7 女三人寄れば

 いたたまれない。

 十数年慣れたはずの自宅、食堂兼台所ダイニングキッチンのいつもの席についていながら、カナタはこの場から全力で逃げ出したい衝動に駆られていた。

「お義母かあ様、私にお手伝いできる事がありましたら、遠慮無くおっしゃってください」

「大丈夫ですよ。ユーリルさんはお客様なんですから、どうか気を遣わないで」

「そうよ、座って座って! 西方の話を聞かせて欲しいわ」

 将来嫁と姑と小姑になる女三人が、台所で和気藹々と言葉を交わしている。観劇を楽しんだ後自宅へユーリルを連れ帰ったところ、女性陣は初対面で打ち解けてくれた。それはありがたいが、三人のあまりの適応力に、何故かこっちが恥ずかしくなる。

「でも、お義母様やお義姉ねえ様ばかりにご負担をかけては」

「わあ! 『お義姉様』だって、『お義姉様』! 『姉さん』ってちゃんと呼ばないどこかの生意気小僧に聞かせてやりたい!」

 双子の姉の嫌味を存分に込めた声が耳に刺さった。

「良いんですよ。いつも六人分の食事を作ってますから、一人や二人分増えたところで、変わりはしません」

 母は嬉しそうに眉を垂れて、それにしても、とやんわりとした笑みを浮かべながら、サラダの盛られた大皿を抱える。

「お義母様なんて呼ばれるのは、くすぐったいですね。どうかエレ、と呼んでください」

「そんな!」ユーリルが恐れ多いとばかりに両手を振って、裏返った声をあげた。

「『アルテアの巫女』エン・レイ様の活躍は、西方にも響き渡っています。そんな偉大な方をお名前でなんて」

「昔話ですよ。今は何の力も無いただのおばさんです」

 母は照れくさそうにはにかんで、サラダをテーブルに置くと、次は香草焼きの皿を手にする。

「私もあなたをユーリルと呼び捨てにしますから。それなら良いでしょう?」

 伝説にも等しい人物に名を呼ばれて、ユーリルの頬があっという間に赤くなる。彼女はしばらくの間落ち着き無く視線を彷徨わせたが、やがておずおずとカナタの母を見て、

「では……、エレ、さん、と」

 と上目遣いで相手の反応をうかがう。対して母は、子供のように無邪気に目を細めて、満足だとばかりに首を縦に振った。

 醤油ベースのドレッシングをかけた葉物のサラダ、五種のチーズ、鶏むね肉の香草焼き、牛肉のシチュー、煮込み魚、粗目ざらめ付きのパン、それと湯気を立てる温かい紅茶のカップが人数分載った食卓に、四きょうだいと客人、そして母がつく。

「そろそろあの人も帰ってきておかしくない時間なんですけど」

 壁にかけられた時計の針の位置を見ながら母が洩らすと、玄関の開閉音がした。

「父さんだ!」

 末っ子のスウェンが嬉々として椅子を蹴るように立ち上がり、「お帰りなさーい!」と歓声をあげながら玄関へと駆けてゆく。しかし直後、「あれ?」と戸惑い気味の声が聞こえてきた。

「父さん、その子、誰?」

 父が何事かを弟に告げているようだが、食堂まで声が届かない。皆で怪訝顔を見合わせている内に、父インシオンがスウェンと共に姿を現した。

 父の後ろからひょこりとついてきた人物を見て、カナタは息を呑む。ツァラで巡り会った小さいエレだった。

「陛下の遠縁の子だ。しばらくうちで面倒を見る」

 少女の赤銀髪を撫でながら、父は語る。恐らく叔父やもう一人のカナタと示し合わせたのだろう。不意に父の視線がこちらに向き、『合わせろよ』と無言で言い聞かせてくるのがわかったので、カナタは他の家族やユーリルに気づかれない程度に浅くうなずいた。

「夕ご飯を沢山作っておいて良かったですね」

 自分によく似た幼子を警戒していないのか、それとも何かを感じつつも夫を全面的に信頼している故なのか。母は何ら問い詰める事も無く微笑んで、予備の椅子を持ってくると自分の隣に置き、小さいエレを手招きする。ある意味母と同一人物の少女は、数瞬躊躇ったように見えたが、やがて意を決したか、唇を引き結ぶと、ちょこんと椅子に腰掛けた。父も食卓につき、母が旧セァク領コーツ特産の酒が入ったグラスを、彼の手元に置く。

「いただきます」

 食前に全員で両手を合わせるのが、カナタの家の常識だ。その文化の無いユーリルも、戸惑い気味ながら見よう見まねで手を合わせ、夕飯は始まった。

 ユーリルは、取り分けられた西方には無い料理に、目を白黒させつつも興味津々で、次々と腹におさめてゆく。彼女が健啖ぶりを発揮するのが嬉しいらしく、母もにこにこ顔で見守る。姉や弟妹はユーリルに西方の騎馬民族の暮らしぶりを訊ね、料理を口に含む合間に、ユーリルは質問に答えて、和やかな雰囲気で夕食の時間は過ぎた。

 そんな中、カナタはそっと、母の隣に座ったもう一人のエレに目をやる。少女は鶏肉をフォークでつつき、時折向かいの父の方へ視線を送っている。やはり、亡くした夫と同一人物の存在が気になるのだろうか。父は気づいているのかいないのか、酒をなめつつゆっくりと料理を味わっていた。

