第1章 セァクの祖神祭(3)

 セァク皇国とイシャナ王国。フェルム大陸にふたつしか存在しない国が戦を始めたのは、三百年の時を遡ると言われている。

 数百年の栄華を誇る大帝国であったセァクは、属領のひとつに過ぎなかったイシャナが一軍を結成し反旗を翻す事で、斜陽の時を迎えた。イシャナは肉食獣が獲物を食らうような勢いで周辺の小国を取り込み、帝国の戦力すら引きずり込んで削り、当時の帝都へ迫った。

 時の皇帝は擁する兵力を総動員してイシャナを迎え討った。しかし奮戦虚しく敗北を喫し、その首はイシャナ王の剣によって地に落ちた。

 イシャナ王は皇族の血に連なる者を片端から捕らえると、民の前で公開処刑した。大陸の勢力図は反転し、遂にイシャナが大陸の覇者となったのである。

 しかし唯一生き残ったセァク皇家の姫が一人いた。それが現皇国の始祖ライ・ジュである。ライ・ジュは数少ない兵に守られながら大陸を北上し、一面白銀の大地をセァクの新たな故郷となした。そして次第に、各地に散っていた褐色の肌持つ帝国民がライ・ジュ皇女を慕って集い、セァクは再興した。

 しかしそれを許さなかったのが、大陸の統治者となったイシャナであった。

『大陸を不当に支配し暗黒時代に陥れた邪の一族』

 セァクをそう断じ、邪悪を討つ聖戦と称して幾度も北の地へ攻め入ったのである。

 当初、戦力の差に、セァクは三月で滅びるだろうと誰もが目した。ところが世間の予想に反してセァクは健闘を見せる。雪に囲まれた新生セァクは、自然が味方をしたのである。

 草原しか駆けた事の無いイシャナの騎馬隊は、一年の多くを雪に覆われた慣れぬ地ではまともに機能しない。足を取られてもたついたところへ、木々の陰からセァク弓兵の渾身の矢が飛ぶ。地の利を活かして雪の中を走り回るセァク兵にイシャナ兵は翻弄され、撤退を余儀無くされた。

 以後、セァクとイシャナは版図を少しずつ広げたり狭めたりしながら、大陸の主導権を巡って、交戦と停戦を繰り返した。

 最前の休戦に持ち込まれたのは十三年前。両国国境付近のアイドゥールという街で、時のイシャナ国王とセァク皇王が直接対話に臨んだ時をきっかけにする。

 何があったのか正確に語れる者はいない。街は突然炎に包まれて滅び、その場にいた人間は王を含めてことごとく死亡して、証言できる者が一人もいない為、というのが通説だ。

 とにかくアイドゥールは炎の中に全てを消し去り、指導者を同時に失い疲弊したセァクとイシャナの間にひとまずの休戦という微妙な均衡を残した。


 湯につかり今日の疲れを落として糊の利いた衣に腕を通す。皇城の自室で一人、湯あがりの茶を飲んでいると、体験した全てが夢であったかのような気分になる。しかし実際には、この目と耳が見聞きしたあらゆる事象は現実で、それは今手にしている湯呑みのように確かなものである。喉を通ってしまえば熱さを忘れる茶ではない。

 前皇王に拾ってもらってセァクの姫になった。それがどういう意味を持つかを考えていなかったのかと問われると、決して素直には首肯できない自分がいる。

 先代は慈善や同情だけでエン・レイを救ったのではないのだ。いつか政治の道具として使い道があると見越していたのかもしれない。そしてそれは、エン・レイが有するこの『力』に由来していたのだろう。

 胸元の石を取り出して見る。『言の葉の石』と人々が呼ぶこの赤の塊を唇に当て、濁りの一切無い美しき言辞を紡ぐ事で、人知を超えた力を発動できる『アルテア』。それこそがエン・レイが大陸で唯一人保有する能力であり、彼女が巫女姫として崇められる最大の理由であった。

「姫様」

 細い指先で石をもてあそびながら物思いに耽っていると、侍女が扉を開け、恭しく頭を下げる。

「皇王陛下がおいででございます」

「お通ししてください」

 エン・レイが応えると侍女は深くうなずき引き下がる。

「姉上」

 彼女と入れ替わるようにヒョウ・カが入って来た。

「ごめんなさい、姉上。これから嫁ぐ女性のお部屋を訪ねるなど、王でも無礼という事は重々承知しています」

 まだ何も言われていないのに、既に叱られたかのように身をすぼめて、ヒョウ・カはおずおずとこちらの様子をうかがう。エン・レイは苦笑しながら湯呑みをテーブルに置き立ち上がると、弟の元へ歩み寄った。

「まったく。皇王ともあろうお方がそんな態度を他人に見せてはいけませんよ」

「でも」

 子供のように唇を尖らせるヒョウ・カは小さくて、本当に幼く見える。平均的な女性の身長を持っているエン・レイが少し見下ろすほどなのだから、同年齢の少年としても小柄なのだろう。

 だがいつかこの少年も青年になって背が伸びる。姉である自分を追い越すだろう。それをこの目で見届ける日が、こんな形で失われるとは思っていなかった。そう考えると喉につかえるものがある。エン・レイは感情の塊をぐっと呑み込んで、両腕を弟の細い肩に回すと、しっかりと抱き締めた。

「姉上」

 たちまちヒョウ・カが涙声になり、抱擁が返って来る。

「姉上。姉上がどこに行っても、姉上は僕の姉上です。ずっと大好きです。それは変わりません」

「ヒョウ・カ」

 ともすればつられて落涙しそうな思いを抑え込んで、エン・レイは大事に言の葉を紡いだ。

「私もあなたを愛しています。私の大切なヒョウ・カ。あなたの幸せの為に、私はイシャナへまいりましょう」

 姉弟は互いに、その温もりを永遠の思い出として覚えていようと、しっかりと抱き合った。


 暦の上では春だが、一年の多くを雪に覆われたセァクに実際の季節感はあまり無い。

 そんな白い春のある日、四頭立ての立派な箱馬車が皇城の門前に止まり、周囲で黒鎧の兵達がしっかりと守りを固める中、赤い衣をまとったエン・レイがゆっくりと城から出て来た。

「それでは、姫様」

 皇王であるヒョウ・カが直接見送りに来る事は無い。代わりに側近のソティラスが、相変わらず深々とかぶったローブの下で唇を引き結び、ゆっくりと低頭した。

「イシャナまでの旅のご無事を」

「陛下をよろしくお願いいたします、ソティラス」

 エン・レイも礼を返すと、「は」と低い返事が耳に届いた。

 金の鈴をしゃなりと鳴らしながら、皇城を見上げる。十年を暮らした場所。エン・レイの人生の思い出の全てがここに詰まっている。

 知らず知らずの内に潤みかけた目を、まばたきでごまかすと、彼女は凛と前を向き、しっかりとした足取りで馬車に乗り込んだ。

 王姉を乗せた馬車の一団は、レンハストの民が見守る中、ライ・ジュの通りを抜けて静かに出立する。祖神祭の盛り上がりとは裏腹に、まるで葬式のような沈黙に包まれた出発だった。

 民の誰もが思っていた。これは祝福すべき対等な婚姻ではない。敬愛する姫を人質としてイシャナという墓場に送る儀式なのだと。

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