第2章 黒の英雄との邂逅(1)

 馬車はごとごと音を立てて、暮れなずむ道に轍を刻んでいた。

 この婚姻に、イシャナはセァク側に対して、最小限の準備と警護で国境の街ハリティンまで来る事を要求した。エン・レイ姫の為に必要な諸々はこちらで用意する故、身ひとつで来る事。セァク兵の警護は国境までで、イシャナ国内ではイシャナ軍の兵が護衛にあたる事。ダーレン少将はそれらを告げ帰って行った。それゆえ、一国の王姉の婚礼団としては実にもの寂しい行列となっている。

 ハリティンまでの道は、イシャナとセァクを結ぶ街道として、数十年前に整備された。国家間の緊張は続いていたが、商魂逞しい商人達は取引相手が増えた事を素直に喜び、金銀宝石や絹や酒などが行き交った。

 商人達はセァク通貨とイシャナ通貨だけでなく独自の貨幣リドを作る事で大陸の経済を握り、一定の権力をも得た。かつては軍人か文官しかいなかった国家の重臣に商家あがりの人間が介入して発言力を増したのは、この為である。

 ――という話を、向かいに座る護衛兵が、長い道中の退屈しのぎになるようにと語ってくれたのだが、当のエン・レイはぼんやりと、窓に映る己の浮かない顔を眺めていた。

「姫様?」

 不安そうに声をかけられた事で、エン・レイははっと現実に立ち返る。

「申し訳ございません。つまらない話だったでしょうか」

 エン・レイより少しばかり年かさだろう若い兵は、姫の機嫌を損ねたのではないかと恐縮していたのだ。

「言葉を操る巫女である姫様に私ごときが無駄話など、差し出がましい真似をいたしました」

「いいえ」

 咄嗟にぶるぶる首を横に振る。

「とても興味深いお話でした」

 実際のところ、何を言われたか再現してみろと言われたら忠実になぞれる自信は無い。だが姫に肯定で返された事は、ひとまずこの若者に安心感を与えたようだ。「良かった」と控えめな笑みがこぼれ落ちる。

「エン・レイ様は本当にお優しいお方です。私のような者にもお気を遣ってくださるなんて」

 額に拳を当てるセァク式の敬礼をしながら彼が頬を赤く染める。紅潮の深い意味に気づかず、単純に照れているのだろうとエン・レイが解釈してほのかに微笑んでみせた時。

 がくん、と馬車が急停止した。揺さぶられたエン・レイが前につんのめり、兵が慌てて支える。

「すみません」

「いえ。何かあったのでしょうか」

 詫びながら身を起こすエン・レイに、兵が先程以上に赤くなりながら返して、その照れをごまかすように外に向けて声を張り上げた。

「何があった!?」

 しかし御者台からの返事は無い。それどころか、気づけば周囲を護衛しているはずの騎馬兵の蹄の音も聞こえなくなっていた。外はもう暗くて、どうなっているのか馬車の中からではわからない。

「見てまいります。姫様はこのままに」

 神妙な顔つきになった兵が言い置き、馬車の扉を開けて出てゆく。用心を込めて扉はきちんと閉められ、中にはエン・レイ一人が残された。

 道にあった大きな石が車輪に引っ掛かりでもしたのだろうか。皆、それをどかす為に止まって手伝っているのかもしれない。

 そんな楽観的な考えは、いきなり耳に響いた悲鳴により中断させられた。今の声は、あの兵のものだ。

 心臓がばくばくと脈打ち始める。この扉の向こうで何が起きているのだろうか。扉に手を伸ばしかけて躊躇ったが、知りたいという誘惑は知りたくないという恐怖を上回った。

 そっと扉を開いた瞬間、エン・レイの鼻にむせかえるような鉄錆のにおいが満ちた。ねっとりとまとわりつくような嫌悪感を煽るこれは、血のにおい。唖然としながら外へ踏み出したエン・レイの足に、ぐんにゃりとした何かが触れる。視線を下ろし、エン・レイは身をすくませかろうじて悲鳴を呑み込んだ。

 かっとまなこを見開き口を歪めてあおのけに倒れている若き兵。さっきまで語っていた彼が倒れて動かない。肩から胸にかけて何か鋭いもので大きく引き裂かれ、赤い血が地面をじっとりと染めてゆく。エン・レイは彼が既に事切れているのを悟った。

 寒さ以外の理由で身体が震え出す。なんとか首を巡らせ周囲を見渡して、更に息を呑んだ。

 兵だけではなかった。御者も、周りにいた騎馬兵もその馬も、血を流して地に倒れ伏している。そのことごとくが鋭い何かに傷つけられた跡があり、中には半身がごっそり削り取られたように失われている死体もあった。

 人は恐怖が度を過ぎると混乱する事も忘れてしまうのだろうか。身体の震えは増したが頭の芯だけはやけに冷静だった。この闇の中に何かが潜んでいる。強靭を誇るセァクの兵を、短時間でこれだけ残酷に葬った何かが。

 ひゅうひゅう繰り返される自分の息遣いだけがやけに大きく耳に届く。

「誰か」

 静寂に耐え切れなくなって声をあげた時、背後に急接近する殺気にエン・レイは咄嗟に振り向こうとして、足をもつれさせ尻餅をつく。それが逆に助けとなった。黒く太い腕が、最前までエン・レイの頭があった場所を薙いでいったのだ。そのままぼうっと突っ立っていたら、周りの兵と同じ運命をたどっていただろう。いきなり身近に迫った死の気配に、ぞわりと総毛立った。

