8 正義という名の悪魔

 ぞくり、と。

 得体の知れない違和感を覚えて、カナタは目を覚ました。カーテンを引き忘れた窓から差し込む月光を頼りに時計を見れば、針は未明を示している。

 カナタの自宅に泊まってゆく事になったユーリルは、姉の部屋で布団を借りた。かなり遅くまではしゃいだ声が壁越しに聞こえていたから、意気投合して女同士の話が盛り上がっていたのだろう。

 小さいエレは両親と共にいる。万一何かがあった時、父が守れるようにしたのだ。

 だが、この感覚は一体何だ。不安の種がじわじわと芽吹くのを意識しながら、カナタはベッドからはい出た。予感があって、壁に立てかけてある剣を手にする。

 直後。

 どん、と何かが吹き飛ぶ大きな音がして家が揺れた。予感は確信に変わり、カナタは抜剣して部屋の扉を開けた。

「何なの!?」

 姉やユーリルも隣室から飛び出してくる。

「なに?」

「地震……じゃないよね」

 トワやスウェンも伊達に『黒の死神』の子ではない。すっかり覚醒した様子で心配顔を見合わせ、きょうだい達は階下へと階段を駆け降りた。

 一階には両親の部屋がある。父母の無事を祈りながら階段を降りきって視界に入ってきた光景を見て、カナタは思わず目を見開き立ち止まってしまった。

「カナ……!」

 背中にぶつかりそうになったミライが怒声をあげかけて、同じものを目にし、絶句してしまう。後ろに続いたユーリルも、トワとスウェンも、信じられないと息を呑む気配がした。

 廊下で父が剣を手にしたままうずくまっている。『破神タドミール殺しの剣』と呼ばれた、人並み外れた破神の因子を持つ者にも有効な、透明な刃。父はそれを今も相棒として使っている。訓練で演武を見た事があるが、父の剣は流麗とは縁遠いが隙が無く、二つ名通り死神として多くの敵を屠ってきた人生の積み重ねを感じさせる力強さを誇っていた。

 だがその父が今、膝をつき、左肩には血がにじんでいる。その傷を負わせたのは誰か。視線で辿り、カナタは更に目をみはった。

 少年だった。褐色の肌に尖った耳介はセァク人か。カナタとそう年齢は変わらないだろう。父の半分も歳を取っていない侵入者が父に膝をつかせた事にまず驚き、その手元を見て、カナタはまたも驚愕するはめになった。少年の手に握られているのは、透明な刃の剣。しかも全体の造形から柄の詳細まで、父が所持しているものと寸分違わない。

 父の破神殺しの剣は誰からもらったものか。もとい、歴史の中で誰の手を経てきたか。それは実際に過去未来を行き来した大きいミライから聞き及んでいる。だがその人物は、千年前に存在したのではないか。ここにいるはずが無い。

「また余計な人間が増えたね」

 カナタ達の驚きを置き去りにして、少年が笑う。悪しき神が生贄を前にする時にはこのような表情ではないか、と思われるほどに、邪悪な笑みだった。

「でも、邪魔はさせないよ。僕の大事な大事なミライを取り戻す邪魔は」

 即座に、きょうだいの視線が長姉に集まる。

「私?」

 ミライが眉を跳ね上げると、少年はしばらくきょとんと呆け、姉の顔をまじまじと見つめた後、「ああ」と得心がいったように口元を持ち上げた。

「君がここのミライなんだね。でも」

 ついと視線がミライから逸れ、一方向でびたりと止まる。

「僕のミライは、そこのミライだ」

 全員の目がつられてそちらを向く。そこには、母の腕に抱かれながら少年を見る、小さいエレの姿があった。

「私は、ミライではありません」

「違うよ」

 小さいエレがしっかりとした口調で否定しても、少年の瞳は曇ったままで、自分は間違っていないという自信に満ちた声をあげ、陶酔するように両腕を広げる。

「僕がアルテアでミライに生き返ってと願ったら、君が現れたじゃないか。君はミライだよ」

「屁理屈を……!」

 手傷を負ったままの父が唸る。少年は鬱陶しげに父を見やると、いきなり、がつ、と靴を相手の顔面に叩き込んだ。

「ミライの父親だか何だか知らないけど、僕の邪魔をするっていうなら、消すよ」

 濁った黒い瞳がすっと細められて、破神殺しの剣の切っ先がインシオンに向く。弾かれるように、カナタは剣を振りかざすと、父と少年の間に割って入った。少年が少しだけ驚いた様子で剣を掲げ、剣戟の甲高い音が夜の廊下を駆け抜ける。

「その顔」嫌なものを見た、とばかりに少年が唇を不快に歪めた。「そうか、君がここのカナタか」

 カナタは応えず剣を横薙ぎにする。少年が剣の腹で受け流すのは予測がついていたので、すぐさま威嚇で下から振り上げる。少年が舌打ちをしながら飛びすさって距離を取った。

 カナタの中では、目の前のこの侵入者が誰なのか、予測がついていた。小さなエレをアルテアで呼び戻した。破神殺しの剣を持っている。そしてセァク人と同じ姿。

「お前は、セイ・ギか」

 低い声で詰問すると、少年は軽く目をみはったが、すぐにその目を愉快そうに半月型にする。

「僕の事がわかる人間がいるとはね」

 それが答えだ。カナタは翠眼を細めると、気合いを吐いて再び少年――セァク初代皇帝セイ・ギに斬りかかった。

 セイ・ギはアルセイルの冴えない一研究者であったという。だが、アルテアと『神の血』を得た事で、人並み外れた身体能力を手に入れた。たとえそれがこの世界の歴史であるとは言っても、平行世界でも同じ事が起こっている可能性が高い。

