9 王太子との対面

「エレ!」

 セイ・ギの襲撃で壊れて修理中の玄関を、もう一度壊しそうな勢いで開けて乗り込んできたのは、大きいカナタだった。息せき切って飛び込んできた青年は、人様の家であるにも関わらずどたばたと両親の寝室に駆けてゆき、ベッドの上で昏々と眠るエレにがばりとしがみついた。

「エレ。僕だよ、目を覚ましてよ」

 父やきょうだいの目の前で、完全に少年時代の駄々っ子に戻ったかのように、大きいカナタは、母にとりすがって今にも泣き出すのではないかという声で呼びかける。

 エレは応えない。閉じられたまぶたが開かれる事は無い。あの襲撃で倒れた母は、報せを受けたヒョウ・カ王が遣わした、口の固い王家つきの医者が診ても、脈拍も呼吸も正常で、外傷も無いとの事だった。ただ、意識だけが戻らない。

『消えろ』とセイ・ギはアルテアを放った。このまま目覚めない可能性がある。いや、ある日突然命の炎が消えても不思議ではない状態だ。

 エレ、エレと連呼する大きいカナタの隣で、父は椅子にかけて腕組みし黙りこくったまま、下を向いている。肩の傷は小さいエレが皆の目の前でアルテアを使って治し、もう痕も無い。カナタの傷も『神の血』で完全に癒えていた。

 父はいつもなら、青年が母に近づけば、渋面を作って遠ざけようとするのに、「黙れ」とも言わないし、頭を小突いたりもしない。ここまで意気消沈する父を、カナタは初めて見た。同時に、どれほど父が母を想っているのかを、もう怪我は治ったのに、まだ傷口が開いて血が流れ出すようなうずきと共に痛感した。

 一家の大黒柱は間違い無く父だが、精神的支柱は母なのだというのを、父やきょうだい達の落ち込みぶりから、カナタはひしひしと感じた。太陽のような母の笑顔が、どれだけ家族の心に温かい灯をともしていてくれた事か。このまま母と、新しく生まれくるはずの弟か妹が失われれば、一家は二度と明るさを取り戻せないだろう。

 母にすがりつく大きいカナタの横で、小さいエレが複雑な思いを孕んだ瞳で青年を見つめている。母を目覚めさせるにはセイ・ギを見つけ出してアルテアを解呪させるしか無いと、彼女は言った。しかしセイ・ギがどこへ消えたのか。誰も知らないし、見当もつかない。手詰まり感にじわじわと絶望が心へ忍び寄ってきた時。

「カナタ」

 大きいカナタが開け放した玄関から、無感情な少女の声が自分を呼ぶのが聞こえて、カナタはそちらへ向かう。この声が誰かを呼ぶ時は、ほぼもう一人の自分に対してなので、今回もそちらを呼んでいるのかと思ったが、彼女は彼を「団長」と呼ぶ。名前呼びは自分だろうと判断した。

 果たして顔を見せた時、少女マリエルは怪訝な表情を見せなかった。自分が出ていって正解だったのだろう。

「ユウキ殿下がお呼び。一時間以内に城に来て」

 小柄な密偵は相変わらず淡々とした調子で用件だけを述べると、さっさと雪道の向こうへ消えた。別に特段親しく歩み寄りたい訳ではないが、もう少しだけでも愛嬌というものが無いだろうか。憮然となったが、しかし、言われた内容を脳内で反芻して、内心慌てる。

 ユウキは統一王国の王太子だ。国王ヒョウ・カと母エレに血縁関係は無いが、王妃のプリムラと父インシオンが腹違いの兄妹なので、カナタとユウキは血の繋がりがある従兄弟になる。

 生まれた順番だけで言えばイシャナ王位継承権第一位になるはずだった父が、何故王座に就かなかったかについては、父自身は口を閉ざして語ってくれなかった。ただ、旧イシャナの王族には双子が産まれた場合片方しか残さない因習があったと、母が父の育ての親について話してくれた時に触れた記憶がある。そのため、カナタが生まれる前に亡くなった伯父レイが最後のイシャナ王として立ち、双子の弟である父は退役軍人の養父に預けられたのだ。

 とにかく、第一王子に名指しで呼び出しを受けたのだ。たとえ家の事情が込み入っていても、遅参する訳にはいかない。いや、もしかしたら、カナタの家の状況がこうだからこそ、ユウキは何かをカナタに話すつもりなのかもしれない。

 自室へ飛び込んで騎士服をまとう。襟元まできちんと釦をかけて姿見をのぞき込んだ時、もしかしたらこうしてきちんと母が洗濯をした服を用意してくれる事がもう無くなるかもしれない、と思うと、うそ寒い風が心を吹き抜けていった気がした。

 階段を駆け降りると、玄関先で待ち構えている小柄な影をみとめて、カナタは思わず足を止める。ユーリルだった。薄い唇を引き結んで、星を宿した黒の瞳でじっとカナタを見つめている。

