第2章 黒の英雄との邂逅(3)
エン・レイが寝ていた部屋は、さほど広くない家屋の二階にあった。少年に言われた通り階段を降りて廊下を歩くと、話し声が聞こえて来る場所があったので、そこに踏み込む。
「お、似合うじゃーん」
先程の少年の明るい声を合図にし、彼を含めた五つの視線がエン・レイを出迎えた。
エン・レイをみとめた五人の内、少年がへらっと笑って手を振り、眼鏡をかけた白髪の男が柔らかく微笑んで、紫髪をおだんごにひっつめた女性も茶を淹れる手を止めて口元をゆるめる。しかしそこそこ友好的な反応をしてくれたのはそこまでで、小柄な少女は興味無さそうについと顔をそむけて栗毛を揺らす。そして黒ずくめの男――死神に見えたあの男だ――は、腕組みし長い足をテーブルの上に投げ出して、感情の読めない瞳でエン・レイをじっと睨みつけていた。
『アルテアの巫女』『セァクの姫君』に対して注目が集まる事にエン・レイは慣れている。しかし一人からこうも凝視される事には慣れていない。どぎまぎして入口で立ち止まっていると。
「まあとりあえず、座ったらー?」
少年がにこにこ顔で空いている席を指し示す。言われるままぎくしゃくと彼の隣に座り、ちらりとはす向かいをうかがうと、赤い視線はまだ自分を捉えたままだった。
落ち着かずにそわそわしているエン・レイの前に、ことりとスープ皿が置かれる。顔を上げると、おだんご頭の女性と目が合った。
「どうぞ。お腹がすいているでしょう?」
黒に近い灰色の瞳を細めて女性が笑みかける。
野菜と肉が惜しげ無く使われ、散りばめられたチーズの芳香が食欲を刺激する。空きっ腹はもう我慢できなかった。
「いただきます」
両手を合わせて頭を下げ、スプーンを手に取る。一口含むとたちまち、具材の旨味を充分に含んだえも言われぬ風味が口一杯に広がった。鶏肉も根菜も芋も申し分無く煮込まれていて、舌に乗せただけでとろりと溶けてゆく。セァクの皇城でもこんなに美味しいスープは味わった事が無かった。
だが、エン・レイの心はスープで温まるどころか逆に冷える。セァクには無い味。セァクのものではない衣装。疑念は確信に変わってゆく。
暗い顔でそっとスプーンを置くと、再び皆がエン・レイを注視する。
「なに、美味くなかった? そんなはず無いんだけどなー」
「もしかして、お口に合わなかったかしら?」
少年が首を傾げ、女性がおろおろし始める。
「皆さんは」
それには応えずに、エン・レイは震える声を絞り出した。
「イシャナですか」
その場にしんと沈黙が落ちる。
「私の素性を知った上で誘拐しましたか」
少年がぱちくりまばたきした後、「あー、そういうこと」とにやりと八重歯を見せた。
「そうそう。オレ達イシャナの盗賊団。あんたをさらって一攫千金をへぶっ」
ぺらぺら喋っていた少年の顔に向かいから蹴りが入る。
「適当な嘘を言うんじゃねえよ」
「へへ、ごめんなふぁい」
死神が低くすごむと、彼の靴底を顔にめり込ませたまま少年が詫びる。しかしその声音に反省の色はどうにも感じられなかった。
「すみません、彼がふざけてしまって」
エン・レイが唖然としていると、眼鏡の青年が苦笑しながら声をかけてくる。
「改めて名乗ります。私達はイシャナ王国軍第三師団所属特殊分隊。通称インシオン遊撃隊です」
極悪人集団だと思っていたのに、正規の軍人だったのか。驚きでエン・レイは応えるべき言葉を失ってしまう。だが驚愕の原因はそれだけではない。
フェルム大陸にインシオンの名を知らない人間はいないと言っても過言ではない。イシャナ軍の中では最も多く国内の破獣を狩っている。ひとたび戦場に出れば一切慈悲の無い剣さばきで敵を斬り捨て、破獣によって集落に被害が出ても気にとめず敵を殲滅するまで執拗に追うという。その冷酷な戦いぶりと常に黒い服をまとっている容姿から、古代の東方語で『
その死神が、今目の前にいる。身体が急速に冷え、いやな汗が背中を伝った。
「おい、能書きはいい。お前も端的に答えろ」
エン・レイの視線に気づいたか、インシオンが眉根を寄せてこちらに声をかけてきた。
「お前、『アルテアの魔女』か」
心臓がぎゅっとわしづかみにされた気分だった。セァクの姫だとばれていたからだけではない。
『魔女』
その言葉が
「わ、私は」
「端的に答えろと言っただろう」
しどろもどろになるエン・レイに死神はちっと舌打ちを投げかけて、足をテーブルから引くと、その足で椅子を蹴って跳ね上がる。あっと言う間も無く彼はテーブル上に立って腰に帯びた剣を鞘から抜いていた。
咄嗟に眼前へ掲げた手を透明な刃がかすめる。掌に熱が走り、血が流れ出した。
「直接身体に訊いた方が早いみたいだな」
死神が再び剣を振り下ろして来る。本能による反射で、エン・レイは言の葉の石に唇をつけて叫んでいた。
『敵意から守る氷の障壁を!』
決して触れる事のできない虹色の蝶が青く光ってエン・レイの周囲を舞い、氷の壁となって、振り下ろされた剣を受け止めた。きん、と甲高い音を立てて刃を跳ね返した氷壁は、役目を終えると再び蝶になって溶けるように四散する。
「やっぱりな」
インシオンが目を細めて剣を引き、テーブルから軽やかに飛び降りると、肩越しに冷ややかな視線を投げかけた。
「まあそもそも、イシャナ人と同じ姿の娘がセァクにいる。それが魔女以外の誰を指すかって話だな」
「同じ……姿?」
「あれ、気づいてない? セァクの中で育ったから?」
