第8章 憎しみを断ち切るアルテア(4)

 ごうごうと、風が耳元を過ぎてゆく音がする。耳鳴りが酷くてそれ以外聞こえない。息をするのも苦しくて、咳き込むと更に喉が詰まった。視線だけで確認すれば、両脇のシャンメルとリリムもかなり辛そうだ。

『安寧を』

 飛ばされないよう言の葉の石をしっかりとつかみ、唇につけて、何とかアルテアを紡ぎ出すと、周囲の風が落ち着く。それでエレ達はようやくまともに深呼吸をする事が出来た。

「さんきゅ」

 シャンメルがひとしきりむせた後に短く礼を言う。リリムもまだ口から息の出し入れをしていたが、呼吸を整えるとしゃんと前を向いた。

「ソキウスは、まっすぐイナトに向かってる」

『神の目』で破神となったソキウスを追っているのだ。

 復讐を望むソキウスならば、手始めにインシオンに近しい者を殺しにかかるだろう。それならば、レイ王が残っているはずのイナトだ。ソキウスの自我が残っていれば、の話であるが。

 だが少なくともインシオン自身は、竜になってもその意志を保っているようだ。一声いななき羽ばたくと、飛ぶ速度を上げた。

 何日もかけて通った道を、ほんの数十分で駆ける。やがて。

「いた!」

 リリムが叫ぶと同時、視界に黒い破神の姿が映り込む。インシオンが更に速度を上げるので、エレ達は振り落されないようにそのたてがみにしがみついた。


 その日、イナトの人々は見た。

 黒い巨大な怪物が天を覆い、破壊の炎が雨となって降り注ぐのを。文字通り降ってわいた死を、彼らは覚悟した。

 だが、死の巨人の手は彼らをつかむ事が無かった。

『広く、強く、生命を守れ』

 尊くすら聴こえる凛とした声が響いたかと思うと、虹色の蝶が辺りを舞い、白いヴェールのような光が王都全体を包み込んで、炎の嵐からことごとく守ったのである。

 救い主は一体誰か。声の主を探す民の間で、一人が空を指差して何かを叫ぶ。それにつられて空を仰いだ者は確かに見届けた。

 血濡れの花嫁衣装に身を包んで黒い竜の背に乗る、黄昏色の髪の乙女を。


「エレ、ナイス!」

「これでアイドゥールの二の舞にはならない」

 シャンメルが指を鳴らして快哉を叫び、リリムも微笑む。しかし実のところ、エレは二人に応えるどころではない状態だった。王都全体という広範囲に守りの衣を広げつつ、自分達の環境も維持して、インシオンをソキウスに突っ込ませなくてはならない。気を回す事が多すぎて、今にも己を見失いそうだった。

 だが、ここで意識を手放せば、死ぬのは自分一人ではない。まずシャンメルとリリムが破神の前に屈する。インシオンが墜ちる。大切な仲間を道連れにする。そしてイナトに住む全ての人々が、炎に焼かれるか新たな破獣と化すのだ。

(頼みます、インシオン)

 竜の背に突っ伏してエレは願う。

(ソキウスを止めて)

 胸中でのアルテアは伝わったのだろうか。インシオンがぐうんと速度を上げて破神に迫った。追い上げに気づいた破神が転進してこちらに向かって来る。その口がぐわりと開いて喉の奥から紅蓮の炎が吐き出された。

 インシオンが対抗するように吼えて、青白い炎を吐き出す。赤と青がぶつかり合い、爆発を呼び、火の玉がいくつか地上に向けて落ち、こちらにも飛んで来て脇をかすめた。

 アルテアで守られているので炎が肌を焼く事は無いが、それでもやはり原始的な本能は恐怖を告げる。心臓ががんがん騒ぎ、頭のてっぺんから爪先までがひどく痛い。

 それに気を取られた時、ずんと衝撃が訪れた。竜の身体に破神が噛みついたのだ。振り落されそうになって、三人は慌てて竜にしがみつき直す。

 もし破神に近い竜の血を破神が得たら、これ以上どうなるのか想像がつかない。エレは必死にアルテアを紡ごうと口を開きかけた。

 だがそこで誤算が起きた。ぱりぱりと噛み砕かれた竜の鱗がエレ目がけて飛んで来たのだ。反射的に掲げた手とそこに巻き付けていた細い鎖を、鱗の欠片が切り裂き、言の葉の石が弾かれて宙を舞う。つかみ直す猶予も無かった。エレの手を離れた赤い石は風にさらわれ、空に吸い込まれて見えなくなってしまった。

