3 運命の出会い
その夜、国境の街アイドゥールまで引き返してきたイシャナ軍の兵士達は、仲の良い同志と連れ立って街へ散り、勝利の祝杯をあげていた。にっくき敵国セァクの侵攻を退けた立役者達とあって、食堂や酒場の店主は大盤振る舞いで酒や料理を出し、踊り子が演者のかき鳴らすギタラに合わせて激しく妖艶な舞を披露し、やんやの喝采とイシャナ金貨が宙を飛び交う。
そんな馬鹿騒ぎが繰り広げられる酒場の片隅のカウンターで一人、紅髪の男は眉間に皺を寄せながら、氷だけで割った琥珀色の酒を少しずつなめ、時折小魚の唐揚げをちまちまと口に運んでいた。
「よお、スウェン!」
その首を太い腕でがっちり抑え込み、少々回らない舌で大声を張り上げる者がいて、スウェンと呼ばれた男は、より一層眉間の皺を深くしたのである。
「今日一番の英雄が、何こんな隅っこでちびちびやってるんだよ!?」
もみあげと同化した髭に覆われたごつい赤ら顔で、がははと笑い声をあげる大柄な男。縦も横も確実にスウェンより一回りは大きい。
「……うぜえ」
「お、その反応! さっすが孤高の鬼神様!」
ちっと舌打ちして吐き捨てても、わかりきっていた事とばかりに、大男は怯む事も無く更なる笑声をあげた。
「まあまあ。お前さんが馴れ合いを嫌ってるのは、軍の誰もが知ってるところだ。無理に輪に入れたあ言わねえよ」
彼はそう言いながら、自分で持ってきたエール入りのジョッキをカウンターにどんと置いてスウェンの隣に腰を下ろし、店員に二、三の料理を注文する。
「だが、折角の勝利の美酒なんだ。美味しくいただきたいものだろ?」
「俺は一人で飲めれば充分美味い。さっさと消えろ、カストール」
「はっはは! そのそっけなさがかえって女連中をキャーキャー言わせるの、気づいてるか?」
大男カストールがのけぞってけらけら笑った。
それくらい知っている。女などとは面倒な仲になりたくないからはねのけても、何故か彼女達は『媚びないところが素敵です』と、なお一層目を熱っぽく潤ませて迫ってくるのだ。
ある時などは、思い余ったか、『あなたのものになれないのなら、あなたを殺して私も死にます』などと短刀を喉元に突きつけられながら寝台に押し倒された事もある。不意打ちで面食らって初動が遅れたが、所詮女の腕力。すぐに短刀を叩き落として頬を裏拳で軽くはたき、泣き止むまで諭して家に帰した。
それ以後、女とは関わり合いたくないという気持ちはスウェンの中でより強くなった。元々、酒乱の父に愛想を尽かした母は子供を置いて家を出てゆき、イナト城下街の最下層で、ひもじさに指をしゃぶる幼い妹をかばいながら生きてきた。我が子すら捨てるのだ、女は信用できない。幼少時の体験は、スウェンにそんな思いを植え付けるに充分だった。
嫌な思い出が黒い渦を巻く胸中を洗い流そうとばかりに酒をあおった時、店員が料理を運んできた。鶏むね肉の香草焼きに、蒸した海老や帆立をふんだんにあしらった葉物のサラダ、最後に
「俺のおごりだ。食え食え!」
ばん、と勢いよく背中を叩かれて、スウェンは軽く咳き込む。カストールは声はでかいし馬鹿力だしおせっかい焼きだが、どんな女よりもスウェンの事をわかっている悪友でもあるのだと、認めない訳にはいかない。決して口に出して礼は言いたくないので、スウェンは無言で料理に手を伸ばした。
鶏肉は秘伝のたれに浸け込まれて柔らかく、サラダは甘辛いソースがかけられていながら素材の味を殺していない。パンをかじれば粗目が口の中でじゃりじゃりと音を立てる。この感触が好きなのだと人に言えば、『鬼神が意外だ』『その顔で甘党なのか』と言われるのが目に見えているので、カストール以外には知られていない。というか、直接言った事は無いのに、この男は付き合う人間の事をよく観察し、相手のひととなりや好き嫌いをじっくり心得るのだ。他人と関わり合うなど最低限の挨拶すら鬱陶しいと思っているスウェンとは正反対だ。
出された料理を食べ切らないなど、さんざん飢えを経験してきたスウェンにしたら殺人以上の大罪だ。サラダの最後の一葉、粗目の最後の一粒まで綺麗に食べ尽くし、しかしおごりという恩をカストールに売られるのは癪なので、イシャナ銀貨数枚を彼の前に置いて席を立つ。
「おいおい、スウェン。夜はこれからだぜ、どこ行くんだよ」
「帰って寝る」
国境に近く、郊外の草原が戦場になる歴史を長く歩んできたアイドゥールには、一軍が滞在できるだけの宿舎が設立されている。士官は個室があるが、一般兵は大部屋に大人数をぎゅうぎゅうに押し込んで雑魚寝だ。とはいえ、今夜は兵のほとんどは夜通し酒宴を楽しみ、宿舎に戻る者は少ないだろう。誰にはばかる事無く眠りをむさぼりたい。
酒場の扉を開き、外に出ると、秋口のやや冷たい風が頬を刺す。服の襟を合わせて歩き出すスウェンの耳に、どろどろにねばついた声が飛び込んできた。