 そしてカナタの危惧通り、セイ・ギの戦闘力は凡人を上回っていた。こちらの一閃をひらりとかわしたかと思うと、剣を払ってくる。透明な刃は太刀筋を見切れない。咄嗟に自分の得物を縦に掲げれば、かきん、と甲高い音がして至近距離で刃が弾かれた。

 セイ・ギはにたりと笑うと、間断無く武器を振るってくる。反撃の糸口をつかめないまま、カナタは一歩、二歩と後退を余儀無くされた。

「いい気になるな!」

 余裕の笑みを浮かべる敵に毒づいて、一歩踏み込む。上段から振り下ろした渾身の一撃は、しかしセイ・ギが軽く床を蹴って跳ねる事でかわされた。

 初めて破獣カイダに相対した時と同じ過ちを犯した、と気づいた時には遅かった。月光を受けた透明な刃がぎらりと光ったかと思うと、凶器はカナタの肩から腹にかけてを、容赦無く斬り裂いた。

「――カナタ!」「兄ちゃん!?」

 ユーリルが、きょうだいが悲痛な叫びをあげるのが聞こえる。熱を覚えた後に、激痛が全身を苛む。呼吸が上手くできない。力が抜けて手から剣が落ち、カナタはがくりと膝をついて床に倒れ込んだ。

 セイ・ギはそれきりカナタには興味を失ったようにふいと顔を逸らすと、ゆっくりと小さいエレの元へと歩み寄ってゆく。

「さあミライ、行こうよ。僕と君とで、破神の血を持つ人間の国を創り上げれば、誰も僕らに逆らえない」

 やけに優しく囁いて、小さいエレに手が伸ばされる。しかし、その手をぱしんと叩き落とした者がいた。

「馬鹿たれ……っ!」

 父が肩の傷に耐えながら声を発した。まだ痛みに襲われる中、のろのろと顔を上げる。小さいエレを守るように彼女の前に立ちはだかって、セイ・ギを睨みつけているのは、他でもない、ある意味同一人物の母だった。

「私には全ての事情はわかりませんが」

 母は『アルテアの魔女』と呼ばれていた頃を彷彿させる、凛とした光を翠眼に込めた表情で、言葉を紡ぐ。

「望まぬ事を他人に強いる人を、放っておく訳にはいきません」

 セイ・ギがぽかんと口を開け、それから、次第次第に怒りの炎を瞳に燃やすのがわかった。

「……お前、生意気だ」

 少年は胸元から、血を凝縮したように真っ赤な石のついたペンダントを取り出したかと思うと、おもむろにそれを口につける。父も母も驚きに息を呑むのが、気配でわかる。

『お前は消えろ』

 目をみはる母の前で、セイ・ギのかざした手から虹色の蝙蝠が生まれる。それがひどく邪悪な黒に輝いた瞬間、小さいエレが即座に唇を噛み切って血を含み、叫んだ。

『消えない!』

 今度は虹色の蝶が生まれ、橙色に輝いたかと思うと、黒い蝙蝠めがけて飛ぶ。蝙蝠と蝶が母の眼前でぶつかり合い、破裂音を立てて砕けた直後、その破片をもろに浴びた母が弾かれたようにのけぞった。空気が抜けたかのごとく、母がその場に崩れ落ちてゆく。

 話の中でのみ聞いていた、初めて目にする、言の葉の力『アルテア』だった。

「――エレ!?」

 いつになく取り乱した様子の父の叫びが、夜の廊下に響き渡った。カナタはぐっと拳を握り締め、自分の身体を叱咤する。破神の因子を持つ人間にも致命傷を与える、破神殺しの剣による傷は、まだ熱を持っていたが、既に塞がり始めていて、動けないほどではない。ふらりと立ち上がると、再び剣を手にし、小さいエレのアルテア発動に動揺して完全に隙を作ったセイ・ギに向けて斬りかかる。不意討ちの一撃は相手が振り向くより速く敵をとらえ、浅くだが確実に脇腹を斬り裂いた。

「……どいつもこいつも、僕の思い通りにならないか」

 しかし腹からの出血も気にならないのか、セイ・ギは鬱陶しそうに舌打ちする。

「まあ構わないさ。ミライはいつでも手に入れられる。お前達はその女が死んでゆく様を、手をこまねいて見ていればいい」

 そして再び赤い石を口に含んで何事かを呟く。虹色の蝙蝠が紺色に輝いて彼の肩に止まったかと思うと、その姿は揺らめいてその場から消えた。

「カナタ!」

 緊張が解けてよろめいたところに、ユーリルが慌てふためいて駆け寄ってくる。白い寝間着が血に汚れるのも構わずにカナタの身体を支えてくれた彼女は、「手当を……」と言いかけて中途に打ち切り、目を丸くする。

 カナタの出血はもう完全に止まっていた。傷跡もほとんど残っていないだろう。彼女にも、家族にも隠し立てできないほどの速度だった。

「エレ!」

 だが、恋人が何かを言いかけるより先に、父の悲痛な声が耳を刺し、その場にいる全員の視線がそちらを向いた。

「エレ、おい、しっかりしろ、エレ!」

 父が母を抱き起こして必死に呼びかけている。だが、母はぐったりと脱力して応えない。どこにも傷を負った様子は無いし、目も開かれているのだが、焦点が定まっていない。

「エレぇぇぇっ!!」

 こんなにも我を失って大声をあげる父を、いや、『英雄』の姿を、カナタ達は初めて見た。そして、それをもたらした悪魔の存在に、戦慄するのだった。

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