「私も連れていって」

 予想通りの台詞を彼女が舌に乗せた。

「でも」

「私だって一応姫よ。王太子にお会いしていけない理由が無い」

 そう詰め寄られては、カナタはぐっと言葉を呑み込むしか無い。

「それに」

 ユーリルが接吻できそうなほどに近づいてきて、真剣さを帯びた瞳で、こちらをまっすぐに見上げた。

「あなたやそのご家族が大変な目に遭っているのに、私だけ部外者にされるのは嫌。きちんと状況を知りたい」

 本当は、ユーリルをこの事態から遠ざけて、すぐにでも西方に帰したかった。セイ・ギに狙われている小さいエレの近くにいれば、戦いに巻き込まれる事は否めない。それに、『神の血』を得た自分を見た彼女の心が、離れてしまっていく事が恐かった。今はまだ、傷がすぐに癒える事しか知られていないが、破獣カイダに変わる事実が露呈した時、彼女がどんな目で自分を見るか。どんな感情を抱くか。それを想像すると、『神の力』を手にした時の昂揚感が嘘のように、鬱屈した気持ちになる。

 だのにユーリルは、カナタから離れるどころか、大きく踏み込んできて、のけ者にするなとまで言う。

 自分も、覚悟を決めるべきなのだろうか。

「……わかったよ」

 カナタが嘆息して、吐き出すように応えると、少女の瞳がぱっと輝いた。その光が恐怖に曇る日が来る事を、カナタがひどく恐れているとも知らずに。


 ユーリルを連れて早足で大通りを抜け登城すると、話は既に入口の衛兵にも通っていたのか、すぐさま王太子の部屋へと案内された。扉が開かれた途端、室内の暖気がふわっと漂ってきて、雪の積もった道を歩いてきてかじかんだ身体を温めてくれる。

「やあ、カナタ。待っていたよ」

 いつも王やその親族の護衛をしているので姿は見ているが、いくら従兄弟とはいえ王太子と一介の騎士なので、こうして個人的に顔を合わせる機会は多くはない。それでも、フェルム第一王子ユウキは、親しげな雰囲気を赤紫の瞳に込めて、カナタを出迎えてくれた。

「父上から話は聞いた。大変だったね」

 カナタもそれなりに上背はあるが、ユウキはやや細身なものの更に縦に長い。小さい頃には城の中庭を一緒に走り回った、ひとつ年下の従弟は、くるくるした金髪を揺らしながら警戒心の欠片も無く歩み寄ってくると、カナタを抱き締めて親愛の情を示した。武器を隠し持っていたら完全に隙を突かれるからたとえ身内でも気を許すな、と、父インシオンが口をすっぱくして言い聞かせているのだが、肉親に甘いこの王太子は、従兄への態度を改めるつもりは無いらしい。

「しかし、ユスティニア姫もご一緒とは」

「殿下のご許可無く従兄殿についてきた非礼を、お許しください」

 ユウキがカナタから腕をほどいてユーリルに向き直ると、彼女は口調を改めて深々と頭を下げる。「いや」と王太子は首を横に振り、苦笑まじりに言った。

「もうあなたも事情を知ってしまった。それにカナタの許婚いいなずけでもある。関係者の内だ」

 そういう言葉が出て来るという事は、やはり『神の力』に関する話か。カナタは唇を引き結ぶ。

 ユウキはイシャナとセァクを継ぐ者として、先祖達が犯した罪も全て背負うようにと、父親のヒョウ・カ王から、両国の因習や、王族皇族のみしか知りえない秘密を全て伝授されている。そこには、カナタが大人達から聞いた中に含まれていない話も、当然存在するのだろう。

「とりあえずまずは、茶を飲んで温まってくれ」

 ユウキの言葉に合わせて、侍女がカートを押して茶と焼き菓子を運んでくる。王太子がソファにかけて向かいの席をすすめるので、カナタとユーリルも一礼して座った。カモミールとミントの香りが合わさり漂う茶が注がれ、バニラとココア、二つの味が楽しめるクッキーに、卵白を泡立てて焼き上げた、色彩豊かなマカロンが盛られた菓子皿がテーブルに置かれる。西方には無い菓子にユーリルの瞳が輝くのが、傍からもうかがえた。

 ユウキが侍女や衛兵達に退出するように命じて、部屋には王太子とカナタとユーリルの三人が残る。カップに口をつければ、清涼さが舌に触れ、鼻腔を抜けてゆく。遅れてじんわりとした温かさが身にしみて、昨晩からどれだけ落ち着かない時間を過ごしていたのか、カナタは今更ながらに思い知った。

「伯母上が倒れられた事も聞いた」同じように茶をすすったユウキが、カップをテーブルの上に置きながら、ぽつりと洩らす。「襲撃者の目的も」

 人払いをしているのに敢えてセイ・ギという名を出さなかったのは、セァクの血を直系で継ぐユウキの、無意識の忌避感だったのだろうか。

「ここからは僕の推論で申し訳無いが、語らせてくれるかな」

 こちらを見つめてくる従弟の眼差しは真剣で、決して何か突拍子も無い冗談を言おうとしているのではない事がうかがえる。カナタが深くうなずくと、ユウキはひとつ息をつき、再び口を開いた。

