第2章 黒の英雄との邂逅(2)

 闇の中で、少女が一人泣いている。

 あれは自分だ。そう認識すると、己の意識はその少女の視界と重なり合った。だが、何故泣いているのか理解する事ができない。悲しいのか、悔しいのか、恐いのか、怒りにとらわれているのか。少女の感情は曇り硝子の向こう側に存在するかのように、手が届きそうで届かない。

 そんな少女の頭に、優しく触れる手があった。

 顔を上げる。大きな手の持ち主が目の前に立っている。逆光でその顔は見えない。それでも、少女は涙を止め、次第次第に笑みの花をほころばせると、相手を呼んだ。


「     」


 声に出した途端、意識が急速に現実に引き戻された。

 エン・レイはぱちぱちとまばたきをし、それから、自分がベッドの上に寝かされている事を自覚した。のろのろ身を起こし、頭をおさえる。

(……誰を呼んだの?)

 自分で呼んだのに誰を指したのかわからない。何かひどく胸を締めつけられる夢を見ていた気もするのだが。考えようとすると頭の奥がちりちりと痛んで思考の邪魔をする。やがてエン・レイが思い出すのを諦めると、痛みは夢の記憶と共に霧散していった。

 ぐるりと辺りを見渡してみる。見覚えの無い場所だった。どこかの家屋の中だろうか。簡素な木造の部屋には、ベッドと椅子と小さいテーブル、そして姿見。最低限の家具しか無い。窓から見える空は、エン・レイの髪と同じ夕暮れ色をしていた。

「あ、起きた?」

 緊張感の欠片も無い呑気な声が耳に届いて、エン・レイはそちらに顔を向ける。萌葱色の短髪に青灰色の瞳を持つ少年が部屋の扉を開いて顔をのぞかせていた。歳はエン・レイとほとんど変わらないだろう。

 見覚えの無い顔に首を傾げ、それからその声に聞き覚えがあって、エン・レイはびくりと身をすくませる。「全殺し」と言い放ったあの声だ。

「もう起きないかと思ったよー」

 エン・レイのおびえなどどこ吹く風で、少年が部屋に入って来る。勝手にベッドの脇へ椅子を引いて来ると、ひらりと座り込み、歯を見せて快活に笑った。

「どうせならあの場にいた連中と一緒に埋葬しちゃえばーってオレは言ったんだけどさ、やめとけって言われたから連れて来ちゃった」

 何だか笑顔でけろりと恐ろしい事を言ってのけた気がする。激しい動悸を自覚しながらエン・レイは少年に訊ねた。

「あの、埋葬という事は、あの場にいた方々は」

「うん、死んだよ。君以外全員ね」

 少しの憐れみも見せずに少年は満面の笑みでうなずく。エン・レイの身体が抑えようも無く震え出す。毛布を握る手が冗談のように笑った。

 皆死んだのか。あの善良な若者も、自分を守ってくれていたセァクの兵は、皆。

「まあ今はそんな事、どうでもいいじゃん?」

 どうでもいいとは何事か。罪悪感が欠落しているかのようにひらひら手を振る少年を睨みつける。しかし相手にはエン・レイの眼力など虫に刺された程度の痛みにもならないらしい。

「せっかく生きてるんだから、ご飯くらい食べなよ。お腹空いてるでしょ?」

 こちらの動揺など歯牙にもかけない調子で、少年はぽんぽんとまくし立てる。

「アリーチェが作るスープは絶品だよ。鶏の脚ぶっ込んでだしを取ってるから、そこいらの食堂の具が少ない安っちいスープよりよっぽど美味いし」

 食べ物の話につられたか、エン・レイの腹がぐうと音を立てた。人前で腹の虫を鳴かせるなど、セァクの姫としてあるまじき行為だ。赤くなって慌てて両手で腹をおさえると、少年はけらけらと笑い、そして低く囁いた。

「まあ、人生最後の食事になるかもしれないんだからさ、よーく味わって食べなよ」

 ぎょっとして青灰色の瞳を見つめると、そこには深淵へ引きずり込んで離さない暗さが宿っている。しかしエン・レイが身をすくませると、少年の瞳から昏い熾火は立ち消え、からかいの色が代わりに浮かんだ。

「そこに新しい服を置いてあるから、着替えたら下に降りておいで」

 少年はテーブルの上にたたまれた服を指さすと、「じゃあねー」と軽く手を振って部屋を出てゆく。エン・レイは動悸がおさまるまで胸をおさえてベッドの上から動けなかった。

 そうだ。彼らは「全殺し」の一団なのだ。それを忘れていた。自分を生かしたという事は、セァクの姫だとわかっていて誘拐したに違いない。

 これからどうなるのだろう。空っぽの腹の底から不安が湧いて来て、指先までちりちりとしたしびれとなって染み渡ってゆく。

 助けてくれる味方は誰もいない。ならば、自分一人で戦うしか無い。幸い自分には切り札があるのだ。それで乗り切るしか無いだろう。

 戦う前にまず腹ごしらえをしなくては。今は素直に少年の言葉に従って行動すべきだと思い、エン・レイはベッドから降り、テーブルに向かった。

 手にして広げてみた服は、前で襟を合わせるセァクのものとは明らかに違った。肌着は上からかぶり、上着はオレンジ色のジャケットとひらひらしたスカートに分かれていて、腰紐ではなくベルトで留める仕様。脚も膝上の靴下を履いてからブーツをまとうものだった。

 着慣れない服の上、いつもは侍女達が着替えを手伝ってくれていた。一人でかなりもたついたが、セァク式の衣と袴を脱ぎ、何とか新しい服を着終える。テーブルにひっそりと置かれていた言の葉の石を手に取り、ほうと息をつく。立ち向かう手段を奪われずに済んだのは、不幸中の幸いだ。

 姿見の前で一回転して、おかしな点が無いか確認する。初めて身に着ける衣装なのだから、おかしい点があるかどうかもよくわからないが。

 髪をまとめようとして、普段使っていた鈴のついた紐が無い事に気づく。辺りを見渡し、テーブルの下をのぞいたり毛布をはいでみたりしたが、どこか別の場所でほどけて落ちたのか、見当たらなかった。長年使って来たお気に入りだったのだが、どうやら諦めるしか無さそうだ。

 エン・レイはひとつ溜息をつくと、扉に手をかける。

 これからは自分一人の戦いだ。意を決して扉を開いた。

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