第2章 黒の英雄との邂逅(4)

 一風呂浴びて、気を失ったまま寝っぱなしだった身体をさっぱりさせると、人心地ついた気がした。インシオン遊撃隊の面々は、エン・レイが一人で隠れ家を出て行かないようにさりげなく目を光らせてはいるが、この建物内にいる分には、歩き回る事も風呂に入る事もとがめなかった。

 髪をタオルで拭きながら姿見の前に立つ。まじまじと自分の姿を見つめていると、心に言いようのない不安がこみ上げてきた。

 今までセァクの容姿でない事をさほど意識した事は無かった。誰もエン・レイの姿に言及する事が無かったから、当たり前のようにセァクの姫として過ごしてきたのだ。

 だが、今回遊撃隊に触れてはっきりとわかった。自分はイシャナ人だと。

 幼い頃の記憶が無いエン・レイには、何故イシャナ人の自分がセァクの姫になったのか――そもそもどうやってセァク皇都にたどり着いたのか、全くわからない。

 考えようとすれば、やはりちりちりと頭の奥が痛んで思考を邪魔する。記憶の底の前王はいつも分厚い布一枚を隔てた向こう側にいて、指がかする事すらかなわない。

 だが前王は、真の思惑はともかく、セァクもイシャナも関係無しに自分を救ってくれた。大恩ある前王のように、自分も人を救える存在でありたい。その一心は揺るぎ無い。

 セァクの人々が幸いであるように。その為にも、自分は死ぬ訳にはいかない。生きてイシャナ王都へたどり着かねばならない。

 決意を持ってランプの火を消しベッドに滑り込む。しかしまだ緊張が解けていないのか、身体は重たい疲労を抱えているのに頭の芯は妙に冴えていて、闇の中でもしっかり目を開いてしまった。

 考えすぎたせいか喉がいがいがし始めた。水をもらいに行こうと、手探りで再びランプをつける。そのランプを片手で持ち、エン・レイは部屋を出て階下へ降りて行った。

 食堂にはまだ薄く灯りがついていた。遊撃隊の皆ももうそれぞれの部屋へ引き上げたはずだ。それともまだ誰かがいるのだろうか。こそっとのぞきこむと、椅子にかけている紫のおだんご頭が見えた。