「彼がこの時代でも破神タドミールの力を広めようとしているなら、アルセイルに向かう可能性があると思われるんだ」

 アルセイルの事は、カナタもよく聞き及んでいる。古代の技術によって、南海の決まった航路を辿る島国。かつて失われたヒノモトという国の研究者が、アルテアと破神を生み出した因縁の地でもある。

 皮肉にも、『アルテアの巫女』を求めるかの国が、若き日の母をかどわかした事が、統一王国との交流のきっかけで、現王アーヘルの長女ルリが将来ユウキに輿入れし、後継ぎ王子のいないアルセイルへは、ユウキの弟であるフェルム第二王子ハルカが次女アーシェに婿入りする事で、互いの国を存続させる事が決まっている。

『王族って大変よねえ。血筋が途切れたら駄目だとかで、結婚相手を決められちゃうんだから』

 だから私は父さんと母さんみたいに自分の意志で運命の人を選びたい、と、双子の姉ミライはぼやいていたが、少なくともフェルムの王子二人を見ている限り、政略結婚だから嫌々ながら、という印象は全く感じない。実際ユウキには、王太子にあるまじきでれでれ顔で、ルリ姫からの手紙を見せられた事が何度かある。

「本当に彼が千年前から来たなら、アルセイルの失われた技術を蘇らせて、世界に侵攻してもおかしくはない」

 しかし今、そんなお惚気はカナタの見た幻だったかのように、ユウキは王太子の威厳を保って、深刻に言葉を継ぐ。黙々と菓子を頬張って、三個目のマカロンに手をつけようとしていたユーリルの動きもさすがに止まった。

「統一王国を継ぐ者として、そんな脅威を放っておく訳にはいかない。だけど、僕は自由には動けない身だし、何より剣はからきしで、『神の力』も無い」

 だから、と膝の上で手を組み、神妙な赤紫の眼差しが、カナタを射抜く。

「力を持つ君に頼るしか無い。憶測で物を言っている上に身勝手だとは思うが、どうかアルセイルに行って、悲劇が起こるのを未然に防いではくれまいか」

 申し訳無さげにユウキは告げるが、しかしカナタの中で既に心は決まっていた。

「わかりました」

 即答に、頼んできたユウキ自身が驚いて目をみはる。だが、このまま何も行動を起こさずに相手の出方を見ていては、後手後手に回るばかりだ。時を経るほどに母の生命も危険になってゆくだろう。ならば、小さいエレを連れて王都を離れた場所で、セイ・ギをおびき出し決着をつけるのが、最善の方策であると思われる。相手がつられるのが可能性の話だとしても、だ。

「ありがとう」

 ユウキがほっと息をついて組んでいた手を解いた。

「ディルアトに遣いを送って、船と人員を確保しておくよ」

 ディルアトは大陸南部の港町である。外の大陸と交流を行う都市の中でも最も古く、そして栄えている。アルセイルの荷物が大陸に届く時、逆にアルセイルへ人や物を運ぶ時に通るのは、まずここだ。

あにいにも頼んで、今日明日には出発します」

 カナタの返答に、隣でユーリルが何かを言わんと口を開きかけたが、王太子の前だという事を思い出したか、ぐっと呑み込む。

 小さいエレには申し訳無いが、セイ・ギを誘い出す為には、ついてきてもらうしか無い。大きいカナタにも迷惑をかけるが、父を母の傍から離すのは酷な今、『神の力』を知っている頼れる大人は、彼しかいないのだ。

 自分は『アルテアの魔女』と『黒の死神』の息子だ。たとえ無茶を伴うとしても、始める前から「できない」とは言いたくない。それに、紙の系譜上しか繋がっていないとはいえ、セイ・ギは先祖だ。過ちを犯している彼を糾すのは、子孫である自分の役目だと思った。

 これでユウキとの話はついた。茶をぐっと飲み干し、席を立とうとした時。

「カナタ」

 王太子も立ち上がって、カナタの手に細長い箱を滑り込ませた。

「アルセイルに着いたら、ルリにこれを渡してくれないか」

 中を見ても良いか視線で問いかけると、うなずき返されたので、箱の蓋を軽く開けてみると、陶器製の白椿が飾られた銀の髪飾りがのぞいた。ルリ姫の艶やかな長い黒髪によく似合いそうだ。アルセイルへ行ってくれという頼みの直後にこれでは、もしかしてユウキは、この件もあってカナタにアルセイル行きを望んだのではないか、という邪推が浮かんでしまう。

「あ、いいなあ」

 帰る前にとクッキーを口に含んでいたユーリルが、ごくんと嚥下した後、心底羨ましそうに呟く。

「カナタはこういう物を買ってくれませんか?」

「全然ですよ。女心をわかっていないったら」

(服を買ってあげたじゃんか)

 すっかり旧知の仲のように親しげに言葉を交わす、フェルム王太子と西方の姫の隣で、カナタは肩を落としひっそりと溜息をつくのだった。

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