 青白い月光に脅威の姿が照らし出される。それは黒い獣の姿をしていた。獣と言っても四つ足で立つ訳ではなく立派な毛並みを持ってもいない。人に果てしなく近いが決して人ではない姿。人間の大人より二回りほど大きい体躯。鋭い爪を有した不自然に長い四肢。とがった耳まで裂けた口にはぞろりと並ぶ牙。ぎょろりとした金色の眼。頭から歪に生える二本の角。悠然と揺れる尻尾。そして背中には蝙蝠のような一対の翼がある。

 祖神祭で相対した舞い手の変装などではない。本物の破獣カイダだった。

 何故ここに破獣が。まずそれを考えて、理由などどうでも良いと気づく。どうにかここから逃げなくては。そう考えて更に、だがもしかしたらまだ息のある兵がいるかもしれない、と思った。生きているならセァクの姫として彼らを見捨てられない。助けなくては。

 エン・レイは逡巡し、それが彼女に逃げる時間を失わせる結果を招いた。

 人間が思考する間など考慮してくれるはずも無い破獣が再び腕を振り払う。爪で引き裂かれる事は免れたが、ごつ、と鈍い音がしてエン・レイの身体は地を転がった。打たれた頭が痛い。視界にちかちか星が舞い踊っている。衣服はもう土で汚れただろう。

 獲物が立ち上がれない事を確信してか、破獣がゆっくりと歩み寄って来る気配がする。しゅうしゅうと獰猛な息遣いがやけに大きく聞こえる。

 このままでは死ぬ。その感覚が闇のびろうどとなってエン・レイに覆いかぶさってきた。

 死ぬのだろうか。こんな誰も知らない場所で破獣にこの身を食い尽くされて。ヒョウ・カを置いて、セァクの民の幸せを見届ける事も叶わぬままに。

 死にたくない。痛いのも苦しいのも嫌だが、大切な人々を残してこんな所で息絶える事の方がもっと恐ろしい。悔しさで目尻に涙の粒が浮かび上がる。

(私は、死にたくない)

 声ではなく心で、エン・レイは願った。力強く握り締めた拳が土をつかむ。

 その願いが言霊となって創造の女神ゼムレアの御許へ届いたのだろうか。ぎゃあっと断末魔の悲鳴をあげて破獣が動きを止め、崩れ落ちたかと思うと、その身が霧のように四散したのである。

 何が起きたのか理解しかねて、エン・レイは呆然と破獣のいた場所を見つめる。その後ろに剣を振り抜いた体勢のまま立つ影に気づいて、彼女はそれを凝視してしまった。

 セァクの伝承に残る、人に生命の終わりを告げ彼岸へ連れてゆくという死神が、そこに降臨したのかと思った。闇よりなお黒い漆黒の衣装は、エン・レイを迎えに来たかのよう。ゆるく編んだ三つ編みが月光を受けて冴え冴えとした蒼に光る。手にした剣はいかなる鉱物で作られているのか曇りの一切無い透明な刃を持っていて、それも月光を帯びてほのかに青い光を放っていた。

 切れ長の目がぎろりとエン・レイを見下ろす。その色は見る者を捉えて離さない血の赤。とても整った顔をしているが決して女性的ではない。男である事を捨てていない美しさである。エン・レイの心臓は、恐怖とは別の何かで再び鼓動を速くした。

「シャンメル、リリム。片付いたか」

 死神がふっとエン・レイから視線を逸らして誰かに呼びかける。もっと見つめていて欲しかった、と思う自分がいる事にエン・レイが戸惑っている間に、闇の向こうから声が聞こえて来た。

「うん、もうバッチリ全殺しにしたよー!」

「増援の気配無し」

 やたら軽妙な調子でさらりと恐ろしい事を言ってのける少年の声と、やたら淡々と紡がれる少女の声だった。だがエン・レイは「全殺し」の一言に思考の全てを持って行かれた。

 この男達が殺したのだろうか、セァクの兵を。

 自分を襲った破獣をこの死神が屠った事実も忘れ、エン・レイはただひたすらにそれを考え、がくがく震える。やがて湧き上がる怒りが恐怖を上回った。

「……さない」

 低く呟く声に死神が怪訝そうな顔をして振り返る。その悪びれない様子が、エン・レイの中の激情の炎を更に煽った。

「許さない!」

 飛び上がるように跳ね起きて、己の胸元に揺れる言の葉の石へ触れ、エン・レイは言葉を放った。

『氷の槍よ、敵に報いを』

 虹色の蝶が生まれ青く輝いたかと思うと、怒りの感情を包括した冷たい槍が生じて、死神に向けて襲いかかる。何も知らない人間なら、エン・レイのこの力を見ればまず狼狽えるだろう。

 しかし死神は驚く事も慌てる事もしなかった。ちっと舌打ちして、透明な刃を一閃。エン・レイの攻撃を叩き落としたのである。

 アルテアをかわすのでなく対処した人間は初めてだった。エン・レイは驚愕のあまり呆然としてしまう。そこにひゅっと風を切って死神が距離を詰めて来た。接吻できそうな距離に異性が不意打ちで近づいて来た事に、思い切り悲鳴をあげそうになる。

「ここで説明するのは面倒だ」

 血色の瞳でエン・レイをまっすぐ捉えながら、男が気だるげに吐き捨てた。

「今は寝てろ」

 やる気の無さそうな声色からは想像つかぬ速度で手刀が振り下ろされる。それは過たずエン・レイの首を打った。

 目眩の尾を引いてエン・レイの意識が遠ざかる。自分が地面にくずおれた事を知覚する前に、彼女は完全に気絶した。

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