少年が興味津々といった様子でエン・レイの顔をのぞきこんで来た。
「君、どう見たってセァク人じゃないじゃん。肌は褐色じゃないし耳も尖ってないしー」
エン・レイはばっと自分の耳をおさえた。知っている。自分の外見はセァクの民である特徴を持ってはいない。しかしそれは単にセァクではないというだけで、イシャナである証ではないと信じていた――いや、信じたかっただけなのだ。
「アルテアの魔女は裏切り者だ、なんていう奴もいるけど、あながち方便でもなかったのかもねー」
裏切り者。けたけた笑って言い放つ少年の言葉が胸に刺さる。
「私は」震える声を絞り出す。「セァクです。ヒョウ・カ皇王の姉です。たとえ姿がイシャナでも、心はセァクの」
「精神論はどうでもいいんだよ、今は」
エン・レイの必死の弁明をインシオンが切って捨てた。
「お前がエン・レイであるなら俺達はそれでいいんだ」
それだけ言い残してどかりと椅子に座り込み、腕組みして黙り込んでしまったので、エン・レイはインシオンの言葉の意味をはかりかねて狼狽えてしまう。
「我々は元々、ハリティンからあなたを護衛する予定だったのですよ」
見るに見かねたか、眼鏡の青年が助け舟を出してくれた。
「予定時刻にそちらが合流場所に到着しなかったので、何かあったと思い向かったら案の定、破獣でした」
ハリティンからあの街道まではそれなりに離れている。「何かあったと思い向かう」で簡単に着く距離ではない。また、盗賊などではなく破獣と推測する事ができたのは何故だ。わからない事だらけだったが、「まあ、今はそれは良いでしょう」と青年が流してしまった。
「ここはまだハリティンから離れた国境付近の小屋です。我々遊撃隊は各地を回るので、こうして待機場をあちこちに隠し持っているのです」
そうして青年がにこりと微笑みかける。見る者を安心させる温かい笑みだった。
「ここから先、イシャナ王都に着くまで、セァク兵の皆さんの分も我々があなたを護衛いたします」
たった五人で大丈夫なのだろうか。不安な思いが顔に出てしまったらしい。インシオンが半眼になって吐き捨てた。
「嫌なら一人で王都まで行け。お姫様一人で行ける距離じゃねえぞ。もしくはセァクに帰れ。いずれにしろお前の身勝手な行動でこの婚姻は破談、イシャナとセァクの関係は悪化するがな」
どぎつい言葉の攻撃に、エン・レイは口を開く事もできなかった。皇族である以上簡単に逃げるなどできない事くらいわかっている。それを敢えて逃げ道を塞ぐ言い方をするなど、この男は本当に情け容赦無い死神だ。
「そうそう、だから大人しく守られてくれてると嬉しいな。まあほんっとうにダメな時は、オレ達も死ぬ時だからさー」
「恐怖を与える事ばかり言うものではないですよ、インシオンもシャンメルも」
少年がへらっと笑って追い打ちをかけるのを、青年がやんわりと諭す。シャンメルと呼ばれた少年はぷくりと頬をふくらませたが、青年はそれには取り合わず仲間達を見渡した。
「しばらく道を共にする同士ですからね。ご紹介しておきましょう。この小うるさいのがシャンメル。根暗っぽいのがリリム。抜けているように見えるのがアリーチェです」
「うっわ出た、ソキウスの毒舌」
「一言多いのよ」
「まあ、ソキウスは私をそんな風に思っていたのですね」
少年がのけぞり、少女がじとりと睨んで、女性が呑気な笑みをたたえる。優しいだけかと思ったのにこの言い様は、やはり死神の仲間は一筋縄ではいかないのか。エン・レイはソキウスと呼ばれた青年に対する認識を少々改める事にした。
「まあ、隊長がインシオンですから、それについていく人間はそれなりの腕です。シャンメルは年若いながらもかなりの戦闘力ですし、リリムは
「何それ褒めてんのバカにしてんの、どっちー?」
シャンメルが膝を叩いてけらけら笑う。
「あの」
エン・レイは疑問に思ってソキウスに声をかけた。
「ソキウスさんも強いのですか」
「『さん』は要りませんよ。我々の事は気軽に呼び捨てしてください」
眼鏡のずれを指で直しながら、ソキウスはふふっと笑みを洩らす。
「私は頭脳戦や交渉事の担当です。戦いはからきしですね」
「そうそう。このよく回る舌で相手を脅すのがお仕事って訳」
「何か言いましたか、シャンメル?」
「べっつにー」
茶々を入れたシャンメルの方をソキウスが向くと、少年は一瞬怯んだ表情を見せた後、口笛を吹きながら明後日の方向に視線を馳せた。ソキウスがどういう顔をしていたのか、エン・レイから見る事はできなかったので、何故シャンメルがおびえたのかわからない。
「とにかく、しばらくは慣れないでしょうけど、悪い人達ではありませんから」
アリーチェが柔らかい微笑みを向けながらエン・レイの前からスープ皿を片づけ、乳白色の飲み物が湯気を立てているカップをことりと置く。カップを両手で包み込んで持ち口に含めば、ミルクに浸けた林檎のような香りが口の中に満ち、温かい感触が喉を滑り落ちていった。
インシオンは悪魔みたいだし、リリムはそっけなく、シャンメルは笑顔で恐い事ばかり言う。しかしソキウスとアリーチェは比較的優しい。この二人に頼っていれば、イシャナ王都への道程も恐ろしいものではなくなりそうだ。
甘やかな茶は、エン・レイのざわつく心を少しずつ静めていってくれた。
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