「いいじゃねえか、ねえちゃん。俺たちゃ、ねえちゃん達を守った兵士様なんだぜ? 礼のひとつやふたつ、安いもんだろ?」
紫の瞳を細めて声の方を向く。酔った兵士が小柄な女性を建物の壁際に追い詰めて、にやにやと笑いながら顔を近づけているのが見えた。女性は嫌悪感に襲われているのか顔をそむけているが、兵士は両手を壁について彼女を囲い込み、逃げ道を塞いでいる。
「大体こおんな時間にこおんな場所をうろついてるって事自体、そういうのを期待してたんじゃあねえのかい?」
見事に身勝手な男の論理だ。思い込みの激しい女は嫌いだが、自分の都合に女を引きずり下ろそうとする男は更に唾棄すべき対象である。スウェンは眉根を寄せてひとつ溜息をつくと、ずかずかと二人のもとへ歩み寄ってゆき、背後から酔漢の腕を取ってねじり上げた。
「いでででででで!」
「よせ。嫌がっているだろう」
下手に動けば関節が外れるほどに締め上げながら、スウェンは男の足を払った。酔いが回っていた兵士は受け身を取れず、見事に地面にひっくり返る。
「てっ、てめえ、いきなり何し」
やがる、と男が言い切る事はできなかった。スウェンが音も無く鞘から抜き放った短剣が、男の喉に突きつけられていたのだ。ぎょっとした男の目が、スウェンの容姿をまじまじと見て、更に見開かれる。
「げっ、鬼神……!?」
喋って喉を動かした拍子、ぷつ、と切っ先が皮を破り血の粒が浮き上がる。
「失せろ」
抑揚の無い声色でスウェンは静かに言い放つ。感情を込めないのが余計に恐怖を与えたらしい。兵士はすっかり酔いが吹っ飛んだ様子で、腰を抜かした体勢のまま後ずさり、這いつくばるようによろけて、時折道端の樽やバケツにぶつかって派手な音を立てながら夜の街へ消えた。
その背を見送りもせず深々と嘆息し、スウェンは女を振り返る。こんな時間に女一人で出歩くなど、ああいう手合いの男に襲ってくださいと言っているようなものである。「馬鹿かお前は」の一言を浴びせかけようとして、しかし彼は開きかけた口から声を出す事ができずに固まってしまった。
女というよりは、まだあどけなさを残した少女だった。春の海のような碧の瞳が、スウェンをじっと見つめている。底知れぬ深淵に引きずり込んで離さないかのごとき力を持って。実際スウェンは、その瞳から目をそらす事ができずに、少女と見つめ合う形になる。
「――お嬢様!」
悲鳴じみた声が聞こえて、スウェンの意識ははっと現実に引き戻された。少女が碧の瞳をつと路地の向こうに馳せると、恰幅の良い中年女性がまろぶように駆けてくるところだった。
「ああ、お嬢様! このような時間にお一人で街へ出られるなど、危険極まりない事を! どうかご自重くださいませ」
スウェンが言いたかった事を彼女が代弁してくれたので、自分が追い打ちをかける必要は無いだろうと、言葉を飲み込む。
「すみません」
女性に向けて、少女が初めて口を開いた。十六、七と思われる外見に似合わぬ、やたら大人びて淡々とした喋り口だった。
少女はついとこちらを向き、深々と頭を下げる。絹糸のような艶やかな長い黒髪が、さらりと音を立てて流れた。
「危ないところを、ありがとうございました」
顔を上げた碧の瞳が、じっとスウェンを見つめる。その瞳を見ていると、意識がそのままどこか彼方へと連れ去られそうだ。ただの少女が鬼神をも圧倒する眼力を持っている事に、スウェンはらしくなく戸惑う。
が、不意に視線をそらしたのは少女の方からだった。黒髪を翻し、ゆるりとした足取りで女性と共に立ち去る。遠ざかる背中から目を離せぬまま、スウェンが棒立ちになっていると。
「なんだなんだ、どうした? 鬼神が魔女に魅入られたか?」
背後からカストールの声が聞こえて、がっしりと首を抱え込まれた。いつもならそんな風に接してきたら、たとえ相手がカストールといえど、腕を叩き落として睨みつけるものだ。しかし今、スウェンの胸に浮かぶ思いは、ただ疑問だった。
「――魔女?」
心にひっかかった単語を、おうむがえしにして訊ねる。カストールは「なんだお前、知らないのか」ときょとんとした表情でスウェンの紫の瞳をのぞき込んだ。
「『碧眼の魔女』エニミ嬢っていったら、有名だぞ。ドノヴァン候の一人娘だ」
ドノヴァン候の名は、政治に興味の無い一兵士のスウェンでも知っている。文官ながらイシャナ軍の編成にも口を出せるほどの権威を持つ貴族だ。そんな地位の男の姫君が、何故魔女などというあだ名を戴いているのか。
無言の問いかけを感じ取ったのだろう。カストールがこちらの首に腕を回したまま顔を近づけて、「あくまで噂だがな」と内緒話のように声を低めた。
「エニミ姫は不思議な力を持っているらしい。その力を狙った蛮族に襲われて、嫁げない身体になってるんだとよ」
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