「アリーチェさん」

 親切な人間がいてくれた事に安堵の息を洩らしながら、エン・レイは声をかける。

「すみません、喉が渇いてしまって。お水をいただけませんか」

 しかしアリーチェからは沈黙しか返ってこない。居眠りでもしているのだろうか。

「あの、アリーチェさん?」

 首を傾げながら一歩を踏み出す。すると、ぴちゃりと水音が靴に触れた。

 不吉な予感が背中を這い上がって来る。ランプを掲げてのろのろと足元を見下ろした次の瞬間、悲鳴を必死に呑み込んだ。

 真紅の液体が床一面にまだら模様を描いている。出所をゆっくりと目で追って、その目を驚愕に見開いた。

 赤の道は椅子にもたれかかったアリーチェまで繋がっていた。その首ががくんと折れる。それを合図にしたかのように暗がりから数人の影が飛び出して来た。

 急速に迫る殺気にアルテアを練る暇も無い。ランプの灯りを受けた剣呑な刃が鈍く光って迫り来るのを、エン・レイは他人事のように見つめていた。

「ぼやぼやするな!」

 叱咤の声が鼓膜を叩いて、はっと我に返る。それと同時、闇からの襲撃者ががくりと膝を折ってその場に崩れ落ちた。

 闇より尚暗い艶やかな黒。インシオンが三つ編みを揺らして透明な刃の剣を振るい、襲撃者を次々斬り倒してゆく。

「ハッハー!」やたら楽しそうなシャンメルが新たに加わった。

「インシオン、全員殺っちゃっていいよね?」

「好きにしろ」

 目の前の敵と斬り結びながらインシオンがそっけなく返す。

「りょーかーい!」

 シャンメルは新しい玩具をもらった子供のように目を輝かせて飛び出し、いきなり眼前に迫られて怯んだ敵を一撃のもとに斬り捨てた。

「エン・レイさん、大丈夫ですか」

 一歩よろけたところに肩を抱え込まれ、ぎょっとして手を振り払う。しかし相手の顔を見て、敵ではなかったと安堵の息を洩らした。

「ソキウスさん……」

「こちらへ」

 ソキウスは眼鏡の奥の灰色の目を真剣に細めると、食堂の外へとエン・レイを促す。しかしエン・レイはよろめきながら、血の流れる床へ踏み出そうとした。

「アリーチェさんを手当てしないと」

 そう、自分のアルテアを使えば怪我など一瞬で治せるはず。しかしソキウスはエン・レイの肩を強く引き寄せると、唇を真一文字に結び首を横に振った。

「エン・レイさん。確かにあなたにはそういう力があるでしょう。しかし、死者を呼び戻す事はかないません」

 死者。アリーチェはぐったりして動かない。その身体にもう魂が宿っていない事は一目瞭然なのに、エン・レイの脳はそれを認める事を拒んだのだ。

 更に続けられた言葉は、鋭い刃となって心をえぐった。

「それはいくらアルテアの巫女でも許されない、神への冒涜です」

 横っ面をはたかれた気分だった。ただ、自分に親切にしてくれた人を助けたいだけなのに、それが摂理に反する行為だと言われた。

 セァクではエン・レイがアルテアを行使する事に対して、賛辞を送る者こそあれど、否定の声をかける存在は無かった。衝撃のあまり棒立ちになっていると。

「終わったか」

「こっちはねー」

 インシオンが平然とした様子でシャンメルに声をかけていた。見れば、ランプを掲げたリリムもいつの間にかいて、その灯りに照らされる限りでも六人の襲撃者が倒れていた。

「周辺に破獣の気配も無いわ」

 リリムが淡々と喋るのもろくに耳に入らないまま、エン・レイは倒れている者達の格好を見て身をすくませた。

 金の装飾を施した白の鎧兜。祖神祭で目にしたばかりだ。

「イシャナ兵……!?」

 イシャナの兵がイシャナ軍の同胞であるインシオン遊撃隊を襲撃するとはどういう事だろうか。エン・レイは混乱したが。

「違う。見ろ」

 インシオンが短く吐き捨てて、足元の死体の兜を蹴る。あらわになった襲撃者の素顔を見て、エン・レイは更に驚愕する羽目になった。かっと目を見開いたまま事切れているその男は、褐色の肌に尖った耳を持っていたのだ。

「何故セァクが」

「考えも及ばねえのか、言葉を操る魔女のくせに」

 インシオンに呆れた様子で返されて、ぐうの音も出ない。

「インシオン、そんなに冷たく当たる必要も無いでしょう」

 ソキウスが眉間に皺を寄せて言い、「エン・レイさん」とこちらの肩を優しく叩いた。

「我々遊撃隊があなたをイシャナへ連れて行く役目を負った理由のひとつはこれですよ。あなたは命を狙われている」

 その言葉に、頭からざっと血の気が引き、心臓がめちゃくちゃな早鐘を打つ。

「どうしてですか」

 セァクの優しい人々の顔が、大好きなヒョウ・カ皇王の笑顔が脳裏に浮かぶ。彼らが自分の命を要らぬと言うのか。よって立つ場所が足元から崩れていくようだ。

「そりゃー簡単だよ」

 シャンメルがその場に屈み込み、剣についた血を死体の服で拭いながら、あっけらかんと答える。

「自分達の最終兵器が他の国に渡るくらいなら、その前に排除しちゃおうって思うじゃん」

 兵器。排除。まるで物のような言い方が、動揺した心を鋭く突き刺す。

「何かの間違いです」

「間違いでこんな事が起きるか、間抜けが」

 のろのろと首を横に振るエン・レイに向け、インシオンが冷たい視線を投げかけた。

「セァク王姉がイシャナに殺されたとなれば、セァクは報復に出る理由ができる。逆にセァクが仕込んだとばれれば、イシャナはセァクがこの結婚を意図的に壊したと突っかかる口実を得る。その先はどうなるか、十歳のガキでもわかるだろう」

「戦争……」

 エン・レイが幼い頃に終わったはずの悲劇が再び繰り返される。自分の命がとてつもない重責を担っている事を今更実感して、エン・レイはぞくりと身を震わせた。

「覚えておけ。お前の言動ひとつで、大陸が激変する。アリーチェ一人が死んだくらいじゃ済まない命が消える」

 死んだ。その言葉に再度、椅子にもたれかかったままの女性へ視線を向ける。

 アリーチェ。優しい笑みを向けてくれた。おいしいスープを作ってくれた。心休まる茶を淹れてくれた。そのおだんご頭はもう動かない。言葉を発する事も笑いかけてくれる事も無い。もっと話して親睦を深めたかったのに、それすらもうできない。

「この家はもう使えねえな。夜が明けたら移動する」

 エン・レイの傷心なぞ知らぬとばかりにインシオンが呟き、アリーチェを指差してソキウスに告げた。

「始末しとけ」

 そのあまりの冷淡さに、エン・レイは絶句してしまう。仲間が死んだというのにこの人は、涙ひとつ流さないどころか、「始末」などという単語で済ませてしまう。彼は本当に容易く死を告げる神なのだ。

 傍らのソキウスを見上げる。彼が口元を歪めている。その灰色の瞳には怒りとも侮蔑ともつかない暗い光が宿っていたような気がして、エン・レイはすくみあがる。だが次の瞬間にはその暗さは幻だったかのように消え、ソキウスはいつもの穏やかさを取り戻すと、無言で低頭した。

 エン・レイがインシオンに非難がましい視線を送っていると、気づいたのだろう。切れ長の目がふっとこちらを向いた。

「こういう事が嫌なら、生きろ」

 その剣さばきのように鋭い言葉が胸を突く。

「生きてイシャナ王都にたどり着いて、無事に王妃になれ。それがセァクとイシャナの戦を回避する唯一の方法だ」

 インシオンの言いようは相手を冷たく突き放す。しかしそこに込められたものは的確だ。

 まだ手は小刻みに震えている。それを拳を作る事でおさえ込むと、エン・レイはじっとインシオンを見返して言い切った。

「わかりました」

 インシオンの表情は相変わらずぴくりとも動かない。だが。

「……それでいい」

 背を向けながら小さく呟いた声は、確かにエン・レイの耳に届いたのだった。

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