終章 未来の彼方へ

 年が明け、イシャナには春が例年より駆け足でやって来た。

 草原には若草が萌え、色とりどりの花が咲き乱れて、鳥達が新しい季節を謳歌する。凍っていた小川の水は融け、暖かい風が渡ってゆく。

 そんなうららかな春のある日、イナトの人々は一組の夫婦の誕生を祝し、幸せの声に満ち溢れていた。

 かねてより婚約関係にあった、セァクのヒョウ・カ皇王とイシャナのプリムラ姫の結婚。それと同時に、セァクとイシャナはひとつの国となり、『フェルム新生統一王国』の名を戴いたのである。

 仮首都になったイナト王宮内の大聖堂で、創造の女神ゼムレアの像を前にして愛の誓いを交わし、晴れて夫婦となったヒョウ・カとプリムラは、式の後、城のバルコニーから民衆の前に出た。新生王国の若き王と王妃の姿を一目見ようと詰めかけた人々は、二人が姿を現すと割れんばかりの歓声と拍手を送り、二人もにこやかに手を振って民に応えた。

 それから新王と王妃は四頭立ての馬車に乗って城下街を一周。一糸乱れぬ統率された音楽を奏でるイシャナの鼓笛隊と、きらきらしい衣装をなびかせるセァクの演舞隊が後に続き、両国の文化が見事なまでに混じり合って、行進を盛り上げた。

 民へのお披露目が終わって日が暮れると、二人は城に戻り、身内と選ばれた重臣や賓客だけでの宴が開かれた。そこにはヒョウ・カ王の姉エン・レイ姫と、イシャナの英雄インシオンの姿もあったのだが、宴もたけなわになった頃、二人はひっそりと会場から姿を消していたのである。


「お疲れみたいですね」

「宴会は嫌いだ。誰や彼やと話すのがめんどくせえ」

 星がまたたく夜空の下、あずまやの椅子に腰かけ、セァクの赤い衣姿のエレが笑いかけると、テーブルに足を投げ出した状態で、いつもの黒装束ではなく白い式典用のイシャナ兵服に身を包んだインシオンが、心底嫌そうに宙を仰いだ。

 最後のイシャナ王レイの好んだ庭には今、二人以外誰もいなかった。兵達も宴の警護と他の場所の見回りにかかりきりで、こんな所に王姉と英雄が宴を抜け出しているなどとは、思いもよらないだろう。

「だが、これからの事を考えると、そうも言ってられないだろうな」

 言葉の意味をはかりかねて小首を傾げると、インシオンはテーブルから足を下ろし、神妙な顔になってエレの方を向いた。

「西方と渡り合う為に、今まで蹴りまくってた昇進を受ける。遊撃隊みたいな小規模じゃねえ自分の部隊を持って、もっと大勢の命を預かる事になるし、お偉方と顔突き合わせて腹の探り合いもしないといけなくなるな」

 エレの心臓がどきりと脈打った。そう、『神の力』に頼らなくなり、イシャナ王家にも復籍しなかったインシオンは今後、自力で英雄の名を維持してゆくしかない。遊撃隊は既に解散となり、シャンメルとリリムは引き続きインシオンの部下として働くが、カナタはヒョウ・カ王の傍仕え騎士となり、ソキウスは恩赦と特命を受け、ミライと共に西方へ旅立った。

『罪を犯したと思うなら、それを償う為にどうすれば良いか自分で考えて、そして生き抜いて欲しい』

 罰するとも赦すとも明言しない。それが、ヒョウ・カがソキウスとカナタに下した言葉だった。

 かくして誰もがそれぞれの道をゆく事になった。将来に興るかもしれない騎馬帝国の話は、エレもイナトに帰還してから聞いたが、ソキウスとミライの西方行きについて、「なんであいつらが一緒なのか納得いかん」とインシオンがいつまでも不平をこぼしていたのが、理解に苦しんだものだ。

 インシオンはもう、名実ともに一軍人だ。王族の一員であるエレとこうして顔を合わせられる回数も減るだろう。下手をしたら、戦が起きれば彼は最前線へ行って、そのまま会えなくなるかもしれない。