「ユーリル、お茶のおかわりは要りますか?」

「あ、はい。すみません、お願いします」

 客人のカップが空になっていた事に気づいた母が声をかけると、ユーリルは恐縮しながらも白いカップを差し出す。が、それを受け取ろうとした母は、「あ」と小さな声をあげて、ふらりとよろめいた。受け取り損ねたカップが床に落下する。

 カナタは反射的に左手を伸ばしていた。受け止めようとしたカップが、カナタの手の上でがちゃんと音を立ててまっぷたつになり、欠片で切れた掌からじんわりと血が溢れ出す。

「ちょっ、カナタ! 何やってんのよ!」

 双子の姉が驚愕し、椅子を蹴って立ち上がった。

「どう考えても割れる物に手を出すなんて、馬鹿じゃないの!?」

「ごめんなさい!」ユーリルも青ざめて腰を浮かせる。「私がちゃんと持っていなかったから」

「いいえ、ごめんなさい。私のせいですね。きちんと受け取らなかったから」

 母が気まずそうに目を細める。その顔色は心なしかさっきより血の気が引いて白くなっていた。それを見て、父が眉間に皺を寄せる。

「お前」

 赤の瞳に鋭い光を宿して、父は母を睨みつけた。

「そういや飯もろくに食ってねえな。体調悪いなら無理すんな」

「い、いえ」母は首をぶるぶる横に振り、何かを言わんとしているのか、口元に手を当てて、一、二回躊躇う。「病気ではありませんから」

 じゃあ何だ、という視線が集中する。母はその場に居合わせる全員の注目を浴びて決まり悪そうにしながら、

「今日の主役はユーリルですから、後日落ち着いてから言おうと思ってたんですけど……」

 と口ごもる。

「いいから早く言え」

 少々怒ったふうな父に促されて、観念したか、母はすとんと椅子に座り込み、「あの」おずおずと微笑んだ。

「……赤ちゃんができました」

 途端、その場に奇妙な沈黙が落ちた。

 最初に現実に追いついたのは姉ミライで、「嘘っ」とよろめいてしまう。

「ほんと、本当!?」

 妹のトワが赤い瞳をきらっきらに輝かせて身を乗り出すと、母はしっかりと首肯した。

「お医者様に診ていただいたら、間違いないだろうと」

「やった!」スウェンが両手を叩いてはしゃぐ。「これでおれもう、一番下だからって姉ちゃん達になめられないで済む!」

「でも大丈夫なの? 母さんの歳で産むって」

 ミライが心配そうに訊ねると、それでも母は笑顔でうなずく。

「お医者様の見立てでは、過去に四人産んでいるから危険性はまだ低いだろうという事です。それに、世の中には四十を過ぎてから子を産んだ人もいますから」

 まさか十代も後半になってから、新しい弟か妹が増える羽目になるとは思わなかった。

「おめでとうございます」

 ユーリルの祝福の言葉に、母は照れくさそうに頬を赤く染めて、「ありがとうございます」と軽く頭を下げ、「父ちゃん、やるう」とトワがにやにやしながら父を振り仰いで、拳で軽く頭を小突かれころころ笑いを洩らした。

「めでたいのは良いが」半ば呆れた様子で娘を見ていた父の視線が、血に塗れたカナタの手に向く。

「手当てしないとまずいだろ。来い」

「あ、では、私が」

「お前は大人しくしてろ。俺の方が応急処置は得意だ」

 席を立とうとする母を制し、父はカナタを連れて隣室へと移動する。

「見せてみろ」

 静かだが有無を言わさぬ迫力に気圧されつつ、カナタはのろのろと、切れたはずの左手を差し出した。赤く染まった掌は一見痛々しく見えるが、既に傷は塞がり、新しく溢れ出す血は無い。

大きい方あいつから聞いて耳を疑ったが、エレまで現れたのを見て、信じるしか無かった」

 自己の経験を思い出しているのか、インシオンは苦々しく顔をしかめながら、手布で血を拭き取る。このまま傷の無い手をさらして戻っては、家族やユーリルの度肝を抜いてしまう。偽装の為に息子の手に包帯を巻きながら、父はぽつりと呟いた。

「お前達には、『神の力』とは関係無い場所で生きて欲しかったんだがな」

 そうして、苦味を呑み込んだかのように唇を噛み締める。まだ四十代半ばのはずの父の顔が、この時は五十か六十かのようにひどく老いさらばえて疲弊した獣のごとく見えた。

「あいつにも言われただろうが、お前とあのエレは、『神の血』を持っている事を他人に知られるな。ろくでもない事を考える奴はごまんといる。血を口にするだけで同じ力を得るから、誰にもお前の血に触れさせるなよ」

 その言葉に無言でうなずくと、頭に武骨な手が乗せられ、柔らかい黒髪をぐしゃぐしゃとかき回されて、とどめにぽんぽんと二回、掌で軽く叩かれた。正騎士になろうが、『神の血』を得ようが、この人にとって自分はいつまでも子供のままなのか。少しむくれると。

「カナタ?」

 ユーリルの声がして、部屋の入口から赤毛の少女が顔を見せる。責任を感じているのか、彼女は不安げに眉根を寄せていた。

「ごめんなさい。大丈夫?」

「平気だよ。気にしないで」

 本当に全く心配は無いのだが、それを口にする訳にはいかない。恋人にさえ隠し事をする後ろめたさを感じながら、カナタは食堂へと戻ってゆくのだった。

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