2 紅の鬼神
広い草原に、どおん、どんと銅鑼が鳴り響く。
それを合図に、黒い鎧に身を包んだ馬上の兵達が、片刃の黒い剣をすらりと鞘から抜いた。
どん、どおん、どん。
更に三連呼。彼らは
待ち受けるは、白地に金の装飾を施した輝ける鎧を身につけた兵達。単純に色で見分けるならば、白が善で黒が悪ととらえられそうな好対照だ。しかしこの戦に善悪など最早存在しない。数百年繰り返される戦争を経た間に、どちらに正義があるかなどという問答の綱は、擦れてぶつりと切れてしまったのだ。
セァクとイシャナ。正否の明らかにならない戦いはもう何十度目かわからぬまま、今日も国境で衝突を繰り返す。
黒が鋭く尖った鏃のような陣形で敵へと突っ込んでゆく。対して白は幅広に展開し、己の身の丈よりも長い槍を抱えて、間隔をほとんど空けずにずらりと並ぶ。セァク兵の先陣が肉薄した時、
長槍の奥に剣は届かない。セァク兵は馬の脇腹を、あるいは乗り手自身の鎧の隙間を突かれて次々と落馬してゆく。落伍した兵は救わない。彼らの屍を踏み越えて、一人でも多く敵陣深くへ斬り込み一人でも多く敵を屠る。それがセァクの戦法だ。
そんなセァク兵の執念は、長い槍をも凌駕した。渾身の一撃に柄の途中から穂先を斬り落とされ、徒手になったイシャナ兵の首が宙を舞う。緑の草原に入り乱れる白と黒。そこに鮮血の赤が新たな色となって混じり、その範囲を広げてゆく。
戦いが混戦の様相を呈してきた頃、一角から喚声があがった。イシャナの陣深くまで入り込んでいたセァク兵からだ。
強靭を誇る精鋭部隊の一人が、喉笛を斬り裂かれ血を噴き上げながらのけ反る。乗り手の制御を失った馬が驚いて走り去ろうとするが、馬具に足が引っかかって外れず、死体の頭ががんがんと容赦なく地面に叩きつけられて、かっと目を見開いた顔が、直視しがたいほどの血みどろになりながら、馬に引きずられて乱戦に消えた。
一瞬の油断から歴戦の兵が惨劇に見舞われる事は、戦場では珍しくない。しかし、さっきまで共に駆けていた仲間があっという間にやられた事実に、セァクの兵達は戦慄した。
一体誰が。同志を屠った敵の姿を探して馬頭を巡らせる兵の視界に、太陽光を受けてきらめく刃が映ったと思った直後、ごとりと音を立てて、剣を握る腕が肩から斬り落とされて草の上に落ちた。
数拍遅れてやってきた痛みに絶叫する仲間の声で、周囲のセァク兵は恐慌状態に陥った。そこに更なる剣の軌跡が踊る。鎧の隙間から胸を突かれる者。馬が四肢を失って横倒しになり、放り出されて首の骨を折る者。頭と胴体が泣き別れになる者。
次々と倒れてゆくセァク兵の間を駆け回る影は、一人。
その一人の男は、イシャナの白い兵装に身を包んでいる。しかし、身を守る為の鎧兜を身につけていない。胸当てと籠手、脚絆を申し訳程度にまとい、鋼の長剣を振るって、返り血を浴びても一寸も怯む事が無い。
ぎんと敵を見すえる目力の強い瞳は、宵闇のように濃い、黒に近い紫。高い位置でひとつに結わいた長い髪の色は、燃える炎のような
「……鬼神だ」
男が誰かを認識したセァクの誰かが、狼狽える声をあげた。
「『紅の鬼神』だ!」
たちまち恐慌が波となってセァク兵の間に伝播する。
フェルム大陸の戦士に『紅の鬼神』の存在を知らぬ者はいない。紅の髪を翻して軽装で戦場を身軽に駆け、ひと戦で数百の敵を葬った、大陸に時折現れる黒の異形、
その鬼神が今、目の前にいる。圧倒的な恐怖にセァク兵は震え上がった。ある者はセァクの誇りを忘れ、尻に帆立てて我先にと逃げ出し、ある者は果敢にも震える手で剣を握り直して、仲間と目配せをし合うと、相手はたかが一人、と数人で斬りかかった。
鬼神は血の滴る剣を握った手をだらりと下げたまま、無防備に立ち尽くしているように見えた。戦場で呆けるとは鬼神の名も大した事が無い、と、大手柄を前にしてセァク兵達はほくそ笑む。
しかし、セァクの片刃剣が首に触れる寸前、紫の瞳がぎんと鋭く光ったかと思うと、鬼神は赤く染まった長剣を右手で振ると同時、左手で腰の剣帯から短剣を抜き放った。ただ一挙動。それだけで彼に迫ったセァク兵は数人いっぺんに喉笛を斬り裂かれ、次々と落馬する。
自分が屠った敵の数を数える暇もあらばこそ、鬼神は地面を蹴って軽々と跳躍すると、乗り手を失った馬の鞍に収まり、気性の荒い北方の馬を難無くなだめ、鐙だけで操りながら残る敵兵へと突っ込んでゆく。彼が赤い疾風のごとく駆け抜け剣を振り払った後には、命を刈り取られたセァク兵の屍が累々と横たわった。
どん、どん、どおん、どん。
四連呼の銅鑼が鳴り響く。一拍間を置いて、どおん、と更に大きくひとつ。それはセァクでは撤退の合図だ。波が引くように黒鎧達が馬首を返して後退してゆく。それを見送る白鎧の誰かが歓呼の声をあげると、それは波のように仲間達の間に広がる。
「イシャナ! イシャナ! イシャナ!」
いつしか誰もが拳を突き上げて祖国を讃える叫びを轟かせる。
そんな中、返り血に塗れた紅の鬼神は、紫眼を鋭く細めて、去ってゆく黒の兵士達の背中を睨みつけていた。
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