 しかしエレの中には、それが嫌で、考えに考え抜いて、我ながら傑作だと思い至った一案があった。それを告げようとした時。

「それよりな、お前」

 インシオンが眉間に皺を寄せて見下ろして来た。

「最近気になってたが、さっきの宴会でもろくすっぽ食ってなかったろ。どこか具合悪いのか?」

 人に悟られないよう気をつけていたのだが、見抜かれていたのか。やはりこの人の目はごまかせないと思いながら、「ええと」と自分でもわからないとばかりに口元に手を当ててエレは答えた。

「食べ物のにおいをかぐと、気持ち悪くなってしまって……。ひどく身体がだるい時もありますし」

 今までの疲れが出たのでしょうか、と付け足しながら視線を向ければ、インシオンがぎょっと目を見開き固まっている。首を傾げると、彼は何かを言いかけて、喉がつかえたのか背を丸めて激しくむせ込んだ。一体何をそんなに驚いているのか。とんとんと背中を叩いてやると、ようよう立ち直ったインシオンが、果てしなく困り切った顔でこちらを向いた。

「お前、それ」

 そこまで言ったところで今度は頭を抱えてしまう。

「おい、間違えたぞ。完全に順番を間違えたぞ」

 彼が何をそんなに慌てているのかわからなくてきょとんとしていると、「お前、それな」とインシオンがエレの耳元に唇を寄せ、ぼそぼそと囁いた。それを聞いた途端、エレの顔も火を噴いたように真っ赤になる。

「……そうなんですか?」

「……そうだ」

 完全に硬直したエレの隣で、順番間違えた、間違えた、とインシオンは何度も繰り返しながらぐしゃぐしゃと両手で髪をかき回していたのだが。

「もういい。これをお前に渡す口実ができた」

 不意にエレの左手を取り、薬指に銀色の輝きを滑り込ませた。紅玉(ルビー)にとまる蝶を象った指輪。インシオンの瞳の色とエレの象徴だ。ここにはめられる指輪の意味を知らなくはない。エレが驚きで目をみはると、彼は照れ臭そうにはにかんだ。

「普通の言い方は俺達には似合わねえし、お前は対等じゃなきゃ気が済まないんだろ。アルテア式に言うとだな」


『俺は一生命をかけてお前を守る。お前も一生俺を守れ』


 濁り無き言の葉がエレの耳朶を打ち、やや遅れてから、喜びが波となって胸に打ち寄せた。

「私も、あなたの傍にずっといられる方法を考えたんです!」

 両手を打ち合わせて、心に秘めていた名案を口にする。

「私が王族の外に出れば良いんですよね。セァク皇族の女子が降嫁した前例は沢山ありますし、王位継承権はヒカとプリムラの子に行きますから、後々面倒な事になりませんし」

 インシオンがあっけに取られて口を変な形に開け、しばらく経ってから、「……お前が?」と見事に間の抜けた声を洩らした。

「世間知らずのお姫様が一般人になって生きていけるかよ」

「あら」

 エレは意地悪く笑ってインシオンの唇を指でつつく。

「一生守るって、今、この口が言ってくれたではありませんか。困った時はちゃんと助けてくれますよね」

 インシオンがぐっと言葉に詰まって、苦いものを呑み込んだように顔をしかめた。

「お前、本当に言うようになったよな。最初の頃は『ごめんなさい』だの『すみません』だのばっか言って縮こまってたくせに」

「あなたのおかげです」

 それは嘘偽りない真実だ。インシオンとの出会いがエレを変えた。箱庭で目と耳を塞がれて暮らすばかりだったエレを、果てしない世界へ連れ出してくれた。いや、それより前、十四年前からずっと、彼はエレの英雄であり世界そのものだったのだ。それがこれからも続く事を思えば、幸せで幸せで仕方無い。

 インシオンが腹をくくった――というよりは半ば諦めたように息を吐いた。長い前髪が揺れた後、口元がゆるく笑みを象る。

「まあ俺も、逃がさねえって言ったしな。責任取るしか無いよな」

 頼もしい腕がエレの身体を抱きすくめる。

「お前は他の誰にも渡さねえ。その代わり、俺のこの身体も命も魂も、全部お前のものだ。信じろ」

 エレはしっかりとうなずき、両の腕を伸ばして抱擁を返す。それ以上の言葉は必要無く、ゆっくりと唇が重ねられる。

 二人の周りを金色の蝶が一羽、光の粒子をまき散らしながらふわふわと漂い、遙かなる高みへと吸い込まれる。

 破神タドミールの血から解放された恋人達を見守る空はきっと、同じ星々を抱いて地上を照らすのだろう。

 遙か、未来の彼方でも。

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