらせ、その場に居合わせる全員の度肝を抜いた。
紅髪に鋭い紫眼の少年兵の存在は、瞬く間にイシャナ軍に広がる。だが所詮訓練での話。本物の戦場に出れば嫌でも実力の差を思い知るだろうと、嫌味を込めて誰もが噂した。
しかしここでもスウェンは周囲の考えを裏切ってみせた。セァクとの国境争いの初陣で、彼は敵陣深くへ斬り込み、セァクの一部隊を一人で壊滅状態に追い込んだのである。黒鎧を翻弄し次々と屍へ変える少年の姿に、敵も味方も恐怖を覚え、ぎらぎらとした紫炎を瞳に燃やす、返り血に塗れた彼を、『紅の鬼神』と称した。
スウェンは名を挙げ多くの将の首も挙げたが、軍での階級が上がる事はなかなか無かった。まだ幼い手前、年上の部下を持つのは双方に良からぬ影響を与えるだろう、というのが上官の言い分だったが、その実は二十歳にも満たない小僧を士官に据える事を快く思わない、彼らの嫉妬によるものであった部分が大きい。
だが、スウェンには階級などどうでも良かった。給料が増えるのは確かに嬉しいが、今のままでも、妹を養うだけの金を得る事ができる。それで充分だった。
しかし。
「兄さん」
ベッドの上でリエーテが愁眉を曇らせているだろう事が、背中を向けていても声色から察する事ができる。
「また戦へ行ったの?」
スウェンは応えない。それが答えとして成立するのだとしても。
「兄さんが、私の事を思っててくれるのは、わかってるわ」
妹の声が手の形を取って背中にすがりついてくるようだ。
「でもその為に兄さんが危険な目に遭うのは、嫌なのよ」
リエーテは心根の優しい娘だ。セァクとの戦が延々と続く現代にあって、その優しさは弱さと取られるほどに。勝者が強者となり生き延びられる今の時代、弱者は生き抜けられない。誰かが守らねばならないのだ。そしてそれは、兄である自分の役目だと信じている。
「心配するな」
スウェンは振り返り、笑みを浮かべる。妹以外には決して見せない、柔らかい笑みを。
「いずれ階級が上がれば、教官としてイナトに残れる道もある。それまでの辛抱だ」
実際のところ、一人で一大隊分以上の働きをするスウェンを、上層部が戦場から離すつもりは無いだろう。『紅の鬼神』は、その名が響くだけで敵兵を戦慄させる。それだけの実力者を前線から退けて教育者にするような戦力の余裕は、今のイシャナ軍には無い。
それでも、妹の憂いが少しでも晴れるならと、スウェンは優しい嘘をつく。兄と同じ紫の瞳を細めて、リエーテが儚げな笑みを返した。
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