第8章 最後のアルテア(4)

 金色の花びらが舞い躍っている。太陽光を受ける無数のきらめきを視界に映しながら、エレはゆっくりと覚醒した。

 あれほど冷たく吹きすさびいていた風が止んでいる。降り注いだ雪空もどこかへ行ってしまい、抜けるような蒼穹が広がっていた。

「……エレ」

 震え声で呼びかける人物が誰なのか、しばらくわからなくて、ぼうっとしてしまう。しかし、目尻に涙をためる赤い瞳に気づいた瞬間、愛しい人の腕の中に抱かれているのだと、意識は明瞭になった。

「ったく、お前、本当にどこまで無茶苦茶しやがるんだよ」

 インシオンが泣くなんて初めて見た。珍しい獣を見つけたような気分でエレは苦笑し、それから、宙に向けて手を伸ばした。

 花びら一枚が、ふわりとエレの手元に舞い降りる。それは指先に触れると、りん、と鈴のような可憐な音を立てて弾け、光の粒子となって消えた。

「アルテアの花だ」

 空を見上げながら、インシオンが感慨深げに呟いた。

「お前の紡いだ最後のアルテアだ」

 彼が地上に視線を落とすので、一緒になって首を傾ける。地面に降りた雪も破神の血も全てが消え失せ、金色をした五枚花弁の花が辺り一面に咲き誇り、一足早い春めいた空気の中でゆらりゆらりとそよいでいた。

「『神の力』が消えたようです」

 声に振り向けば、ソキウスが傍らに膝をついて、神妙に告げる。

「私達の誰も、『神の力』を使えなくなりました。私はもう、破獣の声が聞こえません。勿論『手』も使えません」

「『目』が見えなくなったわ」

「オレももう走れないしー」

 リリムとシャンメルも後に続き、

「エレ、あなたのアルテアが全てを解放したのです」

 ミライが彼らより一歩離れ、決まり悪そうに目線を外しながら、その言葉を舌に乗せた。

「ありがとうございます」

 まさか自分を殺そうとしていた彼女に感謝されるとは思わなかった。面映ゆくてくしゃりと笑みを返す。

「……どうすればいいの」

 絶望にとらわれた声が耳に届いたのはその時だった。皆の輪から外れた所で、カナタが己の両手を見つめながら棒立ちになり、恐怖に打ち震えている。

「『神の力』が無くなったら、僕にはもう何も無い。エレの役にも立てない。どこにも行けない。何にもできない」

 かける言葉を見いだせずにエレが戸惑うと、耳元で舌打ちが聞こえた。見上げれば、インシオンがかつてエレによく見せていた、呆れ切った表情をしている。彼はエレを立たせて腕を離すと、ずかずかとカナタに歩み寄って行き、

「歯ぁ食いしばれ」

 と言うが早いか、少年の頬に手加減無しの拳を叩き込んだのである。本日三度目の殴打を食らい、くらくらしたのか、カナタが二、三歩よろめいて尻餅をついた。

「どいつもこいつも手間かけさせやがって。目え覚ませ」

 インシオンが鬱陶しそうに吐き捨て、しかし、カナタに向けて手を差し伸べる。

「お前が出来る事ならいくらでもあるだろ。お前らは騎馬帝国がいつどこで興って、どうやって攻めて来るか知ってる。ヒョウ・カを手伝って、そうなる前に相手をやり込めてみせろ。その為の頭も剣の腕も、お前には充分ある。足りねえと思うなら、死ぬ気で努力しろ。そして英雄になれ」

 カナタはぽかんとしてインシオンを見ていた。しかしある瞬間に開き直ったのか、皮肉気に口元を歪めながら、伸ばされた手を取る。

「いつか絶対あんたを超えてやる。英雄の名前もエレも、僕がもらう」

 インシオンが手を引いてカナタを立たせてやり、自分より少しだけ背の低い少年の頭を、拳で小突いた。

「俺だってまだ若いんだ。そうそう簡単に名前を譲ってやるつもりはねえぞ。ましてやエレは絶対渡さねえからな」

「うわーもうベタ惚れだね」

「聞いているこっちが恥ずかしいですね」

 シャンメルが耐え切れないとばかりに耳を塞ぎ、ソキウスがからりと笑う。リリムが赤くなって口元をおさえ、ミライもひそやかに微笑んだ。

「さて、お前ら。『神の力』が無くなった遊撃隊最初の大仕事だ」

 仲間達の反応もものともせず、平然とした様子でインシオンが振り返り、腰に手を当て宣告する。

「自力でこの山を降りるぞ。ここまでしといて遭難して帰れなかったなんて、洒落になんねえからな」

 その言葉に誰もが我に返る。そう、ここはセァクの山奥。破獣や竜で飛んで来るのは一瞬だったが、人の足で下山し、イナトまで帰るには十数日を要するだろう。

 だが、悲愴感は無かった。誰も彼もが吹っ切れた清々しい表情をして笑っている。カナタだけが不服そうに唇を尖らせているが、その瞳から狂気はすっかり取り払われていた。

 皆を見渡してエレも笑みをほころばせる。黄金色の花は尚もこうべを揺らして、新しい世界を祝福する高らかな歌を奏でていた。

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