 アルテアの加護を受けられなくなり、虹色の蝶が弱々しく四散してゆく。防御手段が無くなったからという理由以外で、エレは息苦しくなり頭から血の気が引いた。

 このままでは皆が死ぬ。何も守れないまま全てを失ってしまう。何とかせねばと酸素の行き渡らない脳で必死に考えを巡らせるエレの目に留まったのは、鱗で切れて鮮血を流す己の手だった。

 思い出す。アイドゥールで初めてアルテアを使った時や、孤児院で傷を治した時。石の代わりに何を使ったかを。そして悟る。言の葉の石が何で作られていたかを。

「血……」

 そう。全ては破神の血を持つ者の血に助けられていたのだ。それならば、石に代わる意志の力は、ここにある。エレは傷口から流れ出る己の血で、唇を紅より赤く染めて宣誓した。

『皆を守る力を!』

 果たしてエレの願いに、アルテアは応えた。再び虹色の蝶が舞い躍り白い光として散らばって、イナトを守り、エレ達を守る。

 竜を包み込むように障壁が張られ、がん、と硬い音と共に牙が幾つか宙を舞って、破神が身を離す。それでも傷口がうずくのか、インシオンが不満げに唸った。

『痛みを癒せ』

 エレが囁くと、白い蝶が竜に吸い込まれ傷を塞ぐ。体勢を立て直した竜が再び破神に向かう中、エレはその背で立ち上がり、しっかりと破神を見すえた。

仲間ソキウスよ』

 アルテアで呼びかける。破神がびくりと頭を震わせたのは錯覚だろうか。

『あなたの憎しみを、今終わりにします』

 呼応するようにインシオンが吼えて、破神の首筋に食らいつく。

 掌の血は乾きかけていたが、頭はくらくらして酸素が届いていないのがよくわかる。これ以上血を失っては、本当に死ぬかもしれない。これまでの道程で何度も危険な目には遭って来たが、ここまで死を身近に意識したのは初めてだ。

 それでも。

 もう犠牲を出さないとヒカに誓ったインシオンの顔を思い出す。死に向かう覚悟だった彼に生きる事を強いた自分が、彼の誓いを壊す訳にはいかない。

 何人も犠牲にして来たのだ、偽善かもしれない。それでも、これ以上の死を望まない人がいるならば、自分の力は彼らの為に振るうべきなのだ。

 躊躇わずに傷口を歯で更にえぐり、唇を赤く染めると、エレは一際大きな声で宣誓した。

『皆、生きる!!』

 破神が完全に硬直した。

「シャンメル、リリム!」

 仲間達に声をかけると、目線を送らずとも彼らには通じた。シャンメルが破神の背に飛び移り、剣を突き立てる。悲鳴をあげてのけぞるその眉間に、リリムが透明な刃をしっかりと刺し込む。

 断末魔の悲鳴がイナト上空に響き渡り、大気をびりびりと震わせた。


 王都の人々は見た。

 黒い竜に敗れて、郊外に落下してゆく破神を。

 その姿は見る間に縮んで人間になったように見えたのだが、空中で竜が受け止めた為に、詳細な容姿まで確認する事がかなわなかった。

 そして黒い竜も、ある瞬間にふっと消えてしまったのだ。

 虹色の蝶の乱舞を残して。


 イナト郊外の草原に赤い花が咲いていた。

 横たわるソキウスは血塗れであったが、その傷はエレがアルテアを使うまでもなくほぼ塞がっていた。明らかに『神の血』を取り入れた影響だ。

 人の姿に戻ったインシオンが赤い瞳でそれを見下ろしている。エレ達は傍らで二人の様子を見守っていた。

「殺してください」

 虚ろな目を空に向けたまま、ソキウスがぽつりとこぼした。

「全てを失い、復讐する事も許されなかった私に、生きている意味などありませんよ」

 インシオンは冷淡に瞳を細めると、リリムから透明な刃を奪うように取り上げ、ソキウス目がけて振り下ろす。誰も止める事ができない、あっという間の行動だった。

 だが、破神殺しの剣が新たな血を呼ぶ事は無かった。刃はソキウスの真横の地面をえぐるばかりだったのである。

「やらねえよ」

 剣を引き抜いたインシオンがつまらなそうにうそぶき、鞘に納めながら背を向ける。

「生きる意味なんざてめえで考えろ、アリーチェの分までな」

 ソキウスが愕然と目を見開き、それから片手で目を覆って低く笑い出した。

「まったく。本当に腹の立つ人ですね、あなたは」

 その頬を幾筋もの涙が伝う。彼は泣きながら笑っていた。

 暮れなずむ夕日が、手首に光る銀色の腕輪を、破神の残り火のように赤く輝かせていた。

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